憧れの槍ヶ岳【本編3】

 

08/04 (木)

 

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ヒュッテ大槍前より

 

登山3日目、最終日の朝は4時に起床。昨日と同じく御来光を拝みます。本当は御来光だけでなく星空も見たかったのですが、午前4時では既に星はほとんど消えていて、こちらは作戦失敗でした。ほかの宿泊客には夜中トイレに起きたついでに外に出て星空を見たという人もいて、僕たちもそうしておけば良かったと思いました。

 

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それはともかく御来光です。

槍ヶ岳までコースタイム50分のところにあるヒュッテ大槍から東を望めば上の写真のような景色が広がっていますが、北側には、

 

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 このようにドンと、槍の穂先が構えられています。

 

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 槍の肩に見える灯りは槍ヶ岳山荘のもの。けっこう遠くにも見えますが、ヒュッテ大槍からは1時間足らずで行くことができます。

 

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4時50分頃 日の出

 

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朝陽を浴びる槍ヶ岳

 

さて、5時頃まで御来光を拝んだら、ヒュッテ大槍にて朝食をいただきます。

 

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 デザートまで付いたおいしい朝食

 

ちなみに、昨日の夕食はこんな感じでした。

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まさかの白ワイン

 

ヒュッテ大槍ではこの夕食時のワインが売りの一つのようで、食事もそれに合わせて洋食になっています。非常においしかったのですが、翌朝槍の穂先に登るつもりだったのでワインは控えました。自他共に認める酒好きのぼく、本当は飲みたくて飲みたくてしかたがなく、事実何度も誘惑に負けそうになったのですが、万全の状態で槍に登りたいという思いのほうが強く、どうにか抑えました。

ただ、目の前にあるとどうしても飲んでしまいそうだったので、食事の席で仲良くなった関西弁のおっちゃんに飲んでもらいました。おっちゃんありがとう。

 

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6:00 出発

 

朝食を食べ終えたらヒュッテ大槍を出発。いちどまた戻ってくることにして荷物を置かしてもらい、ヘルメットも借ります。

 

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下 (写真中央左寄り) に見えるは深田久弥が泊まったという殺生ヒュッテ (?)

 

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6:40 槍の肩に到着。ヒュッテ大槍から槍ヶ岳を仰いだとき、槍ヶ岳山荘が見えたところらへんです。

 

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写真下部左寄りに矢印があるのがお見えになるでしょうか。ここから穂先へ登ります。

 

「憧れの槍ヶ岳」と題して書いてきたこの記事もとうとうクライマックスを迎えるわけですが、ここから穂先 (山頂) までの道のりは今まででいちばんの難所であり、一瞬も気が抜けません。

岩場のトレース、鎖場、垂直な梯子……。槍の穂先といえばこの垂直の梯子のイメージが強いかもしれませんが、ぼくがいちばん怖かったのは鎖場や梯子が出てくる前の岩場のトレースでした。鉄筋が岩に打ち込んであり、それを掴んで登り、また足場にもするのですが、鉄筋と鉄筋の間が離れている箇所があり、登り方が見つかるまでが非常に怖かった。Sも怖かったと言っていました。ここは焦らず、登り方が見つかるまでは下手に足を踏み出さないほうが良いと思われます (ずっと止まっているのも怖いですが)。

Sはボルダリングの経験が役に立ったと言っていました。三点支持の感覚が身につけられるそうです。ぼくの場合は北アルプスに来る前に登った岩殿山の経験が生きました。あそこの稚児落としに至る鎖場も相当怖かったので。

 

というわけで登っている最中は緊張の連続で、もちろん写真なんて撮っている余裕はなかったのですが、後からカメラを見返すとなんとか1枚だけ撮っていました。

 

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しかもちょうどいちばん怖かった箇所

 

基本的には注意さえ怠らなければ初心者でも登ることができるそうですが、転落事故が起こることももちろんあるみたいなので、実際に見て「無理だ……」と思った方は引き返したほうがいいと思われます。穂先への道は登りと下りとでルートが分かれていて、いちど登り始めたら引き返せないというのもありますし。

また、Sのように事前にボルダリングで感覚を養ったり、低山にある (無理だと思ったら引き返せる) 岩場や鎖場で練習するのも手です。

 

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7:00 ついに山頂に到着

 

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槍ヶ岳山頂 標高3180m

 

槍ヶ岳の山頂からは日本百名山のおよそ半分ほどの頂が見渡せるそうです。この時はガスもほとんどなく、360度ぐるりを遠望することができました。

それにしても、この達成感!

 

「一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう」(深田久弥日本百名山』「槍ヶ岳」)

 

登山を始めて1年、とうとう槍の穂先に立つことができました。

こういう場合によく言われる、人生観が劇的に変わったとか涙が出たとかいうようなことはなかったけれど、それでも下界にいたら決して味わうことのない感情の高ぶり、また月並みですが、自然のスケールの大きさ——自然がまず先にあって、人間はあくまでそこにいるだけに過ぎないのだ——ということを肌で感じることができました。

間違いなく、これからの自分を変えていく出来事の一つになったと思います。

 

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7:25 下山開始

7:40 槍ヶ岳山荘 (槍の肩)

 

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槍ヶ岳からヒュッテ大槍に戻る途中の尾根

 

8:20 ヒュッテ大槍着

8:40 上高地に向けて下山開始

 

下山

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念願だった槍ヶ岳登頂も果たし、ついに山を下る時がやって来てしまいました。名残惜しいような、ほっとするような。ヒュッテ大槍にヘルメットを返却して荷物をまとめ、8時40分に下山を開始します。目的地の上高地までは長くなだらかな下りでコースタイム7時間50分。最後の踏ん張りどころです。

 

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バイバイ、槍ヶ岳。(半ば雲に隠れています)

 

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沢がありました。

 

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このあたりから沢の流れが川となり、その川に沿って歩いて行くことになるのですが、

 

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その豊かな水の、あまりの透明さに目をみはりました。

ちなみにこの川は梓川というのですが、andymoriが好きなぼくにとっては思い入れのある川でもあります。

 

帰り道のオリオン座 耳を澄ませた山びこ

遠くかすんでいく太陽 梓川 (andymori「優花」)

 

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写真では伝わりづらいかもしれませんが、登山道を横切る沢によってできた水溜まりです。驚くべき透明度。

 

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どんだけ水の写真載せんねんっていうね。でもそれくらいきれいだったんです。

 

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12:00 横尾山荘到着

 

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昼食

 

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12時40分、下山再開。横尾大橋を右手に見ながら上高地方面へ進みます。

ちなみに橋の方へ進むとコースタイム3時間の後に涸沢に至ります。ぼくたちは予備日の余りがあったのでこれから涸沢に行くという案も出たのですが、さすがに急過ぎるし、また今度の楽しみに取っておこうということになりました。金稼がないと……

 

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穂高方面。必ずや、いつか!

 

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さて、道はいよいよ平坦になり、これまでの2日間ではしんどくて沈黙しがちだったぼくとSも気楽に談笑しながら歩いていたのですが。

なにやら前方が騒がしい。さっきから、鳥だか栗鼠だかが鳴いているような甲高い声がする。いったいなんなんだ? そう思ってふと目をやると、

 

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猿がいました。

 

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親子(?) で仲良く歩く猿

 

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「もう歩けないよ、ママ〜」「まったく、しょうがないわねえ」な猿

 

猿を山で見たのは宮ヶ瀬ダムに自転車で行ったとき以来だったので、テンション上がりました。別にぜんぜん好きじゃないんですが。

 

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14:50 かっぱ橋到着

 

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ザ・上高地という感じの写真。

 

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グレートトラバースで田中陽希さんが食べていたジェラート。美味なり。

 

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かっぱ橋から上高地バスターミナルまでは10分ほどで行くことができます。ぼくとSはしばし上高地の景色を堪能した後ターミナルへ向かいました。いつ下山することになるか正確なところがわからなかったため帰りのバスは予約していなかったのですが、折良く新宿行のバスがあったのでそれに乗って東京へ戻りました。幸せな山行でした。

 

16:15 上高地バスターミナル出発

21:00 新宿バスタ

 

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「ねぎし」にて乾杯。この達成感たるや。

 

というわけで、無事に表銀座縦走、槍ヶ岳登頂を果たすことができました。今までお付き合いいただきありがとうございました。

細かい行程記録、山行の前に買った登山靴などの登山用品の感想、行ってわかったこと、反省点などは次回【振り返り編】にて書きたいと思います。【準備編】と同じく、主に初心者の方に向けて、実際に北アルプスに行ってみないとわからなかったことについて初心者であるぼくが書きたいと思います。

参考にしていただければ幸いです。(【振り返り編へつづく】)

 

 

憧れの槍ヶ岳【本編2】

 

 

08/03 (水)

 

 

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登山2日目は午前3時半に起床。御来光に向け、燕岳山頂へ向かいます。
初めてのナイトハイクでしたが、そこまで険しい道でもなかったので、特に怖い思いをすることもなく歩くことができました。ヘッドランプもぼくが用意したのは最大出力40ルーメンのものでしたが、事足りました (が、後日行った富士山では暗かったので、もっと明るいものを買ったほうが良いと思われます)。

 

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4:15 燕岳山頂 (2763m) に到着

 

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非常に分かりづらいですが、中央に槍ヶ岳が見えます。

 

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上の写真のアップ。これだと槍が分かる。

 

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徐々に白む東の空

 

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4:50 日の出

 

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姿を現す槍ヶ岳。あんなとこに登れるのか……? と不安になったり。

 

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まわりはこんな景色。

 

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心ゆくまで御来光を浴びたら、来た道を戻ります。

 

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5:40 燕山荘前のテーブルから

 

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今朝は燕岳がよく見える。

 

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朝食

 

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6:15 燕山荘を出発

 

もともと昨日、大天井ヒュッテまで行くはずがぼくの不調により燕山荘でストップしてしまったので、今日はコースタイム6時間35分のヒュッテ西岳を目指して歩きます。天気は昨日とは打って変わり、爽やかな晴れ模様。しかし昼からは雨との予報なので、先を急ぎます。燕山荘からのルートはいよいよ本番、表銀座縦走路。

ちなみにぼくの不調ですが、一晩寝たら順応したのか治っていました。ですが油断は禁物ということで、今日はこまめな水分補給とおやつ補給を心がけることにし、ポケットにたくさんおやつ類を忍ばせておきます。

 

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 これから槍ヶ岳までは北アルプス屈指の人気コース、表銀座縦走路。

 

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岩の合間を縫って進む

 

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矢印に従って進む。この先危険箇所。

 

燕山荘〜ヒュッテ西岳の縦走路は展望が良く、概ね気持ち良く歩くことができますが、時たまこうした危険箇所が出てくるので注意が必要です。

 

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表銀座縦走路。写真右側に槍ヶ岳が見えます。あそこまで行くのか……

 

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大天井岳まで3.5km。山頂には登りませんが。

 

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雲に半ば隠れていてもそ槍は目立つ。

 

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どこまでもつづく稜線

 

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滑落注意

 

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湖のようなものが見えました

 

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燕山荘を出発して3時間足らず、ようやく大天井ヒュッテを確認。当初の予定では昨日泊まるはずだった山荘です。

 

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9:00 大天井ヒュッテへ到着

 

表銀座は稜線なので緩やかな道だと思われるかもしれませんが、ところどころにアップダウンがあり、危険な箇所も何箇所かあるので気が抜けません。ここらでひと休みしたいところですが、雲が迫って来ているのですぐに出発。この日の宿泊予定地、ヒュッテ西岳を目指します。

 

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愛嬌のある道標に見送られながら出発

 

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雪渓が見えました

 

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山では天候に敏感になります。残りの行程にかかる時間を暗算し、それまで天気が保つかどうか、ペースを上げるべきかどうか常に悩みながら進まなくてはいけません (もっとも、たとえ要請されたところでペースを上げるなんてとうてい無理なわけですが)。

 

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・・・・・・・・・・・・ 

この後ももちろんぼくとSは表銀座を歩き続けたわけですが、よっぽど疲れていたのか、なんとこの日の写真はここで終わってしまっていました。なのでここからの道程についてはごく簡単に記しておこうと思います。

 

大天井ヒュッテ出発から約2時間後、10時50分にヒュッテ西岳に着いたぼくたちはさっそく宿泊を申し込みました。すると山荘の主人は意外そうな顔でこう言ったのです。

「え、泊まるの? この時間だったらまだ先に行けるけど」

彼の話によれば、まだ昼前のこの時間であれば槍ヶ岳山荘は厳しいとしてもヒュッテ大槍までは行ける。もちろん体力次第だけど、若い人ならだいたい2時間から3時間でそこに行くことができる。……

 

この時点で (それこそ写真も撮れないくらいに) 疲れ果てていたぼくはありえへんと思いました。やっと山荘に着いたのに、まだ歩くなんてありえへんと。しかも先述の通り天気は着実に怪しくなってきており、いつ雨が降り出すやもわかりません。雨だけならまだしも稜線で風に吹かれれば転落の危険もあるし、雷が鳴り出したら隠れる場所もない。ただでさえ疲れ切っているのに、そんな不安要素を抱えながら進むなんてありえへんやろ、と。

ですが主人曰く天気は昼までは保つ。もちろん無理にというわけではないが、進むのも一つの手ではあるよと (そして実際、同じ頃ヒュッテで昼食を摂っていた人たちはまだ先に進むようでした)。

 

ぼくとSはとりあえず燕山荘に作ってもらった弁当を食べることにしました。

「どうする?」というSの問いに、ぼくは婉曲な言い回しで「やめとこう」と訴えます。ですがぼくよりも体力に余裕があってかつ現実的な彼は、しばらく黙考したあとでこう言いました。

 

「進もう」

 

彼曰く、「予報ヲ信ズレバ雨昼ヨリ降ル。若シヒュッテ大槍ニ至ルレバ、明日以後ノ行程甚ダ楽ナリ」と。

 

僕曰く、「マジで?」と。

 

しかしこういう時、僕よりもSの判断が正しいのはこれまでの9回の登山で実証済みです。ぼくは恨めしそうな目を隠す余裕もありませんでしたがおとなしく従うことにしました。

そして結果的には、この判断がベストだったことになります。

というのもぼくとSは雨に降られることもなく無事ヒュッテ大槍に到着し、翌朝、体力的にも天候的にも万全な状態で槍ヶ岳へアタックすることができたからです。疲れていたぼくを引っ張ってくれたSに感謝。

 

というわけで、次回はいよいよ本編最後、憧れの槍ヶ岳への挑戦となります。その山容をテレビで見てから、ずっと憧れてきた槍の穂先。——とうとう明日、そこに登る。そう考えると、期待と緊張で胸が騒ぎ、何か運命的な出来事が起こるのではないかという気さえしました。——近々更新予定。

 

 

ちなみに、ヒュッテ西岳からのタイムは、

11:10 ヒュッテ西岳出発

13:40 ヒュッテ大槍着

でした。この間、「山と高原地図」でも記されているとおり険しい崖にかかる梯子や鎖場など危険な箇所が多くあります。注意してください。

 

憧れの槍ヶ岳【本編1】

 

 

2016/08/01 (月)

 

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22:30 毎日新聞社ロビー

 

午前中に新宿にて最終確認及び行動食の買い出しを行ったぼくとSは、22時に竹芝駅に集合しました。駅直通の毎日新聞社の入っているビルの中にはコンビニも入っており、仮に忘れ物をしてしまったとしても簡単なものならば調達することができます。ぼくとSは翌朝の食べ物を買っていなかったのでおにぎりを購入しました。

受付が済んだらいよいよバスに乗り込み、登山口の中房温泉に向けて出発です。

 

08/02 (火) 曇りのち雨

 

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5:30 中房温泉口

 

この週は天気予報が芳しくありません。北アルプス初日の朝は予報通り曇りでした。ほかの登山者たちに混じって準備を整えたら、いよいよ登山開始です。

 

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6:00 登山口 (標高1462m)

 

この日は燕岳まで登り表銀座に入って稜線を大天井ヒュッテまで行く予定です。まずは標高2763mの燕岳まで登る必要があるわけですが、上に書いたように登山口の標高は1462m。標高差は単純計算で1301mです。それをコースタイム4時間20分で行くというのですからけっこうな急登ですが、それもそのはず、このルートの後半の合戦小屋から燕山荘までの合戦尾根は北アルプス三大急登に数えられています。

夜行バスであまり眠れなかったこともあり、ぼくはその三大急登が現れるずっと前の初っ端からへばってしまいました。何度も休憩をねだりつつ、どうにか前を行くSについて行きます。余程辛かったようで、ほとんどその間の写真が残っていませんでした。

 

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登山口の時点で既に肌寒いくらいでしたが、登り始めるとすぐに暑くなってインナー姿になりました。

 

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8:30 合戦小屋到着

 

この段階で頭痛がし始め、「高山病」の文字が頭をちらつき始めました。特に危険な箇所はないのですが、ここまでの道のりはとにかく急できつかったです。前を行くSくんはまだまだ元気そうでしたが。

 

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合戦小屋名物、西瓜。

 

一息ついたあとは、燕山荘目指して再び歩き出します。いよいよ登りも佳境、恐れていたあの北アルプス三大急登です。……が、調子に乗って西瓜を食べ過ぎてしまったのがいけなかったのか (上の写真の分をひとりで食べました)、体が手指の先まで冷え、一気にしんどくなりました。先ほどからの頭痛も悪化。あわててフリースとネックウォーマー、手袋を着込むと、少し登ったところで無事汗が出て来ました。

 

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燕山荘付近 (だったと思う)

 

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10:30 燕山荘到着

 

登山開始から4時間半、やっとこさ燕山荘に到着です。

当初の予定ではここでひと休みした後、燕岳山頂までピストンして表銀座に入り、大天井ヒュッテまで行くはずだったのですが、ぼくがおそらく高山病と思われる頭痛、お腹の不快感で困憊していたため、予定を変更してここ燕山荘で1泊することになりました。

 

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宿泊受付を済ませてザックを置かせてもらったあと、とりあえずカップヌードルを食す。

 

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一面を覆っていた霧が束の間晴れ、燕岳が見渡せました。

 

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まわりはこんな景色。テン場がすぐ近くにあります。

 

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燕山荘展望台

 

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少し霧が晴れたので、燕岳にアタックしてみた (けっきょく途中で引き返しました)。

 

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燕山荘喫茶室にて

 

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ランチ (ぼくは山菜うどん、Sはカツカレー)。山荘の食事とは思えないほどおいしい。

 

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晩ご飯。山荘の食事とは思えないほどボリュームがあり、とてもおいしい。

 

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夕食風景。この日は午後から天気が崩れて大雨となったため、夕方頃にずぶ濡れで駆け込んできた登山客が多かった。また、ツアー客もけっこういた。

 

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寝床。多いときは六人で寝るという一区画にぼくとS、おじさん2人の4人で寝ました。二層構造になっていて、ぼくたちは梯子で登る二階部分でした。秘密基地っぽくて楽しかった。

 

 

……というわけで、登山初日は天候不良とぼくの高山病疑惑で予定を変更して大天井ヒュッテではなくそのずっと手前、表銀座の入口の燕山荘に泊まることになりました。が、この燕山荘、さすがは日本でいちばんきれいな山荘といわれているだけあって、素晴らしかったです。もはやきれいを通り越して、お洒落のレベルまで達しているのではないかと思いました。全体的に内装が凝っていて、とても雰囲気が出てます。食事もおいしいし、スタッフの対応も素晴らしかった。泊まって良かったなと思いました。

……「泊まって良かった」。今でこそそう思いますが、正直に白状すると、初日のこの段階では「とんでもないところへ来ちまった」と思っていました。Sの手前口には出しませんでしたが、異常なほどの息切れ、軽症ではあるものの頭痛、腹の不快感と悩まされ、おまけに中房温泉から燕山荘までの道のりは辛く、だいぶ疲れていたのです。

 

しかしそんな不安も、翌日、吹き払われることになります。

 

次回、「憧れの槍ヶ岳【本編2】」では、燕岳ご来光登山に始まり、いよいよ表銀座縦走に入ります。目標は燕山荘からコースタイム6時間35分のヒュッテ西岳まで。表銀座に行ってみたいけれど初心者なので不安だ、という方にはぜひ読んでいただきたいです。近々更新予定。

 

 

憧れの槍ヶ岳【準備編】

f:id:umiya22:20160810192301j:plain今月2日から4日にかけて北アルプス表銀座を縦走してきました。今回はその話です。

 

表銀座縦走コース(おもてぎんざじゅうそうコース)とは、北アルプス山麓中房温泉を起点とし、合戦尾根を登り常念山脈大天井岳まで縦走し、東鎌尾根の喜作新道を経て槍ヶ岳へ至る登山コースの名称である。(Wikipedia表銀座」)   

 

大学の友達Sと2人で行きました。

いつか北アルプスに行きたいということは去年の秋頃から言っていて、そしてお互いが卒業年度となったこの夏、行くなら今しかないと意を決したわけです。

初心者同然のぼくが北アルプスに行っても良いのか、迷いはありました。けれどどうしても在学中に北アルプスに行きたいという思いがあったし、何より登山を始めて以来の憧れの山、槍ヶ岳に登りたいという思いが強かった。不安よりもそうした思いのほうが強いと自覚したとき、それまであった迷いはふっと消えていきました。そのかわり、しっかり準備をしよう、と思いました。

 

(参考までに、ぼくのプロフィールを書いておきます)

umiya:23歳。運動神経は平均、体力は平均以下。昨夏、一人旅したさに衝動買いした35Lザックを活用するために登山を始める (けっきょく一人旅はしなかった)。

この1年で登った山

・御岳山・日の出山
・景信山・陣馬山
・高尾山
・大菩薩嶺
・棒ノ折山
・筑波山
・武甲山
・塔ノ岳
・川苔山
金時山
・高水三山
・鍋割山
岩殿山

半数以上が1000m未満の低山。また、山小屋泊の経験はなし。

準備

インナー、フリース、レインウェアなど、最低限必要なものはこの1年で既に揃っていました。しかしたったひとつ北アルプスに行くには必要不可欠 (であると思われる) ものが欠けていて、ぼくはさっそく友達とそれを買いに行きました。

登山靴です。

これまでは父から借りた登山靴っぽい革靴かランニングシューズで登っていたので、登山靴は買っていませんでした。しかしさすがにそうした靴で北アルプスに登るわけにはいきません (前者はともかく、ランシューは滑るので危険です)。

登山靴にはハイカットと呼ばれる踵の高いものからローカットと呼ばれるスニーカーのようなものまであり、その中間に当たるものはミドルカットと呼ばれます。そのほか夏山用と冬山用、防水か否かなど用途に応じてさまざまな種類のものがあり、自分の目的に合ったものを選ばなければいけません。

ぼくはモンベル、ノースフェイス、ホグロフスと見て、結果これを購入しました。

決め手はデザイン。

……しっかり準備をしよう、と言った舌の根も乾かぬうちにデザインで決めましたというのもなんですが、やっぱりいくら性能が良くっても気に入ったものじゃないと使わないもん。そしてもちろん、デザインだけで決めたわけではありません。

ホグロフスに行く前に入ったモンベルとノースフェイスでは、きまってハイカットかミドルカットの靴を薦められました。岩場やガレ場のある山では足首を保護することが大切であり、そのためにはローカットでは心許ないと。確かにその通りだと思います。実際、北アルプスでは登山者のほとんどがミドルカットあるいはハイカットの靴を履いていました。

が、これらの登山靴には当然ながら重いというデメリットもあって。また踵を保護するということはそこを固定するということでもあり、慣れていない者には歩きにくさもあります。

それらのデメリットとメリットのどちらを取るか迷いながら入ったホグロフスで出会ったのが上に載せた「HAGLOFS ROC ICON GT」であり、香川照之みたいな店員でした。その店員は言いました。

「ぶっちゃけ、折れるときはローだろうがハイだろうが折れます」

と。

もちろんこれは極論で、仮に岩が落ちてきたりぐねったりしたときの骨折の可能性はローカットのほうがずっと高いとは思います。が、ローカットの身軽さゆえに助かる場合もなきにしもあらずであることを考えると、必ずしもミドルカットやハイカットのほうが安全だとも言えないわけで。要はどこにリスクなりメリットなりを見出すかということです。ぼくの場合は足の保護よりもとにかく身軽さ、歩きやすさを重視していたため、最終的にローカットの靴を選びました。(この判断がどう出たかは【振り返り編】で書きます)

 

靴のほかには、

 御来光登山のためのヘッドライト、

ハイマウント(HIGHMOUNT) サバイバルシート ゴールド 22134

ハイマウント(HIGHMOUNT) サバイバルシート ゴールド 22134

 

いざというときのサバイバルシート、

 衣類や貴重品などを収納しておくスタッフバッグ (防水)、

 「山と高原地図」を買いました。

 

ザックの中身は、こんな感じ。

◦衣類

・ジオライン (薄手) の長袖

・ジオライン (薄手) の半袖

・ジオライン (薄手) のパンツ

・フリース

・レインウェア

・帽子

・サポートタイツ

・登山用の靴下

・ネックウォーマー

・手袋

◦食糧

アミノバイタル

・10秒チャージ

・飲むカロリーメイト

・すだち岩塩飴

果汁グミ

ソイジョイ

カップヌードル×2

・水2L (500mlペット×2+1L水筒)

◦その他

・ジェットボイル (ガス含む)

・割り箸2膳

・ザックカバー

・スタッフバッグ (2L、4L、10L)

・サバイバルシート

・ヘッドランプ

・「山と高原地図

・行動予定表

・日焼け止め

・汗拭きシート

・絆創膏

・歯ブラシ

・ビニール袋5枚

・酸素缶

・耳栓

デジタルカメラ

スマートフォン

iPod

・財布 (5万ほど)

・バスの支払い明細 (念のため)

・眼鏡

このほか、着用しているもの (ジオライン半袖、麻製シャツ、ナイロン製半ズボン、短い靴下) といった感じです。

 

準備を終えたら、いよいよ現地へ向かいます。(【本編】へつづく)

 

 

いつまでもセカイ系


 しばらくブログはいいかと思っていたんですが、なんとなく書きたくなったので書きます。およそ二ヶ月ぶりの更新です。……二ヶ月。けっこういろいろなことがありました。教育実習、教員採用試験、初めてのES……。もちろん趣味の登山、サイクリング、読書etcも継続して行っています。こないだの三連休には二泊三日で近畿に現実逃避旅行センチメンタル・ジャーニーしてきました。
 しかし結論からいうと、未だに進路は決まってません。相変わらずふらふらしてます。そして今回は、この相変わらずふらふらしてるバカヤローなぼくのメンタルについて書きたいと思います。内省するために。
 ぼくのメンタル。それは一言でいえば「セカイ系*1」です。
 セカイ系。これは主に社会学や文学のなかで使われる言葉で、ひとによって定義は異なりますが、要は「主人公 (ぼく) と世界があいだに何かを挟むことなく直接繋がっている」状態のことです。東浩紀は『波状言論 美少女ゲームの臨界点』のなかで「主人公 (ぼく) とヒロイン (きみ) を中心とした小さな関係性 (「きみとぼく」) の問題が、具体的な中心項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義し、その代表作として新海誠*2の『ほしのこえ』、高橋しんの『最終兵器彼女』、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏*3の三作を挙げています。ほかに有名な作品を挙げるとハルヒもこのセカイ系です。
 ただ、いま書いたのは狭義の「セカイ系」で、ヒロインや世界の危機がなくとも、単に「ぼく」と世界があいだに何も挟まず直接結びついているような作品や思考形態についても「セカイ系」ということがあります。ぼくのメンタルはこっちのセカイ系*4です。ぼくと世界は結びついている。つまり、ぼく (主人公) は世界の中心である。という思考形態。
 ……もちろんぼくも二十三になり自分がどういう人間かもだんだんわかってきて、いつまでも自分が世界の中心だと本気で信じているわけではありません。世界はぼくとは関係なく回っているし、ぼくが死んでもそれは変わらない。わかってはいるのですが、どうしても最後の最後の部分で「おれはどうにかなる。おれがどうにかならないわけがない」と思ってしまうのです。つまり、「自分は主人公であり、世界と結びついている」のだからこのまま終わるわけがない、と。
 ぼくのどうしようもないオプティミズムあるいは現状軽視はここから来ているのだと思います。たまにふっと頭が冴えたとき「このままじゃやばい」と危機感が脳裏を掠めるのですが、すぐに日常のあれこれに埋もれ、埃を被ってしまいます。
 いちおう来月の私学教員適性検査にも申し込んだし院試の勉強もしていますが、どうなることやら。親には非常勤講師をやりながら院に通うといっていますが、ほんとうにぼくはそれがしたいんですかね。

*1:いわゆる「きみを取るか、世界を取るか」というやつ。

*2:映像美といってしまえばおしまいだけど、『言の葉の庭』のチープさはどうかと思うんだ。ま、好きだけどさ。ちなみにぼくがいちばん好きなのは『星を追うこども』。

*3:今でも夏になると読みたくなる。おもしろいし、三人称の効果的な使い方を学ぶ上でも参考になる良作。榎本が好きだった。

*4:この文脈ではしばしば村上春樹の名が挙がる。

ローズバッド【創作小説】


 私はこいのぼりが好きだ。春の柔らかな風にそよそよと吹かれているようすは、見ているだけで癒やされる。ふっとからだから力が抜けていき、どこか懐かしい気持ちになる。
 今朝になって街のこいのぼりが一斉に撤去されたのを確認して、しかたのないことだとはわかりつつもがっかりした。代わりに洗濯した服を干してみたけど、水に濡れて色を濃くした服はこいのぼりと比べるとやはり力が入っていて、なんとなく物足りない感じがする。脱力するまでには至らない。日常を思い出してしまうからかもしれない。
 きょうは大学が休みなので、私はいつも以上にぼんやりとしている。朝から雨との予報は外れ、いまのところは空は青い。息を吸い込むと、微かに花の香りがする。
 七階の狭いベランダからぼーっと景色を眺めていると、先月まで咲いていたたんぽぽの綿毛がふうわり上空を舞って飛んでいくのが見える。綿毛は太陽の光に照らされ、涙のようにまばゆく輝く。私は部屋にもどる。
 トーストを食べて身仕度をしたら、手提げを持って駅へ向かう。エレベーターの扉が一階で開くと、やっぱり少し花の香り。甘くて押しつけがましい匂い。
 駅に着く。春太はまだ来ていない。私はぶらぶらとそこらへんを行ったり来たりする。何度目かで、春太が改札に現れる。春太は全身に太陽の匂いを巻きつけている。
「悪いが徹夜明けなんだ。おやすみ悪しからず」
 へんな日本語を喋り、春太はベッドに寝転がる。私のベッドに。きのうから干しておいたスーツをさっき取り込んだばかりだから、きっと気持ちいいだろう。何のおそれも抱かずに眠りの世界へと身を沈めていくことができる春太を、私は羨ましく思う。でも、彼の寝顔はとてもすこやかで、幸せな温度に満ちている。私はそれを見ると、いつもお裾分けしてもらっているような気になる。安眠のお裾分け。
 眠っている人の隣は居心地がいい。
 私はつられて眠くなるということはないけど、それでもからだの奥からぽっと温かくなってきて、心の底から安心できる。本を読んでいても、大学の課題をしていても、編み物をしていても満たされた感触がある。私のすぐ後ろで、春太が安らかな寝息を立てている。その一定のリズムが私の耳朶を快く打ち、部屋に優しさを溢れさせる。たまらなくなって彼の頬を撫でると、少しくすぐったそうに声を漏らす。白のカーテンレースから漏れる太陽の光。ふんわりと舞う綿毛。目を閉じると、花畑が見える。私は花びらを撫でる。つるりと官能的な触感。きれいな薔薇には棘があるのよ。白薔薇が私に話しかける。私、きょうも刺しちゃったわ。赤薔薇が笑う。白薔薇も笑う。いつの間にか、私は青薔薇になっている。

* * *

「起きた?」
 目を覚ますと、いつの間にか私はベッドの上で寝ている。珈琲のいい香り。春太は甘党なのに珈琲はブラックで飲む。俺ん家、親が二人とも珈琲好きでさ。幼稚園のころから、珈琲はブラックで飲まされたんだ。それも、深煎りの苦い豆をだぜ。だから、珈琲って聞くとどうしてもブラックしか考えられなくなっちゃったんだよな。春太が話している。いや、こう話してくれたのは昔のことだ。いまじゃない。私はゆっくりと上体を起こす。カーテン越しに差し込む陽の光は少し暗くなっている。夕方になったのだと思う。
「何を食べようか」
「私、寝起きよ」
 手鏡で顔を見てみると、思ったよりもすっきりとした顔をしている。けっきょく、つられて眠ってしまった。春太が私を見て笑う。
「髪、ぼさぼさ」
「……ブラシ、取って」
 私が髪を直していると、春太がよっと立ち上がった。
「俺、西友でなんか買ってくるよ。希望ある?」
「待って、私も行く」
 外に出ると、すっかり日が沈んでしまっている。気温が下がり、ちょっと肌寒い。花の柔らかな匂いに変えて、夜の乾いた空気が澄んでいる。
 二人で買い物かごを押して歩いていると夫婦みたいだ。春太は、このときがいちばん照れくさくてかなわないと言う。何かと理由をつけて離れようとするので、がっちりと腕を固める。そうすると春太はおとなしくなる。
「タマネギあったよな」
「……たぶん」
「ベーコンは?」
「ない」
 私が質問に答えるあいだに、春太はぽんぽんと食材を放り込んでいく。そのうち、かごに入れられた材料から今夜のメニューがわかってくる。
「ナスとトマトのスパゲティー」
「で、OK?」
「うん」
 家に帰ると、春太はさっそく料理を始めた。
 まず鍋でお湯を沸かし、そのあいだに野菜を刻む。タマネギ、にんじん、ナス、トマト……。お湯が沸騰するとスパゲティーを入れてタイマーを七分にセットし、野菜とベーコンをオリーブオイルで炒め始める。塩と胡椒を少々。スパゲティーをざるに開けたのをフライパンに入れ、白ワインをすばやく一周させる。麺と具がよく混ざると、お皿に移して出来上がり。
 いつもながら、惚れ惚れするような手際の良さだ。
 春太は私と同じ二十歳のどこにでもいそうな男の子だけれど、見た目に反して (と言っては失礼だけど)、とても料理がうまい。私が作るよりも手際も味もいいので、いつもお願いすることにしている。春太も、料理は苦にならないらしい。代わりに、手先の器用さが求められる作業、たとえば裁縫とか――は私がする。春太はほどけたボタンをつけることができない。この年になって母親にやってもらうのもなんだか恥ずかしくてさ。私と付き合うまではボタンの取れた服は着られなかったと言っていた。
 食べ終えてから少し休み、それからお皿を洗っていると、リビングにいたはずの春太がふといなくなっていることに気づく。慌てて後ろを見ても、もう遅い。私は腕の中にいる。
「もう帰るよ」
「……うん」
 私はお皿を洗う手を止める。蛇口からとぼとぼと水が流れる。その音だけが部屋に響く。
「また来る」
「いつ?」
「たぶん、しあさって」
「……うん」
 それから春太は私の耳元で小さく囁いて、ぐっと強く抱きしめてから、ふっと力を解いて玄関に歩いていく。靴を履くと、手を振って行ってしまう。
 二度と来ないかもしれない。その後ろ姿を見て、いつも思う。

* * *

 春太がいなくなったら、私はどうなるのだろう。
 じぶん一人しかいなくなった部屋で、照明を落としてベッドに潜り、私はじっと考えている。春太は私にとっていなくてはならない存在だ。しかし私は彼にとっていなくてはならない存在だろうか?
 春太は実家暮らしだから、いつも十時までには私の家を出ていく。春太の緩い性格からは考えられないけれど、かなり厳しいご両親で、ほんとうは一人暮らしの恋人の家に行くことにだって反対らしい。けっしてやましいことはしてないから。ふつうは親に言わないような弁明をして、やっと許してもらえたのだと苦笑いしていた。春太の困ったような笑みが暗闇に浮かぶ。
 一人よりも二人のほうが淋しい。彼が帰ったあとの静寂が深まるだけでなく、恋愛それ自体にたぶん淋しさが含まれている。会っていても、どれだけ心が通じ合っていても、人間は他者を完全に理解することはできない。そのことがひしひしと感じられて、まっ暗な穴に突き落とされるような淋しさがある。
 電気を消して耳を澄ませていると、遠い宇宙で星たちが消滅していく音を聞くことができる。銀河の流れる衣擦れのような音。軌道に乗って回り続ける人工衛星。あらゆる孤独を吸い込み続けるブラックホール。座礁した宇宙船。
 この世はみんな孤独なのよ。聞き覚えのある声が言う。だからいつまでも求め合うし、それは終わることがないの。人が好き合うって、けっきょくそういうことよ。
 視界が薔薇の花で埋まっていく。私は薔薇のつぼみに吸い込まれていく。何層にも重なり合った花弁。孤独はなくならない。ふしぎな匂いが鼻孔を満たす。でも、分かち合うことはできるわ。
 青薔薇が降り注ぐ。この途方もない宇宙の片隅で、密かに息をする七階の孤独。それを埋めるように、ひとつまたひとつと青薔薇が降り注ぐ。固く閉じられたつぼみ。私の目の前に少しずつ花畑が立ち上る。私と彼の孤独を栄養に、いつか開かせることができるだろうか?


たぶん一年以上ぶりに、彼女がほしいと思った

 きょうは大学の演習で模擬授業をしました。今月末から始まる教育実習を見据えてのもので、単元の導入部を約20分。模擬授業は全員がやるわけではなく30人弱いるクラスのうち5人が担当するんですが、ぼくは後先考えずこれに立候補してしまい、案の定ギリギリまで指導案を作っておらず、おかげで昨日は寝れない夜を送ったんですが、結果からいえば、やってみてよかったです。当たり前だけど、実際にやってみないとわからないことだらけだ。ぼくは内心自分は授業がうまいと自負していたんですが、単なる思い上がりだと痛感しました。フィードバックでは良かった点も改善すべき点もたくさん挙げてもらったので、自分のどこが良くて何を見直すべきかがはっきりしたかなと思います。

 ……とまあ、模擬授業はたいへん有意義だったんですが、今回書きたいのはそのことではなく。タイトルにも書いたようにきょう、たぶん一年以上ぶりに、彼女がほしい……いや、正確には彼女がいたらなあって、そう思ったんです。

 ぼくはここ1、2年は自分の将来について考えるので精一杯でとても誰かと付き合うなんて考えられない日々が続いていて、それはいまでも変わらないんですが、でもきょう、模擬授業を終えて「俺ってまだまだだなあ」と自分の未熟さを感じていたときに、「こういうとき、話を聞いてくれる彼女がいたらなあ」って思ったんです。これはいたってフツーな心の動きなのかもしれないけど、長らくひとりに慣れていたぼくにとって、自分でもかなり意外な感情だった。

 だからなんだと思われるかもしれませんが、ぼくがここでいいたいのは、ひとはやっぱり就活やなんやかやで精神的に疲弊してくると*1、拠り所としての恋人を求め始めるのかなあってことです。ぼくもいまはまだひとりのほうが気楽でいいと感じているけれど、この先、たとえば就職して仕事で辛いことがあったりすると、「やっぱ彼女ほしい」って思うのかもしれません。
 というか、そんなときでさえ思わなかったらヤだな。どうか思いますように。

*1:なんて偉そうに書けるほど、ちゃんと就活していない。明日からがんばる予定。