『花束みたいな恋をした』/京王線の思い出

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『花束みたいな恋をした』のDVDを観た。出てくる小説、音楽のことごとくが自分の通ったもので、恥ずかしくなるほどだった。ただ、映画内に出てくるコンテンツについて語ろうとすると「これ聴いてたわ〜 (読んでたわ〜)」しか言わなくなりそうなので、ここでは「街」について話そうと思う。

『花束みたいな〜』は京王線沿線が舞台となっている。ぼくは東京にきてからひとり暮らしを始めるまで14年間、京王線稲城駅に住んでいた。ひとり暮らしを始めてからも、妻が当時、京王線桜上水駅に住んでいたので、やはり馴染みがあった。

有村架純演じる絹の実家は飛田給にあるという設定だ。飛田給味の素スタジアムの最寄駅で、逆にいえばそれしかない小さな駅だった。もちろん人流はあるけれど、調布から新宿方面ではなく八王子方面への下り電車に乗るという点からも、ぼくの中では郊外の静かな駅のイメージである。飛田給の駅から30分くらい歩くと武蔵野の森公園野川公園、武蔵野公園の三つの大公園が隣接しているエリアに行けて、ぼくはそこが好きでよく駅から歩いたものだった。ちなみに、作中で絹と麦の二人が何度か渡っていた横断歩道の隣に流れる川はおそらく野川だ。京王沿線で川といえば多摩川かその支流の野川で、もちろん二人が一緒に住んだ家から眺められた川は多摩川だから、二人の恋は本流と支流の間で移ろったともいえる。

菅田将暉演じる麦のアパートは調布駅にあった。その後、同棲を始めたのも「調布駅から徒歩30分」の家だ。だがベランダからの眺めを見たらそれが調布駅というよりも京王多摩川駅に近い場所であることがわかる。ベランダの右側には橋が見えていた。あれは稲城市調布市を結ぶ多摩川原橋だ。京王多摩川駅からだと、徒歩10分くらいだろうか。ぼくは院生のとき、家族の不和に耐えかねてこの河原を訪れ、日中は川面に接した場所で本を読んだし、夜、対岸の灯しかなくなったころには登山用のガスバーナーで湯を沸かしてウインナーを茹でたりコーヒーを沸かして晩飯に代えていた。苦しい時期だった。

最初に絹と麦が出会ったのは明大前駅だ。明大前は数少ない特急の停まる駅で、新宿から特急に乗ると、新宿→明大前→調布の順で停車する。言わずもがなだが明治大学のキャンパスがある。駅を出て北に歩くとすぐに甲州街道に出る。甲州街道は深夜でも車通りの絶えない道路で、真上を首都高が走っている。煌々と明るい。歩いて10分ほどで隣の下高井戸駅に着く。妻のアパートは下高井戸と桜上水の中間にあった。小田急線の豪徳寺駅でひとり暮らしを始めたぼくは、よく世田谷線で下高井戸まで出てアパートまで歩いたものだった。世田谷線に乗れば二駅で4分、歩いても下高井戸まで20分くらいだった。下高井戸の駅前にはぽえむという喫茶店があって、一年の半分くらいはここで本を読んでいた。まだコロナがなかった時分、店も23時まで開いていた。仕事終わりにコーヒーを飲んで本を読むのが楽しみだった。結婚して引っ越すとき、ぽえむから離れるということだけが気がかりだった。いま新生活を始めている街には両手ではとても足りない数の喫茶店があるが、それでもぽえむを超える喫茶店とは出会えていない。またぽえむのマンデリン飲みたいなあ。カレーもたべたい。

絹と麦が明大前から調布の麦のアパートまで歩くシーンがある。そのとき、甲州街道はもちろん、途中で通過する駅を歩くカットもあって、つつじヶ丘の駅前が映っていた。柴崎亭というラーメン店の前のあたりだ。ぼくは院生のとき、つつじヶ丘の塾でアルバイトをしていた。自分でも驚くほど、京王線すべての駅にエピソードがある。

中央線ではなく京王線を選んだというところに、この映画の勝因があるのではないか、となんとなく思った。

京王線には高円寺も阿佐ヶ谷もなかった。調布は典型的な「郊外の大きな駅」だったし、おしゃれな喫茶店千歳烏山より新宿側に行かないとない。芦花公園の三月ができたのは最近だし、千歳烏山でさえ南蛮茶館くらいしかなかった。あ、仙川にレキュムデジュールがあった。妻と初めて訪れた喫茶店であり、調布駅で卒倒する前にカクテルを飲んだ場所でもあった。京王線は若者の沿線というよりも暮らしの沿線だと思う。良くも悪くも生活臭がする。落ち着きがある。

でも絹と麦はその京王線で恋をしたのだった。落ち着く一歩手前で美しい道のりを歩み終え、LとRにはめていたイヤフォンを同時に机に置いた。それはステレオフォニックの恋だった。

最後、絹のことを思い出している麦が、やはり引っ越していることがわかる。おそらくその街に川は流れていないだろう。脈絡なくそう思った。二人の流れはひととき合わさり、もう交わることがないのだった。

グーグルマップで終わるというのがよかった。楽しかったときの二人が残されていて、でも顔にはモザイクがかかっている。名前のないその他大勢になっているのだった。みんな同じなんだね、観終わったあと、妻が言った。その意味でも二人は匿名の存在なのだった。このへん、岸政彦の『ビニール傘』っぽいなと思った。