異動/水槽/鳥

 帰ってくるなり、羽田さんが異動になった、と妻のさと子は言った。そうなんだ、と相槌を打ちながら草介が料理を温めているあいだも、ソファに腰かけてじっと考え込んでいる。これはだいぶ落ち込んでいるな、と草介は思う。羽田さんは妻が新卒で配属されたときから経理部にいる上司だった。仕事上のミスは多いが、帰りが遅くなるといつも飲み物やお菓子を差し入れてくれる。羽田さんがいなくなったら経理部は地獄よ、とさと子は嘆いた。
「でも、秋にも異動があるんだね」
「秋異動は何かしら問題起こしたひとがするみたい。羽田さん、遅刻が多かったからなあ」
 この先どうやって仕事していけばいいんだ、わたしも絶対に次の春に異動してやる、とつぶやきながら、さと子は草介の作ったパスタを食べ始める。時計を見ると、もう九時を過ぎていた。重い靄のようなものが胸の中に下りてくる。

 学年ごとに机が並べられた職員室で模試の発注手続きをしながら、異動について考える。
 中高一貫校の教員である草介にとって、異動は縁のないものだった。もちろん年度が替われば担当する学年は変わるし校務分掌が変わることもあるが、職員室内で机の位置が変わり、二十数名の教員の中で関わる顔ぶれが少し変化するだけだった。仕事の内容が大きく変わることも、勤務場所が変わることもない。水槽の中にいるようだ、と草介は思う。中の空気は入れ換えられ時には水を替えられもするが、その大きさや中にいる魚は変わらない。まれに新しい魚が入ったり古い魚がいなくなっても、総体としての中身は変わることがないのだった。適度に調整された水槽の中は居心地がよかった。その居心地のよさが気持ち悪くもあった。淀んだ空気が肺に溜まり、自分がどんどん愚鈍になっていくような気がする。
 最終下校のチャイムを機に草介は職員室を出て昇降口に向かった。月一回の割で下校指導の仕事が回ってくるのだった。生徒に挨拶をしながら門を出て、最寄りのバス停に向かう。すでに日が沈みかけ、西の空が赤く燃え上がっていた。鴉の群れが鳴き交わしながらやってきて、大きな羽音を立てる。バス停の隣に大きな公園があって、そこを根城としているのか、鴉はいつも夕方になると大群で押し寄せた。ヒッチコックの映画にこんなシーンがあったな、と見るたびに思う。まるで水槽の魚のように、ひとが鴉に襲われてゆく。
「先生さよなら」
 さようなら、と返事をして、バスに乗っていく生徒を見送る。見えなくなると、公園に入って煙草を吸った。背の高い樹木に囲まれた公園の中はまっ暗だった。大きく息を吐き出した。どれだけ吐いても胸の中に泡が残る気がした。鴉の大群がきて、何もかも啄まれてしまえばいいと思った。そう思う草介は心地よい水の中でまどろむ愚鈍な魚に過ぎなかった。短くなった煙草を捨て、新しく火をつける。まだもどってやらなければいけない仕事があった。肺に溜まった水を出しきるように、大きく息を吐き出す。ぱらぱらと音がして、餌を撒くように雨が降ってくる。ぬるい雨の中を、草介は静かに歩く。