「コミュ力」についての基本的な確認


先日、教育実習の打ち合わせのために母校に行き、教科担当の先生と話をしてきたんですが。

ぜんぜん会話ができない。

べつに先生とぼくのあいだが気まずいとかどちらかが極度に人見知りだとかそういうわけではありません。むしろ先生 (ここではK先生とします) は非常によく喋るひとで、ぼくたちのあいだに話が絶えることはない。それではぼくはなぜ、「ぜんぜん会話ができない」と書いたのか。簡単です。常にK先生が一方的に話しているからです。

K先生はいわゆる「マシンガン」なひとで、ひとつひとつの話が長いわけではないんだけど、ひとつの話から次の話へと永遠に話が連なっていく。しかもそのうちほとんどが、実習とは関係のない話 (先生の最近の趣味とか飼っていた猫とか)。

マシンガンでもこちらに傾ける耳があればいいんですが、ぼくが途中で口をはさんでも、いちおうは聞いたふりをして相変わらず自分の話を続ける。ぼくが話しているあいだは黙っていてくれるんだけど、けっきょくすべて自分の話に引き入れてしまう。こちらの話をぜんぶ自分の話に吸収してしまう。会話のバランスという概念が欠如していて、自分ばかり話していることに気づかない (あるいは、気づいていても問題としない)。

communication《言葉・記号・身振りなどによる情報・知識・感情・意志などの交換過程》

『新英和大辞典 第六版』にもあるように、コミュニケーションとはとりもなおさず「交換」することで、だからこそそこには互いのあいだを行き来する運動があって然るべきです。しかしK先生のようにただ欲求のままに自分の話をし続けるひとは、一見コミュニケートしているように見えても、実際は自分の持ち物の押し売りをしているだけ。一方通行的で、とても他者の入り込む隙がない。

巷では「よく話すひと=コミュ力があるひと」みたいに考えられがちだけど、ほんとうの意味でのコミュ力って、そういうことではないよね、と今更ながら簡単な確認をしたくなったきょうこの頃です。

若さをもてあそぶ ――サニーデイ・サービス「若者たち」


 二ヶ月ほど前からサニーデイ・サービスにはまり継続して聴いているんですが、 1stアルバムの『若者たち』の最後を飾る表題曲「若者たち」*1に、こんな詞があります。

  彼女はと言えば 遠くを眺めていた
  ベンチに腰かけ 若さをもてあそび
  ずっと泣いていた

 僕はこの曲が好きで繰り返し聴いているんですが、最初にこの詞を聴いて思ったのが、「なんで若さを『持て余し』ではなく『もてあそび』なんだろう」ということ。
 ふつう、「若さを持て余す」とは言っても、「若さをもてあそぶ」とは言いません。

もて-あそ・ぶ【玩ぶ・翫ぶ・弄ぶ】
①手に持って遊ぶ。
②慰み愛好する。また、寵愛する。慰み興ずる。
③人を慰みものにする。なぶる。
④思いのままに扱う。好き勝手に扱う。(『広辞苑 第六版』)

 直後に「ずっと泣いていた」と続くことから考えれば、②の「慰み愛好する (…)」の意味ではないことが推測できます。④の「思いのままに扱う。好き勝手に扱う」も同じ理由で考えにくいと言うことができるでしょう。となると、残る選択肢は①か③の二つ。③は「『人』を慰みものにする」とあるのが気になるところですが、そもそもよく使われる「若さを持て余す」という表現も「若さ」を擬人化していることを考えると、それだけで撥ね除ける根拠にはならない。だが①の「手に持って遊ぶ」に対し、③の「慰みものにする。なぶる」は攻撃的なニュアンスを孕んでおり、「持て余す」が「処置に困る。取り扱いに苦しむ。手に余す」(『広辞苑 第六版』) と受動的な意味に収まっていることを考えれば、いちばん互換性が高いのは①の「手に持って遊ぶ」だと言うことができます。だから僕もはじめの頃は「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の類義語に過ぎないものとして聴いていました。

 が、何度も聴いているうちに、馴染みのある「持て余す」という表現ではなく「もてあそぶ」という表現を選択したのには、やっぱり何か別の強い意味が隠されているのではないかと思えてきた。それはたとえば、次のような詞を聴いたときに頭をもたげてきます。

  広がって来る不安におそわれ
  「明日になれば」「朝が来れば」とか
  昨日もそうだった

 もちろん、「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の単なる言い換えとして聴くことも可能です。しかしこれは曲名からもわかるように「若者たち」、さらにいえば (若者たちの) モラトリアムについて歌った曲であり、まさにいま「若者たち」のうちのひとりである僕としては、そこに「持て余す」の単なる言い換えには収まらない強い意味を見出さずにはいられないのです。つまり、どうしても③の意味で聴いてしまう。

③人を慰みものにする。なぶる。

 ところで、一般に語られる「若さを持て余す」とはどのような状況でしょうか。その表現から思い浮かぶのは、若さ故の精力、時間に満ちあふれているのだけれど、まさにそれが「満ちあふれ」ているがためにどう対処すればいいかわからず、身動きがつかなくなっている若者の姿。おそらくそんなところだろうと思います。

 では、「若さをもてあそぶ」になるとそれがどう変わるのか。「もてあそぶ」を①ではなく③の意味で捉えれば、そこには若さ故の精力、時間に満ちあふれ、それらをどうにかしようと何かしらやってみるのだけれど、なかなかうまくいかない。いつも徒労に終わる……そんな若者たちの姿が立ち上がってきます。つまり、「若さを持て余す」が自分では制御しきれない精力や時間を文字通り「持て余」して呆然と立ち尽くしているのに対し、「若さをもてあそぶ」はその制御しきれない精力や時間をどうにかしようと試みるのだが、それがうまく形にならない。徒労に終わり、結局は若さを「なぶる」だけに終わってしまう……というモラトリアム (≒ 何者かになるための猶予期間) の中でもどかしさを抱えた「若者たち」の姿を痛切に描き出していると思うのです。つまり、そこにはただ呆然と立ち尽くすのとは一線を画した能動性、弱々しいながらも懸命なあがきがある。

 それはたとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の主人公たちを思わせる光景で、「ベンチに腰かけ」て「遠くを眺め」、「ずっと泣いてい」るその後ろ姿は若さをセックスとドラッグで乗り越えようとしたものの、あるときふとその空しさに気づいて動けなくなった主人公の後ろ姿に重ねられないでしょうか。あるいはandymori「すごい速さ」*2の詞、

  でもなんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う
  だってなんかやらなきゃできるさどうしようもない
  このからだどこへ行くのか

 に描かれた「なんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う」若者 (たち) の焦心、「だってなんかやらなきゃ」→「できるさ」→「どうしようもない」と試みては徒労にうちひしがれる後ろ姿とシンクロして見えてこないだろうか。


 と、長々と勝手な解釈を連ねてきましたが、それだけ僕はこの「若者たち」の「若さをもてあそぶ」詞が好きなのであり、その理由はまさにいま自分がモラトリアムの中で懊悩する若者で、歌い上げられるその姿に強く共鳴してしまうからだと思います。小説にさまざまな読み方があるように音楽にもさまざまな聴き方があって、たとえばクラフトワークが好きな僕の友達は「想像の余地が残されているほうがいい」と話していましたが、やっぱり僕はどうしても歌われたものに共鳴することでしか聴くことができないようです。だから「若者たち」のなにげない言葉のチョイスが、いつまでも心の内に引っかかる。

 サニーデイ・サービスはそうした若者の懊悩だけでなく恋の楽しさを歌い上げるバンドでもあり、また晴れた日の朝のうきうきとした気分や「雨の土曜日」の青白くけぶった街並み、八月の狂おしいほどの暑さをそれこそ「若葉の匂い」のように立ち上がらせてくれるバンドでもあるので、抒情的な音楽が好きなひと、特に邦画的な世界観が好きなひとなんかは惹かれるのではないでしょうか。今回取り上げた「若者たち」は冒頭に書いたように1stアルバムの表題曲でしたが、僕がいちばん好きなのは2ndアルバムの『東京』なので、いずれこちらについても書きたいと思っています。これがまたいいアルバムなんだ。


 と、いうわけで、評論に見せかけて実はただの好きな曲語りでした。
 さ、現実逃避はここまでにして、明日 (既に今日) の模擬授業の準備しよう。……はぁ。at AM 3:00


若者たち

若者たち

 

 

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

andymori

andymori

 

 

*1:作詞・作曲 曽我部恵一

*2:作詞・作曲 小山田壮平

若葉の匂い

 ゴールデン・ウィークが終わり、梅雨が来るまでのあいまいさに覆われたこの時季、夜になると若葉が香る。
 それは新緑という名の持つ爽やかさからは想像しづらいムッと立ちこめた草木の匂いで、決してかぐわしい、という種類のものではない。けれども僕はこの匂いが好きで、ぼんやりと霧に曇った夜、四辺から立ち上る新緑の、思わず息を止めてしまいそうな生気の籠もった匂いを嗅ぐと、なぜだか無性に懐かしくなり、と同時に切なくやるせない気持ちに襲われてしまう。その匂いのいったい何が、こうも僕を揺さぶるのか。

 若葉の匂いから思い出されることのひとつに、大学に入学したばかりの頃に起こった出来事がある。
 当時、僕はのちに付き合い別れることとなる同じサークルの女の子と進展中で、その日もサークルが終わったあと新宿で晩ご飯を食べる約束をしていた。
 サークル活動を終え、キャンパス門前で解散しようというときだった。サイゼリヤに寄っていく組と早稲田から電車に乗って帰る組の二手に分かれることになり、幹事長によって挙手が求められた。僕と彼女は視線を合わせ、咄嗟に僕が、
「俺、高田馬場まで歩いて帰ります」
 と宣言し、彼女がつられたように「私も」と手を挙げた。そうしてみんながあっけに取られる中、ふたりでその場を後にした。
 あのとき、みんなに見つめられながら彼女とふたり歩いて帰ったときも、ちょうど雨が上がったばかりで、若葉の濃い香りが立ちこめていたのをはっきりと覚えている。

 また、高校生の頃は学校が緑豊かな谷の上にあったため、この時季になると毎日、朝はげっと鼻をつまんでしまいたくなるほど強烈な草の焦げた匂い、夜には霧に濡れた新緑のあの身にまとわりつくような匂いを嗅いでいた。下校時、不気味に口を開いた谷戸の暗がりを見下ろしながら、ひとり取り憑かれたように足を速めて帰ったのを覚えている。あのときも、まわりでは若葉が滲んでいた。

 匂いから誘発される懐かしさ切なさと、これらの思い出は関係があるのだろうか。自分ではよくわからない。まったく無関係のような気もする。けれども若葉の匂いを嗅いだとき、いまとなってはこうした場面の数々を思い出さずにはいられないのも事実で、その場面の数も年を経るごとにつれ増えていくのだろう。それがいい思い出ばかりになるとは限らないけれど、これから先、今日のようにふと若葉の匂いを嗅いだとき、立ちのぼる光景がいまより多くなっていればいいなと、そう思う。

この一年

前回ブログを更新したのが1月17日ですから、実におよそ四ヶ月ぶりの更新となります。四ヶ月。一年の三分の一。さすがにそんだけ経てばこんな僕でもさまざまなことがあって、そのさまざまなことが書き切れないがゆえに「それならいっそ何も書かないほうがましだ」と持ち前の神経質さを発揮させていたんですが、それでもせっせと開設し心の内を吐露、とまでは行かずともほのめかしくらいはしていたブログをやめるのはちと惜しいので、がんばって開き直って、またとりとめのないことでも書いてみたいと思います。

しかし何から書けばいいのだろう? さっきも書いたとおりこの四ヶ月にはさまざまな事柄があって、たとえば相変わらず山には登っていたし、サイクリングもしていました。五年生になるのに友達の卒業旅行に混じって大島に遊んだかと思えばランニングにはまり、春休みは友達Sといろいろなところへ走りに行きました。音楽ではサニーデイ・サービスにはまり、最近ではALにお熱です。神保町のおもしろさに気づき、古本屋巡りにふらりと出掛けるようにもなりました。読書に関していえば、ここのところは小説よりも批評にまみれています。『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』がその口火。今更とはいえ、浅田彰『構造と力』もおもしろかった。どちらの本もこれまでウエルベック松家仁之を読んで考えていたことに考えの枠組みを与えてくれるもので、自分の考えている問題、テーマがよりはっきりとしてきたかなと思っています。僕はいま、こういったら大袈裟に聞こえるかもしれないけれど「人生」について、より正確にいえば「どうすれば生き延びることができるか」ということについて真剣に考えています。もともとうじうじと悩みながらもこうしたことについてはっきりと問題化して考えたことはなかったので、それだけでもこの一年はありがたかったと思っています。もちろん留年したことによる弊害もあるだろうしこれから先負担となっていくのかもしれないけど、もしこの一年がなければ、僕はこういった視点、つまり自分の人生や生き延び方について考える、オブジェクト・レベルではなくメタ・レベルから捉えるという視点を持ち得なかったと思うのです。この一年は、きっと僕の人生の上で重要な年になる。

長々と書いてしまいましたが、いま、僕はこんなことを考えています。折々、そういったことについても書いていけたらと思います。

というわけで、更新頻度は不明だけど、とりあえず継続。

無題

 二十二にもなって「母のPCに落書きしたよ。楽しかった☆」みたいな記事がいつまでもトップに表示されたままなのはさすがにやるせないのでさっさと更新しようと思っていたんですが、なぜだか急にブログを書くのが面倒になってしまって放置していました。ネタはたくさんあったのに。

 たとえばネットで注文していた七本槍や本が指定したわけでもないのに一斉にクリスマスに届いてまるでサンタさんからのプレゼントみたいになったり (ぜんぶ自腹だけど)  グレンフィディックやP・K・ディックにハマッたりしました。初めてスカイツリーにも上ったしソラマチはせがわ酒店ではなんとあの飛露喜を手に入れた。酒の話ばっか。

 ほかにも年始には箱根の金時山に登ったり奥多摩の川海苔山にも登りました。久々に愛車ダホンで70kmのロングライド (僕にしてみれば) もしたしまさに今日 (もう昨日) 二台目の自転車も買った。時系列がぐちゃぐちゃですが年末には友達の家に泊まり『神様の言うとおり』というクソどうでもいい映画を観てしまったりもしました。

 あとは漫画。『バーナード嬢曰く』『甘々と稲妻』など最近は充実しています。小説だとさっきも書いた通りP・K・ディックにハマり (といってもまだ2冊しか読めてない)、辻原登の『父、断章』に痺れました。あと安吾の「堕落論」もよかった。これからの精神安定剤になりそうです。

 とまあ、こんな感じでなんやかやはあったので、そういったこと、特に登山・自転車・本の話なんかはこれからぼちぼち書いていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

春隣【創作小説】


 ずっとほしかった一眼レフを買ったので、日曜日の午後、さっそく外に撮りに行ってみることにした。近所の河川敷に出かけると言うと、春子さんが「私も、私も行く!」とあわてたように繰り返すので、一緒に出かけることになった。
 僕と春子さんは一緒に家を出て、だんだん春めいてきた外の景色を眺めながら河川敷までの道を歩いた。日曜日とだけあって、土手に整備されたサイクリングロードは自転車やジョギングを楽しむひとたちで賑わい、河川敷では少年野球チームが元気な声を響かせている。
「何を撮るの?」
「……うーん。なんか適当に、そのへんの風景でも」
 僕たちは土手を渡ってひとまず河川敷に降り、活発な応援が飛び交う少年野球の紅白戦に目をやった。ボールがミットに収まる。ストライク! バッターアウト……
 あらかじめカメラに装着しておいたレンズの蓋を外し、ファインダーを覗き込んでみた。ぼやけた景色が目の前に広がり、シャッターボタンを軽く押すと、ピントが合ってクリアな世界に変わる。川向こうにレンズを向け、適当なところでシャッターを切った。小気味いい音がして、スクリーンに撮ったばかりの写真が表示される。
「見せて見せて」
 顔を寄せてきた春子さんにスクリーンを見せた。
「ははぁ〜。やっぱりうん十万のカメラだけあるね〜」
 僕は聞こえないふりをし、再びファインダーを覗き込んだ。
 でも確かに春子さんの言うことは当たっていて、まったくの素人である僕が構図も絞りもそこそこにシャッターを切っても、それなりに絵になる写真が撮れた。ただ遠くを撮るのには限界があって、こんなことなら最初から望遠レンズも買っておけばよかったと思う。
 僕が早くも次のレンズの試算を始める傍ら、春子さんは川の水に手を浸したり石を投げたりして遊んでいた。僕はそっとその場を離れ、夢中で石を選んでいる後ろ姿をファインダーに収めた。彼女に焦点を合わせ、シャッターを切る。……パシャ!
 気配を感じたのか、ふと春子さんがこちらを振り返った。カメラを向ける僕に気づき、手に持っていた小石をぽとりと落とす。それから両手を広げ、満面の笑みでダブルピースを浮かべた。近くにいたカップルが、くすりと笑い声を漏らす。
「なんだかなぁ」
 思わず苦笑し、嬉しそうにピースサインを送る彼女をファインダーに収めた。河辺に生い茂る緑のなかで、彼女だけが鮮やかに浮かび上がって見える。
「……ま、いいか」
 春を隣に控えた空はわずかに霞み、ぼんやりとした光を落としていた。その平凡で幸福な光の下でシャッター音が響き、僕たちの日常を切り取った。