憧れの槍ヶ岳【準備編】
今月2日から4日にかけて北アルプスの表銀座を縦走してきました。今回はその話です。
表銀座縦走コース(おもてぎんざじゅうそうコース)とは、北アルプス山麓の中房温泉を起点とし、合戦尾根を登り常念山脈を大天井岳まで縦走し、東鎌尾根の喜作新道を経て槍ヶ岳へ至る登山コースの名称である。(Wikipedia「表銀座」)
大学の友達Sと2人で行きました。
いつか北アルプスに行きたいということは去年の秋頃から言っていて、そしてお互いが卒業年度となったこの夏、行くなら今しかないと意を決したわけです。
初心者同然のぼくが北アルプスに行っても良いのか、迷いはありました。けれどどうしても在学中に北アルプスに行きたいという思いがあったし、何より登山を始めて以来の憧れの山、槍ヶ岳に登りたいという思いが強かった。不安よりもそうした思いのほうが強いと自覚したとき、それまであった迷いはふっと消えていきました。そのかわり、しっかり準備をしよう、と思いました。
(参考までに、ぼくのプロフィールを書いておきます)
umiya:23歳。運動神経は平均、体力は平均以下。昨夏、一人旅したさに衝動買いした35Lザックを活用するために登山を始める (けっきょく一人旅はしなかった)。
この1年で登った山
・御岳山・日の出山
・景信山・陣馬山
・高尾山
・大菩薩嶺
・棒ノ折山
・筑波山
・武甲山
・塔ノ岳
・川苔山
・金時山
・高水三山
・鍋割山
・岩殿山
半数以上が1000m未満の低山。また、山小屋泊の経験はなし。
準備
インナー、フリース、レインウェアなど、最低限必要なものはこの1年で既に揃っていました。しかしたったひとつ北アルプスに行くには必要不可欠 (であると思われる) ものが欠けていて、ぼくはさっそく友達とそれを買いに行きました。
登山靴です。
これまでは父から借りた登山靴っぽい革靴かランニングシューズで登っていたので、登山靴は買っていませんでした。しかしさすがにそうした靴で北アルプスに登るわけにはいきません (前者はともかく、ランシューは滑るので危険です)。
登山靴にはハイカットと呼ばれる踵の高いものからローカットと呼ばれるスニーカーのようなものまであり、その中間に当たるものはミドルカットと呼ばれます。そのほか夏山用と冬山用、防水か否かなど用途に応じてさまざまな種類のものがあり、自分の目的に合ったものを選ばなければいけません。
ぼくはモンベル、ノースフェイス、ホグロフスと見て、結果これを購入しました。
[ホグロフス] HAGLOFS HAGLOFS ROC ICON GT 491770 2FH (TRUE BLACK/GALE BLUE/7)
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決め手はデザイン。
……しっかり準備をしよう、と言った舌の根も乾かぬうちにデザインで決めましたというのもなんですが、やっぱりいくら性能が良くっても気に入ったものじゃないと使わないもん。そしてもちろん、デザインだけで決めたわけではありません。
ホグロフスに行く前に入ったモンベルとノースフェイスでは、きまってハイカットかミドルカットの靴を薦められました。岩場やガレ場のある山では足首を保護することが大切であり、そのためにはローカットでは心許ないと。確かにその通りだと思います。実際、北アルプスでは登山者のほとんどがミドルカットあるいはハイカットの靴を履いていました。
が、これらの登山靴には当然ながら重いというデメリットもあって。また踵を保護するということはそこを固定するということでもあり、慣れていない者には歩きにくさもあります。
それらのデメリットとメリットのどちらを取るか迷いながら入ったホグロフスで出会ったのが上に載せた「HAGLOFS ROC ICON GT」であり、香川照之みたいな店員でした。その店員は言いました。
「ぶっちゃけ、折れるときはローだろうがハイだろうが折れます」
と。
もちろんこれは極論で、仮に岩が落ちてきたりぐねったりしたときの骨折の可能性はローカットのほうがずっと高いとは思います。が、ローカットの身軽さゆえに助かる場合もなきにしもあらずであることを考えると、必ずしもミドルカットやハイカットのほうが安全だとも言えないわけで。要はどこにリスクなりメリットなりを見出すかということです。ぼくの場合は足の保護よりもとにかく身軽さ、歩きやすさを重視していたため、最終的にローカットの靴を選びました。(この判断がどう出たかは【振り返り編】で書きます)
靴のほかには、
モンベル(mont-bell) ヘッドランプ ミニヘッドランプ セルリアンブルー 1124588-CEBL
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御来光登山のためのヘッドライト、
ハイマウント(HIGHMOUNT) サバイバルシート ゴールド 22134
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いざというときのサバイバルシート、
[モンベル] mont-bell ライトスタッフバッグ セット 1123833 マルチカラー (マルチカラー)
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衣類や貴重品などを収納しておくスタッフバッグ (防水)、
山と高原地図 槍ヶ岳・穂高岳 上高地 2016 (登山地図 | マップル)
- 作者: 昭文社地図編集部
- 出版社/メーカー: 昭文社
- 発売日: 2016/03/30
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「山と高原地図」を買いました。
ザックの中身は、こんな感じ。
◦衣類
・ジオライン (薄手) の長袖
・ジオライン (薄手) の半袖
・ジオライン (薄手) のパンツ
・フリース
・レインウェア
・帽子
・サポートタイツ
・登山用の靴下
・ネックウォーマー
・手袋
◦食糧
・10秒チャージ
・飲むカロリーメイト
・すだち岩塩飴
・果汁グミ
・カップヌードル×2
・水2L (500mlペット×2+1L水筒)
◦その他
・ジェットボイル (ガス含む)
・割り箸2膳
・ザックカバー
・スタッフバッグ (2L、4L、10L)
・サバイバルシート
・ヘッドランプ
・「山と高原地図」
・行動予定表
・日焼け止め
・汗拭きシート
・絆創膏
・歯ブラシ
・ビニール袋5枚
・酸素缶
・耳栓
・iPod
・財布 (5万ほど)
・バスの支払い明細 (念のため)
・眼鏡
このほか、着用しているもの (ジオライン半袖、麻製シャツ、ナイロン製半ズボン、短い靴下) といった感じです。
準備を終えたら、いよいよ現地へ向かいます。(【本編】へつづく)
いつまでもセカイ系
しばらくブログはいいかと思っていたんですが、なんとなく書きたくなったので書きます。およそ二ヶ月ぶりの更新です。……二ヶ月。けっこういろいろなことがありました。教育実習、教員採用試験、初めてのES……。もちろん趣味の登山、サイクリング、読書etcも継続して行っています。こないだの三連休には二泊三日で近畿に現実逃避旅行センチメンタル・ジャーニーしてきました。
しかし結論からいうと、未だに進路は決まってません。相変わらずふらふらしてます。そして今回は、この相変わらずふらふらしてるバカヤローなぼくのメンタルについて書きたいと思います。内省するために。
ぼくのメンタル。それは一言でいえば「セカイ系*1」です。
セカイ系。これは主に社会学や文学のなかで使われる言葉で、ひとによって定義は異なりますが、要は「主人公 (ぼく) と世界があいだに何かを挟むことなく直接繋がっている」状態のことです。東浩紀は『波状言論 美少女ゲームの臨界点』のなかで「主人公 (ぼく) とヒロイン (きみ) を中心とした小さな関係性 (「きみとぼく」) の問題が、具体的な中心項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義し、その代表作として新海誠*2の『ほしのこえ』、高橋しんの『最終兵器彼女』、秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』*3の三作を挙げています。ほかに有名な作品を挙げるとハルヒもこのセカイ系です。
ただ、いま書いたのは狭義の「セカイ系」で、ヒロインや世界の危機がなくとも、単に「ぼく」と世界があいだに何も挟まず直接結びついているような作品や思考形態についても「セカイ系」ということがあります。ぼくのメンタルはこっちのセカイ系*4です。ぼくと世界は結びついている。つまり、ぼく (主人公) は世界の中心である。という思考形態。
……もちろんぼくも二十三になり自分がどういう人間かもだんだんわかってきて、いつまでも自分が世界の中心だと本気で信じているわけではありません。世界はぼくとは関係なく回っているし、ぼくが死んでもそれは変わらない。わかってはいるのですが、どうしても最後の最後の部分で「おれはどうにかなる。おれがどうにかならないわけがない」と思ってしまうのです。つまり、「自分は主人公であり、世界と結びついている」のだからこのまま終わるわけがない、と。
ぼくのどうしようもないオプティミズムあるいは現状軽視はここから来ているのだと思います。たまにふっと頭が冴えたとき「このままじゃやばい」と危機感が脳裏を掠めるのですが、すぐに日常のあれこれに埋もれ、埃を被ってしまいます。
いちおう来月の私学教員適性検査にも申し込んだし院試の勉強もしていますが、どうなることやら。親には非常勤講師をやりながら院に通うといっていますが、ほんとうにぼくはそれがしたいんですかね。
ローズバッド【創作小説】
私はこいのぼりが好きだ。春の柔らかな風にそよそよと吹かれているようすは、見ているだけで癒やされる。ふっとからだから力が抜けていき、どこか懐かしい気持ちになる。
今朝になって街のこいのぼりが一斉に撤去されたのを確認して、しかたのないことだとはわかりつつもがっかりした。代わりに洗濯した服を干してみたけど、水に濡れて色を濃くした服はこいのぼりと比べるとやはり力が入っていて、なんとなく物足りない感じがする。脱力するまでには至らない。日常を思い出してしまうからかもしれない。
きょうは大学が休みなので、私はいつも以上にぼんやりとしている。朝から雨との予報は外れ、いまのところは空は青い。息を吸い込むと、微かに花の香りがする。
七階の狭いベランダからぼーっと景色を眺めていると、先月まで咲いていたたんぽぽの綿毛がふうわり上空を舞って飛んでいくのが見える。綿毛は太陽の光に照らされ、涙のようにまばゆく輝く。私は部屋にもどる。
トーストを食べて身仕度をしたら、手提げを持って駅へ向かう。エレベーターの扉が一階で開くと、やっぱり少し花の香り。甘くて押しつけがましい匂い。
駅に着く。春太はまだ来ていない。私はぶらぶらとそこらへんを行ったり来たりする。何度目かで、春太が改札に現れる。春太は全身に太陽の匂いを巻きつけている。
「悪いが徹夜明けなんだ。おやすみ悪しからず」
へんな日本語を喋り、春太はベッドに寝転がる。私のベッドに。きのうから干しておいたスーツをさっき取り込んだばかりだから、きっと気持ちいいだろう。何のおそれも抱かずに眠りの世界へと身を沈めていくことができる春太を、私は羨ましく思う。でも、彼の寝顔はとてもすこやかで、幸せな温度に満ちている。私はそれを見ると、いつもお裾分けしてもらっているような気になる。安眠のお裾分け。
眠っている人の隣は居心地がいい。
私はつられて眠くなるということはないけど、それでもからだの奥からぽっと温かくなってきて、心の底から安心できる。本を読んでいても、大学の課題をしていても、編み物をしていても満たされた感触がある。私のすぐ後ろで、春太が安らかな寝息を立てている。その一定のリズムが私の耳朶を快く打ち、部屋に優しさを溢れさせる。たまらなくなって彼の頬を撫でると、少しくすぐったそうに声を漏らす。白のカーテンレースから漏れる太陽の光。ふんわりと舞う綿毛。目を閉じると、花畑が見える。私は花びらを撫でる。つるりと官能的な触感。きれいな薔薇には棘があるのよ。白薔薇が私に話しかける。私、きょうも刺しちゃったわ。赤薔薇が笑う。白薔薇も笑う。いつの間にか、私は青薔薇になっている。
* * *
「起きた?」
目を覚ますと、いつの間にか私はベッドの上で寝ている。珈琲のいい香り。春太は甘党なのに珈琲はブラックで飲む。俺ん家、親が二人とも珈琲好きでさ。幼稚園のころから、珈琲はブラックで飲まされたんだ。それも、深煎りの苦い豆をだぜ。だから、珈琲って聞くとどうしてもブラックしか考えられなくなっちゃったんだよな。春太が話している。いや、こう話してくれたのは昔のことだ。いまじゃない。私はゆっくりと上体を起こす。カーテン越しに差し込む陽の光は少し暗くなっている。夕方になったのだと思う。
「何を食べようか」
「私、寝起きよ」
手鏡で顔を見てみると、思ったよりもすっきりとした顔をしている。けっきょく、つられて眠ってしまった。春太が私を見て笑う。
「髪、ぼさぼさ」
「……ブラシ、取って」
私が髪を直していると、春太がよっと立ち上がった。
「俺、西友でなんか買ってくるよ。希望ある?」
「待って、私も行く」
外に出ると、すっかり日が沈んでしまっている。気温が下がり、ちょっと肌寒い。花の柔らかな匂いに変えて、夜の乾いた空気が澄んでいる。
二人で買い物かごを押して歩いていると夫婦みたいだ。春太は、このときがいちばん照れくさくてかなわないと言う。何かと理由をつけて離れようとするので、がっちりと腕を固める。そうすると春太はおとなしくなる。
「タマネギあったよな」
「……たぶん」
「ベーコンは?」
「ない」
私が質問に答えるあいだに、春太はぽんぽんと食材を放り込んでいく。そのうち、かごに入れられた材料から今夜のメニューがわかってくる。
「ナスとトマトのスパゲティー」
「で、OK?」
「うん」
家に帰ると、春太はさっそく料理を始めた。
まず鍋でお湯を沸かし、そのあいだに野菜を刻む。タマネギ、にんじん、ナス、トマト……。お湯が沸騰するとスパゲティーを入れてタイマーを七分にセットし、野菜とベーコンをオリーブオイルで炒め始める。塩と胡椒を少々。スパゲティーをざるに開けたのをフライパンに入れ、白ワインをすばやく一周させる。麺と具がよく混ざると、お皿に移して出来上がり。
いつもながら、惚れ惚れするような手際の良さだ。
春太は私と同じ二十歳のどこにでもいそうな男の子だけれど、見た目に反して (と言っては失礼だけど)、とても料理がうまい。私が作るよりも手際も味もいいので、いつもお願いすることにしている。春太も、料理は苦にならないらしい。代わりに、手先の器用さが求められる作業、たとえば裁縫とか――は私がする。春太はほどけたボタンをつけることができない。この年になって母親にやってもらうのもなんだか恥ずかしくてさ。私と付き合うまではボタンの取れた服は着られなかったと言っていた。
食べ終えてから少し休み、それからお皿を洗っていると、リビングにいたはずの春太がふといなくなっていることに気づく。慌てて後ろを見ても、もう遅い。私は腕の中にいる。
「もう帰るよ」
「……うん」
私はお皿を洗う手を止める。蛇口からとぼとぼと水が流れる。その音だけが部屋に響く。
「また来る」
「いつ?」
「たぶん、しあさって」
「……うん」
それから春太は私の耳元で小さく囁いて、ぐっと強く抱きしめてから、ふっと力を解いて玄関に歩いていく。靴を履くと、手を振って行ってしまう。
二度と来ないかもしれない。その後ろ姿を見て、いつも思う。
* * *
春太がいなくなったら、私はどうなるのだろう。
じぶん一人しかいなくなった部屋で、照明を落としてベッドに潜り、私はじっと考えている。春太は私にとっていなくてはならない存在だ。しかし私は彼にとっていなくてはならない存在だろうか?
春太は実家暮らしだから、いつも十時までには私の家を出ていく。春太の緩い性格からは考えられないけれど、かなり厳しいご両親で、ほんとうは一人暮らしの恋人の家に行くことにだって反対らしい。けっしてやましいことはしてないから。ふつうは親に言わないような弁明をして、やっと許してもらえたのだと苦笑いしていた。春太の困ったような笑みが暗闇に浮かぶ。
一人よりも二人のほうが淋しい。彼が帰ったあとの静寂が深まるだけでなく、恋愛それ自体にたぶん淋しさが含まれている。会っていても、どれだけ心が通じ合っていても、人間は他者を完全に理解することはできない。そのことがひしひしと感じられて、まっ暗な穴に突き落とされるような淋しさがある。
電気を消して耳を澄ませていると、遠い宇宙で星たちが消滅していく音を聞くことができる。銀河の流れる衣擦れのような音。軌道に乗って回り続ける人工衛星。あらゆる孤独を吸い込み続けるブラックホール。座礁した宇宙船。
この世はみんな孤独なのよ。聞き覚えのある声が言う。だからいつまでも求め合うし、それは終わることがないの。人が好き合うって、けっきょくそういうことよ。
視界が薔薇の花で埋まっていく。私は薔薇のつぼみに吸い込まれていく。何層にも重なり合った花弁。孤独はなくならない。ふしぎな匂いが鼻孔を満たす。でも、分かち合うことはできるわ。
青薔薇が降り注ぐ。この途方もない宇宙の片隅で、密かに息をする七階の孤独。それを埋めるように、ひとつまたひとつと青薔薇が降り注ぐ。固く閉じられたつぼみ。私の目の前に少しずつ花畑が立ち上る。私と彼の孤独を栄養に、いつか開かせることができるだろうか?
たぶん一年以上ぶりに、彼女がほしいと思った
きょうは大学の演習で模擬授業をしました。今月末から始まる教育実習を見据えてのもので、単元の導入部を約20分。模擬授業は全員がやるわけではなく30人弱いるクラスのうち5人が担当するんですが、ぼくは後先考えずこれに立候補してしまい、案の定ギリギリまで指導案を作っておらず、おかげで昨日は寝れない夜を送ったんですが、結果からいえば、やってみてよかったです。当たり前だけど、実際にやってみないとわからないことだらけだ。ぼくは内心自分は授業がうまいと自負していたんですが、単なる思い上がりだと痛感しました。フィードバックでは良かった点も改善すべき点もたくさん挙げてもらったので、自分のどこが良くて何を見直すべきかがはっきりしたかなと思います。
……とまあ、模擬授業はたいへん有意義だったんですが、今回書きたいのはそのことではなく。タイトルにも書いたようにきょう、たぶん一年以上ぶりに、彼女がほしい……いや、正確には彼女がいたらなあって、そう思ったんです。
ぼくはここ1、2年は自分の将来について考えるので精一杯でとても誰かと付き合うなんて考えられない日々が続いていて、それはいまでも変わらないんですが、でもきょう、模擬授業を終えて「俺ってまだまだだなあ」と自分の未熟さを感じていたときに、「こういうとき、話を聞いてくれる彼女がいたらなあ」って思ったんです。これはいたってフツーな心の動きなのかもしれないけど、長らくひとりに慣れていたぼくにとって、自分でもかなり意外な感情だった。
だからなんだと思われるかもしれませんが、ぼくがここでいいたいのは、ひとはやっぱり就活やなんやかやで精神的に疲弊してくると*1、拠り所としての恋人を求め始めるのかなあってことです。ぼくもいまはまだひとりのほうが気楽でいいと感じているけれど、この先、たとえば就職して仕事で辛いことがあったりすると、「やっぱ彼女ほしい」って思うのかもしれません。
というか、そんなときでさえ思わなかったらヤだな。どうか思いますように。
*1:なんて偉そうに書けるほど、ちゃんと就活していない。明日からがんばる予定。
「コミュ力」についての基本的な確認
先日、教育実習の打ち合わせのために母校に行き、教科担当の先生と話をしてきたんですが。
ぜんぜん会話ができない。
べつに先生とぼくのあいだが気まずいとかどちらかが極度に人見知りだとかそういうわけではありません。むしろ先生 (ここではK先生とします) は非常によく喋るひとで、ぼくたちのあいだに話が絶えることはない。それではぼくはなぜ、「ぜんぜん会話ができない」と書いたのか。簡単です。常にK先生が一方的に話しているからです。
K先生はいわゆる「マシンガン」なひとで、ひとつひとつの話が長いわけではないんだけど、ひとつの話から次の話へと永遠に話が連なっていく。しかもそのうちほとんどが、実習とは関係のない話 (先生の最近の趣味とか飼っていた猫とか)。
マシンガンでもこちらに傾ける耳があればいいんですが、ぼくが途中で口をはさんでも、いちおうは聞いたふりをして相変わらず自分の話を続ける。ぼくが話しているあいだは黙っていてくれるんだけど、けっきょくすべて自分の話に引き入れてしまう。こちらの話をぜんぶ自分の話に吸収してしまう。会話のバランスという概念が欠如していて、自分ばかり話していることに気づかない (あるいは、気づいていても問題としない)。
communication《言葉・記号・身振りなどによる情報・知識・感情・意志などの交換過程》
『新英和大辞典 第六版』にもあるように、コミュニケーションとはとりもなおさず「交換」することで、だからこそそこには互いのあいだを行き来する運動があって然るべきです。しかしK先生のようにただ欲求のままに自分の話をし続けるひとは、一見コミュニケートしているように見えても、実際は自分の持ち物の押し売りをしているだけ。一方通行的で、とても他者の入り込む隙がない。
巷では「よく話すひと=コミュ力があるひと」みたいに考えられがちだけど、ほんとうの意味でのコミュ力って、そういうことではないよね、と今更ながら簡単な確認をしたくなったきょうこの頃です。
若さをもてあそぶ ――サニーデイ・サービス「若者たち」
二ヶ月ほど前からサニーデイ・サービスにはまり継続して聴いているんですが、 1stアルバムの『若者たち』の最後を飾る表題曲「若者たち」*1に、こんな詞があります。
彼女はと言えば 遠くを眺めていた
ベンチに腰かけ 若さをもてあそび
ずっと泣いていた
僕はこの曲が好きで繰り返し聴いているんですが、最初にこの詞を聴いて思ったのが、「なんで若さを『持て余し』ではなく『もてあそび』なんだろう」ということ。
ふつう、「若さを持て余す」とは言っても、「若さをもてあそぶ」とは言いません。
もて-あそ・ぶ【玩ぶ・翫ぶ・弄ぶ】
①手に持って遊ぶ。
②慰み愛好する。また、寵愛する。慰み興ずる。
③人を慰みものにする。なぶる。
④思いのままに扱う。好き勝手に扱う。(『広辞苑 第六版』)
直後に「ずっと泣いていた」と続くことから考えれば、②の「慰み愛好する (…)」の意味ではないことが推測できます。④の「思いのままに扱う。好き勝手に扱う」も同じ理由で考えにくいと言うことができるでしょう。となると、残る選択肢は①か③の二つ。③は「『人』を慰みものにする」とあるのが気になるところですが、そもそもよく使われる「若さを持て余す」という表現も「若さ」を擬人化していることを考えると、それだけで撥ね除ける根拠にはならない。だが①の「手に持って遊ぶ」に対し、③の「慰みものにする。なぶる」は攻撃的なニュアンスを孕んでおり、「持て余す」が「処置に困る。取り扱いに苦しむ。手に余す」(『広辞苑 第六版』) と受動的な意味に収まっていることを考えれば、いちばん互換性が高いのは①の「手に持って遊ぶ」だと言うことができます。だから僕もはじめの頃は「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の類義語に過ぎないものとして聴いていました。
が、何度も聴いているうちに、馴染みのある「持て余す」という表現ではなく「もてあそぶ」という表現を選択したのには、やっぱり何か別の強い意味が隠されているのではないかと思えてきた。それはたとえば、次のような詞を聴いたときに頭をもたげてきます。
広がって来る不安におそわれ
「明日になれば」「朝が来れば」とか
昨日もそうだった
もちろん、「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の単なる言い換えとして聴くことも可能です。しかしこれは曲名からもわかるように「若者たち」、さらにいえば (若者たちの) モラトリアムについて歌った曲であり、まさにいま「若者たち」のうちのひとりである僕としては、そこに「持て余す」の単なる言い換えには収まらない強い意味を見出さずにはいられないのです。つまり、どうしても③の意味で聴いてしまう。
③人を慰みものにする。なぶる。
ところで、一般に語られる「若さを持て余す」とはどのような状況でしょうか。その表現から思い浮かぶのは、若さ故の精力、時間に満ちあふれているのだけれど、まさにそれが「満ちあふれ」ているがためにどう対処すればいいかわからず、身動きがつかなくなっている若者の姿。おそらくそんなところだろうと思います。
では、「若さをもてあそぶ」になるとそれがどう変わるのか。「もてあそぶ」を①ではなく③の意味で捉えれば、そこには若さ故の精力、時間に満ちあふれ、それらをどうにかしようと何かしらやってみるのだけれど、なかなかうまくいかない。いつも徒労に終わる……そんな若者たちの姿が立ち上がってきます。つまり、「若さを持て余す」が自分では制御しきれない精力や時間を文字通り「持て余」して呆然と立ち尽くしているのに対し、「若さをもてあそぶ」はその制御しきれない精力や時間をどうにかしようと試みるのだが、それがうまく形にならない。徒労に終わり、結局は若さを「なぶる」だけに終わってしまう……というモラトリアム (≒ 何者かになるための猶予期間) の中でもどかしさを抱えた「若者たち」の姿を痛切に描き出していると思うのです。つまり、そこにはただ呆然と立ち尽くすのとは一線を画した能動性、弱々しいながらも懸命なあがきがある。
それはたとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の主人公たちを思わせる光景で、「ベンチに腰かけ」て「遠くを眺め」、「ずっと泣いてい」るその後ろ姿は若さをセックスとドラッグで乗り越えようとしたものの、あるときふとその空しさに気づいて動けなくなった主人公の後ろ姿に重ねられないでしょうか。あるいはandymori「すごい速さ」*2の詞、
でもなんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う
だってなんかやらなきゃできるさどうしようもない
このからだどこへ行くのか
に描かれた「なんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う」若者 (たち) の焦心、「だってなんかやらなきゃ」→「できるさ」→「どうしようもない」と試みては徒労にうちひしがれる後ろ姿とシンクロして見えてこないだろうか。
と、長々と勝手な解釈を連ねてきましたが、それだけ僕はこの「若者たち」の「若さをもてあそぶ」詞が好きなのであり、その理由はまさにいま自分がモラトリアムの中で懊悩する若者で、歌い上げられるその姿に強く共鳴してしまうからだと思います。小説にさまざまな読み方があるように音楽にもさまざまな聴き方があって、たとえばクラフトワークが好きな僕の友達は「想像の余地が残されているほうがいい」と話していましたが、やっぱり僕はどうしても歌われたものに共鳴することでしか聴くことができないようです。だから「若者たち」のなにげない言葉のチョイスが、いつまでも心の内に引っかかる。
サニーデイ・サービスはそうした若者の懊悩だけでなく恋の楽しさを歌い上げるバンドでもあり、また晴れた日の朝のうきうきとした気分や「雨の土曜日」の青白くけぶった街並み、八月の狂おしいほどの暑さをそれこそ「若葉の匂い」のように立ち上がらせてくれるバンドでもあるので、抒情的な音楽が好きなひと、特に邦画的な世界観が好きなひとなんかは惹かれるのではないでしょうか。今回取り上げた「若者たち」は冒頭に書いたように1stアルバムの表題曲でしたが、僕がいちばん好きなのは2ndアルバムの『東京』なので、いずれこちらについても書きたいと思っています。これがまたいいアルバムなんだ。
と、いうわけで、評論に見せかけて実はただの好きな曲語りでした。
さ、現実逃避はここまでにして、明日 (既に今日) の模擬授業の準備しよう。……はぁ。at AM 3:00
- アーティスト: andymori
- 出版社/メーカー: Youth Records
- 発売日: 2009/02/04
- メディア: CD
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若葉の匂い
ゴールデン・ウィークが終わり、梅雨が来るまでのあいまいさに覆われたこの時季、夜になると若葉が香る。
それは新緑という名の持つ爽やかさからは想像しづらいムッと立ちこめた草木の匂いで、決してかぐわしい、という種類のものではない。けれども僕はこの匂いが好きで、ぼんやりと霧に曇った夜、四辺から立ち上る新緑の、思わず息を止めてしまいそうな生気の籠もった匂いを嗅ぐと、なぜだか無性に懐かしくなり、と同時に切なくやるせない気持ちに襲われてしまう。その匂いのいったい何が、こうも僕を揺さぶるのか。
若葉の匂いから思い出されることのひとつに、大学に入学したばかりの頃に起こった出来事がある。
当時、僕はのちに付き合い別れることとなる同じサークルの女の子と進展中で、その日もサークルが終わったあと新宿で晩ご飯を食べる約束をしていた。
サークル活動を終え、キャンパス門前で解散しようというときだった。サイゼリヤに寄っていく組と早稲田から電車に乗って帰る組の二手に分かれることになり、幹事長によって挙手が求められた。僕と彼女は視線を合わせ、咄嗟に僕が、
「俺、高田馬場まで歩いて帰ります」
と宣言し、彼女がつられたように「私も」と手を挙げた。そうしてみんながあっけに取られる中、ふたりでその場を後にした。
あのとき、みんなに見つめられながら彼女とふたり歩いて帰ったときも、ちょうど雨が上がったばかりで、若葉の濃い香りが立ちこめていたのをはっきりと覚えている。
また、高校生の頃は学校が緑豊かな谷の上にあったため、この時季になると毎日、朝はげっと鼻をつまんでしまいたくなるほど強烈な草の焦げた匂い、夜には霧に濡れた新緑のあの身にまとわりつくような匂いを嗅いでいた。下校時、不気味に口を開いた谷戸の暗がりを見下ろしながら、ひとり取り憑かれたように足を速めて帰ったのを覚えている。あのときも、まわりでは若葉が滲んでいた。
匂いから誘発される懐かしさ切なさと、これらの思い出は関係があるのだろうか。自分ではよくわからない。まったく無関係のような気もする。けれども若葉の匂いを嗅いだとき、いまとなってはこうした場面の数々を思い出さずにはいられないのも事実で、その場面の数も年を経るごとにつれ増えていくのだろう。それがいい思い出ばかりになるとは限らないけれど、これから先、今日のようにふと若葉の匂いを嗅いだとき、立ちのぼる光景がいまより多くなっていればいいなと、そう思う。