秋/深夜の道路/音楽/如雨露

 明大前で飲むときはいつも終電を逃した。逃す、というか、ほんとはぎりぎりまで気づかないふりをしているだけなのだけど、気づいているのかそうでないのか、ヨモギさんはいつももう終電がないと知らされると、「じゃあ歩けばいいね」と言って歩き出すのだった。
 去年留年をしているヨモギさんは同じ四年生でもぼくの一歳年上で、サークルでは常に話の中心にいるひとだった。飲み会の間じゅう一度も席を動かずまわりにひとがいなくなるとスマホをいじっているぼくとは違う世界の住人だった。それでもサークルの飲み会が終わるとヨモギさんはいつも「あと一杯だけ飲んでこうよ」とぼくを誘った。住んでいるアパートが近いせいだった。明大前で飲むと、終電を逃しても二人とも歩いて帰れる。ヨモギさんは何杯飲んでも顔色の変わらない酒豪だった。
 ぼくもヨモギさんも明大前から二駅の桜上水に住んでいた。二次会まで出ると、桜上水に帰って飲み直すには微妙な時間になる。というか面倒なのだった。電車に乗ってしまえば、そのまま帰ってしまいたくなった。それに酒を飲んだあとの夜の散歩が好きだった。ヨモギさんはきょうもコンビニでビールを買った。この寒いのによくやるなあと思う。コーヒーがドリップされるのを待っているぼくに、カフェイン飲んで酔わないの? とヨモギさんは頓狂なことを言う。
 甲州街道に出て道なりに歩く。日付が変わっても車通りが多い。首都高が真上を走る甲州街道を歩いていると車の走る音がぐわんぐわんと反響して足下が揺れているような気持ちになった。吹き抜ける風が肌寒い。もう秋なのだった。遠くの信号が青から赤に変わって減速した車のテールランプが灯る。少し先をゆくヨモギさんが鼻唄を歌っていた。
「なんで『あじさい』なんですか」
「なんでだろうねえ」
 ヨモギさんの鼻唄には脈絡がなかった。夜だろうと『Morning Glory』を歌ったし、とっくに夏が終わっていても『君は天然色』を歌った。少し古い曲が好きなのかと思えば昨年解散したばかりのバンドの曲を歌ったりもする。一つ言えることは、ぼくとは絶妙に音楽の趣味が重なっているということだった。
「こうやってお酒飲みながら歩いてると、永遠に歩ける気がしてくるね」
「いや酔ってるだけでしょ。というかもう酒ないじゃないですか」
「お酒は飲んでるとなくなるからかなしいねえ」ヨモギさんは飲み終えた缶を自販機横のゴミ箱に捨てた。なんとなく見なかったふりをして、ぼくは煙草に火をつける。
 ガードレールを挟んですぐ横を走り抜けていく車がどれもすばらしく自由であるような気がした。夜の道路を駆け抜けていくのは気持ちいいだろうな、とぼくは思った。首都高の灯にも照らされて、甲州街道は煌々と光っている。
 ヨモギさんがまたいつのまにか鼻唄を歌っていて、それが藤井風の『さよならべいべ』であることに気づいてぼくは不意に胸を衝かれた。理屈の通らないかなしさが一気に襲ってくる。ぼくはゆっくりと煙を吐いた。
ヨモギさんは、卒業まで何やって過ごすんですか」
「私も煙草吸いたい」
 ぼくの質問を無視し、ヨモギさんは手を差し出した。箱ごと渡し、ライターで火をつけてやる。傍目にも慣れていないとわかるやり方で煙を吐くと、もういいや、といって路上に捨てた。ぼくは見なかったことにした。
「とりあえず、植物を育てる」
「え? ああ、さっきの……」
「いまね、私の家のベランダ、かるく熱帯状態で」
「はあ」
「今度引っ越すところがね、ベランダがないから、いまのうちに大きな鉢植えを育てようと思って、花屋さんで見かけるたびに買ったの。そしたら、外が見えなくなるくらいみんな生長しちゃって。植物の生命力ってすごいんだねえ」
「すごいんだねえじゃねえよ。というかそれ、引っ越すときどうするんですか」
「室内で育てられそうなのは持っていくけど、そうじゃないのは植えるしかないかな」
「どこに?」と聞いてすぐに問題はそこじゃねえよと思ったが、もう面倒くさくなったので黙っていることにした。陸橋が近づいてきて、もう下高井戸まで来たんだなと思う。この次の陸橋を渡ればアパートはすぐだった。ヨモギさんは植樹の候補地について話し続けている。やっぱりおおぞら公園かなあ、とつぶやいて、
「じょうろで水をやったことってある?」
 とだしぬけに聞いた。
「たぶん、小学生のころとか、いや、幼稚園のころか……。きいろいゾウのじょうろがあったような……」
「ああ、あったあった。あとさ、ペットボトルで作ったりしなかった? 錐でたくさん穴をあけて」
「ああ、やりましたね。で、じょうろがどうしたんですか」
「植物を育てるときめたとき、モチベを上げようと思って、すてきなじょうろを買ったの。陶製の、カーキ色のポットみたいなやつ」
 それでね、とヨモギさんは高い声で話し続ける。いま、彼女の目は日ざしを浴びた水滴のように輝いているんだろうな、とぼくは思う。ヨモギさんは自分の好きなことについて話すとき、とても楽しそうに話す。それはとてもすてきなことだった。煙草はポイ捨てするけれど。
「そのじょうろで水をやると、ほんとうに雨が降っているみたいに見えるの。じょうろって、漢字だと雨露の如くって書くけど、ほんとうにそうなんだなあって思って。ほんとにね、お天気雨みたいに見えるんだ。そしたら私、もう雨を降らせられるんだって思って」
 何度も「ほんとうに」を連発するヨモギさんの話を聞きながら、その声もきらきら光る滴のようだとぼくは思った。ヨモギさんと話していると、植物が水をもらったように明るい気持ちになる。ぼくはこの時間が好きなんだなと思う。あと何回、こうして歩けるだろうか。
 片側四車線の甲州街道を渡る陸橋の途中で立ち止まって車の流れを見下ろす。それは光の川だった。一台が通過すると絶えずもう一台がやってきてそれがいつまでも続く。都市の川は淀むことなく一定のリズムで光りながら流れていた。やっぱり免許を取ろうかなとぼくは思った。隣を見ると、手すりの外に出したヨモギさんの手が何かを握っている。じょうろだ、とぼくは思った。ヨモギさんの持つじょうろから、光る滴が雨の如く注がれている。ヨモギさん、と思わず大きな声が出た。ヨモギさんはぼくを見て目を丸くする。「どうしたの?」
 ヨモギさんの手は何も持っていなかった。なんでもなかったと謝ると、「やっぱりカフェイン飲んだから酔ってるんだ」と理屈の合わないことを言う。ぼくたちはしばらくそこで車がやってきては去っていくのを眺めていた。隣から鼻唄が聞こえてくる。ぼくは苦笑した。それはランタンパレードの『甲州街道はもう夏なのさ』という曲だった。
「もう、秋ですよ」
 そうだね、とヨモギさんは笑った。冷たい風が吹いてくる。ぼくたちは陸橋を渡ったところで別れた。新しい煙草に火をつけながら、ヨモギさんは今夜もベランダの植物に水をやるのだろうかと考えた。陶製のポットのようなじょうろを手にしたヨモギさんが慈雨のように光そのもののように水を注ぐ。それはとてもすてきな光景だった。ぼくの内にも、まだ雨の余韻が残っている。それは一定のリズムで鳴る音楽だった。夜はもう少しだけ残っていた。

 

 

 

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ヨモギさんが歌った曲

今はおれ25 ハマショーにはまる

 

 

ハマショーええわあ。

心酔してるandymoriは別として、サニーデイ・サービスLampなど、一般に渋谷系とかシティ・ポップといわれている音楽が好きなのですが、25になって突如ハマショーにはまりました。我ながらよくわからん。

「ラストショー」がいちばん好きなんですが、YouTubeには上がってなかった。

 

ほかに、最近はvivid undressと空気公団にはまってます。空気公団は『春愁秋思』*1というアルバムがめちゃくちゃ好きで、聴くたびに惹きこまれる。

 

 

味気ない日常でも、すてきな音楽があればそうわるくないものに思えてくるので、音楽は偉大だなあと思う。

 

 

*1:最近、唯一僕にfをもたらしてくれた。何の話やねんという方は、拙文「アーキテクチャ断想」を。

若さをもてあそぶ ――サニーデイ・サービス「若者たち」


 二ヶ月ほど前からサニーデイ・サービスにはまり継続して聴いているんですが、 1stアルバムの『若者たち』の最後を飾る表題曲「若者たち」*1に、こんな詞があります。

  彼女はと言えば 遠くを眺めていた
  ベンチに腰かけ 若さをもてあそび
  ずっと泣いていた

 僕はこの曲が好きで繰り返し聴いているんですが、最初にこの詞を聴いて思ったのが、「なんで若さを『持て余し』ではなく『もてあそび』なんだろう」ということ。
 ふつう、「若さを持て余す」とは言っても、「若さをもてあそぶ」とは言いません。

もて-あそ・ぶ【玩ぶ・翫ぶ・弄ぶ】
①手に持って遊ぶ。
②慰み愛好する。また、寵愛する。慰み興ずる。
③人を慰みものにする。なぶる。
④思いのままに扱う。好き勝手に扱う。(『広辞苑 第六版』)

 直後に「ずっと泣いていた」と続くことから考えれば、②の「慰み愛好する (…)」の意味ではないことが推測できます。④の「思いのままに扱う。好き勝手に扱う」も同じ理由で考えにくいと言うことができるでしょう。となると、残る選択肢は①か③の二つ。③は「『人』を慰みものにする」とあるのが気になるところですが、そもそもよく使われる「若さを持て余す」という表現も「若さ」を擬人化していることを考えると、それだけで撥ね除ける根拠にはならない。だが①の「手に持って遊ぶ」に対し、③の「慰みものにする。なぶる」は攻撃的なニュアンスを孕んでおり、「持て余す」が「処置に困る。取り扱いに苦しむ。手に余す」(『広辞苑 第六版』) と受動的な意味に収まっていることを考えれば、いちばん互換性が高いのは①の「手に持って遊ぶ」だと言うことができます。だから僕もはじめの頃は「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の類義語に過ぎないものとして聴いていました。

 が、何度も聴いているうちに、馴染みのある「持て余す」という表現ではなく「もてあそぶ」という表現を選択したのには、やっぱり何か別の強い意味が隠されているのではないかと思えてきた。それはたとえば、次のような詞を聴いたときに頭をもたげてきます。

  広がって来る不安におそわれ
  「明日になれば」「朝が来れば」とか
  昨日もそうだった

 もちろん、「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の単なる言い換えとして聴くことも可能です。しかしこれは曲名からもわかるように「若者たち」、さらにいえば (若者たちの) モラトリアムについて歌った曲であり、まさにいま「若者たち」のうちのひとりである僕としては、そこに「持て余す」の単なる言い換えには収まらない強い意味を見出さずにはいられないのです。つまり、どうしても③の意味で聴いてしまう。

③人を慰みものにする。なぶる。

 ところで、一般に語られる「若さを持て余す」とはどのような状況でしょうか。その表現から思い浮かぶのは、若さ故の精力、時間に満ちあふれているのだけれど、まさにそれが「満ちあふれ」ているがためにどう対処すればいいかわからず、身動きがつかなくなっている若者の姿。おそらくそんなところだろうと思います。

 では、「若さをもてあそぶ」になるとそれがどう変わるのか。「もてあそぶ」を①ではなく③の意味で捉えれば、そこには若さ故の精力、時間に満ちあふれ、それらをどうにかしようと何かしらやってみるのだけれど、なかなかうまくいかない。いつも徒労に終わる……そんな若者たちの姿が立ち上がってきます。つまり、「若さを持て余す」が自分では制御しきれない精力や時間を文字通り「持て余」して呆然と立ち尽くしているのに対し、「若さをもてあそぶ」はその制御しきれない精力や時間をどうにかしようと試みるのだが、それがうまく形にならない。徒労に終わり、結局は若さを「なぶる」だけに終わってしまう……というモラトリアム (≒ 何者かになるための猶予期間) の中でもどかしさを抱えた「若者たち」の姿を痛切に描き出していると思うのです。つまり、そこにはただ呆然と立ち尽くすのとは一線を画した能動性、弱々しいながらも懸命なあがきがある。

 それはたとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の主人公たちを思わせる光景で、「ベンチに腰かけ」て「遠くを眺め」、「ずっと泣いてい」るその後ろ姿は若さをセックスとドラッグで乗り越えようとしたものの、あるときふとその空しさに気づいて動けなくなった主人公の後ろ姿に重ねられないでしょうか。あるいはandymori「すごい速さ」*2の詞、

  でもなんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う
  だってなんかやらなきゃできるさどうしようもない
  このからだどこへ行くのか

 に描かれた「なんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う」若者 (たち) の焦心、「だってなんかやらなきゃ」→「できるさ」→「どうしようもない」と試みては徒労にうちひしがれる後ろ姿とシンクロして見えてこないだろうか。


 と、長々と勝手な解釈を連ねてきましたが、それだけ僕はこの「若者たち」の「若さをもてあそぶ」詞が好きなのであり、その理由はまさにいま自分がモラトリアムの中で懊悩する若者で、歌い上げられるその姿に強く共鳴してしまうからだと思います。小説にさまざまな読み方があるように音楽にもさまざまな聴き方があって、たとえばクラフトワークが好きな僕の友達は「想像の余地が残されているほうがいい」と話していましたが、やっぱり僕はどうしても歌われたものに共鳴することでしか聴くことができないようです。だから「若者たち」のなにげない言葉のチョイスが、いつまでも心の内に引っかかる。

 サニーデイ・サービスはそうした若者の懊悩だけでなく恋の楽しさを歌い上げるバンドでもあり、また晴れた日の朝のうきうきとした気分や「雨の土曜日」の青白くけぶった街並み、八月の狂おしいほどの暑さをそれこそ「若葉の匂い」のように立ち上がらせてくれるバンドでもあるので、抒情的な音楽が好きなひと、特に邦画的な世界観が好きなひとなんかは惹かれるのではないでしょうか。今回取り上げた「若者たち」は冒頭に書いたように1stアルバムの表題曲でしたが、僕がいちばん好きなのは2ndアルバムの『東京』なので、いずれこちらについても書きたいと思っています。これがまたいいアルバムなんだ。


 と、いうわけで、評論に見せかけて実はただの好きな曲語りでした。
 さ、現実逃避はここまでにして、明日 (既に今日) の模擬授業の準備しよう。……はぁ。at AM 3:00


若者たち

若者たち

 

 

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

andymori

andymori

 

 

*1:作詞・作曲 曽我部恵一

*2:作詞・作曲 小山田壮平

文系男子による好きなアルバム紹介


 ここのところ登山の話題ばかりだったので、たまには音楽の話でもしようかと。てなわけでいきなりですが好きなアルバム紹介。「オススメの」ではなく、あくまで「好きな」アルバム紹介です。特にマイナーなアルバムを紹介するわけではないので、「最近の大学生はこんなん聴いてるのか〜」みたいに思って読んでいただければ幸いです。 

松任谷由実『PEARL PIERCE』(1982)

PEARL PIERCE

PEARL PIERCE

 


 好きなアルバムと聞いて真っ先に思い浮かぶのがこれ。初っ端から大学生感はゼロですが、それでも好きなんだからしょうがない。
 都会のOLの暮らしをイメージして編まれたというアルバムで、ユーミン自身いちばん好きだというアルバム。季節は夏。OLの夏休み。
 個人的には、昔祖父母の家に帰省する時に車で聞いていたため、パール・ピアスといえば高速道路のイメージがあります。今でも高速に乗ると聞きたくなる。特に夜。
 どの曲も好きですが、とりわけ最初の「ようこそ輝く時間へ」、そこからの「真珠のピアス」、あとは「フォーカス」なんかもロマンティックで大好きです。とにかく洗練されたアルバム。ユーミンと正隆のセンスがいかんなく発揮された名盤。

松任谷由実『DA・DI・DA』(1985)

DA・DI・DA(ダ・ディ・ダ)/松任谷由実

DA・DI・DA(ダ・ディ・ダ)/松任谷由実

 

 
 ユーミンからあと1枚だけ好きなアルバムを挙げるとしたら、『THE GATES OF HEAVEN』と迷うところだけどおそらくはこっち。
 さっき紹介したパール・ピアスとは対照的に、こちらは冬のアルバム。曲もパール・ピアスがどちらかといえば地味で渋好みなのに対し、「シンデレラ・エクスプレス」「青春のリグレット」など有名な曲 (もっとも、ユーミンの曲はたいてい有名だともいえるけど) が多い。
 パール・ピアスには洗練された都会のOLの暮らしが描かれているけれど、ダ・ディ・ダは僕の印象で言うならば、もっと身近な、街のどこにでもいる若い男女の暮らしぶりが描かれているように思います。このアルバムで僕がいちばん好きなのは「月夜のロケット花火」。これはユーミンでは珍しく男女の歌ではなく、それこそどこにでもいる若者たちの歌。就職を控えた若者たちが最後の青春を謳歌すべく防波堤でロケット花火を打ち上げ、それを見た「私」がいつまでも「子供でいたい」と願う。そういう曲。
 大学4年生ともなれば誰しも共感せざる得ない曲です。まあ、僕はあと1年行くんですけどね。

andymoriandymori』(2009)

andymori

andymori

 

 
 やっと大学生っぽいアルバム。andymoriの1stフルアルバム『andymori』。
「なんで『ファンファーレと熱狂』じゃないんだ」という声がファンから聞こえてきそうですが、もちろん『ファンファーレと熱狂』も大好きなんですが、どれか1枚だけを挙げるとするなら、ファンファーレと比べてコンセプト感では落ちるものの、よりandymoriのエッセンスが詰まったこちらかなと。そもそも僕がandymoriにハマるキッカケとなった曲が「モンゴロイドブルース」だし、「青い空」「ハッピーエンド」なんかはそれこそandymoriらしさがぎゅっと詰まった曲だと思うし。
 それに何より、僕は「Life Is Party」が異常なほど好きなんですよね。エッセンスという意味ではこれほどandymoriが濃縮された曲もないと思うし、もっといってしまえばエッセンスがどうこうとかもうどうでもいいほどに本能で好き。
 MVもたぶんいちばん好きです。これほど曲の世界観を巧みに表した映像もそうそうないのでは。

Predawn『A Gorlden Wheel』(2013)

A Golden Wheel

A Golden Wheel

 

 
 その独特な音楽世界をしばしば童話に喩えられるPredawnの1stフルアルバム。タイトルの『A Gorlden Wheel』は直訳すれば「金の輪」で、これは小川未明の童話の題名。
 なんていうのかな、楽器とか録音方法とかの詳しいことは僕にはわからないんですが、ひとつひとつの音が丁寧。どの曲もアーティストが心から楽しんで時間をかけてつくっているのが聴いてて伝わってくる。曲調は最初に書いたとおり童話の世界をイメージさせる夢幻的な感じなんだけど、静かな旋律と囁きかけるようなヴォイスもあいまって、聴いているとふしぎに落ち着く。ちなみにアーティスト名「Predawn」は「夜明け前」という意味。つまりは「未明」。でも、僕は夕方の陽が落ちかけている時間帯に聴くのも好きです。このアルバムの曲だと「A Song for Vectors」「Drowsy」とかは特に。1日出掛けて夕方家に帰る時とか、ぴったりです。

ユメオチ『これからのこと』(2012)

これからのこと

これからのこと

 

 
 満を持して登場。言わずもがなこのブログのタイトル元。ブログのタイトルを考えていた時、思いつくと同時に即決しました。これほどしっくりくるタイトルもないだろう、と。
 CDのブックレット等を見ていると作曲、編曲などでちょくちょく目にする行達也がすべての作曲を担当。ヴォーカルは現在sugar meとして活動中の寺岡歩美。
 詞、旋律、ヴォーカル、どれを取ってもたまらなく好き。特に詞には心を揺さぶれるものが多い。詞は全曲「保坂ねこ」クレジットになっているんだけど、ネットで検索しても出てこないし、いったい何者なんだろう。これまでに出逢ったなかで小山田壮平と並ぶ好きさなんだけど。「若き日の思索のために」(曲名が既にかっこいい) の「くだらない世の中に 覚悟決めてさ/すべての優しさに さよなら」とか、「暮らしの眼鏡」の「気が付けばいつの間にか 移ろいゆく君を見てた」とか。全体的に、世の中に対する諦念と、その諦念を抱えながらも生きていくんだという前向きな姿勢、いわば「前向きな諦念」みたいなものが流れているように思う。それは若者が大人になる時の「達観」にも似ているのかもしれない。
 僕は上に挙げた「若き日の思索のために」と「さよならを教えて」の2曲を聴いた時点で完全に心を撃ち抜かれた。全曲好きだが、やはりこの2曲、そして「暮らしの眼鏡」が愛おしいほどに好き。
 このアルバムは、なぜだか旅先で聴きたくなることが多い。ローカル線やバスの車窓から知らない景色を眺めている時、なんだか無性に聴きたくなる。そして聴くたびに、いつかは「くだらない世の中」に覚悟を決めなければいけないこと、いつまでも若者ではいられないことを考える。

 

最近好きなアルバム

 ここからは番外編。見出しのとおり、最近好きなアルバムの紹介。ここのところシティポップにハマッているので、そちら関係のアルバムが多くなるかな。

南壽あさ子『Landscape』(2012) 

Landscape

Landscape

 


 なんて書いときながら、いきなりシティポップとは縁遠いアルバムを挙げるっていうね。
 この前の「『うたかたの音楽祭 第2幕』in 早稲田2015」で圧倒された南壽あさ子の1stミニアルバム。南壽あさ子は今年の6月に初めてのメジャーアルバム『Panorama』もリリースしてるんだけど、僕は断然『Landscape』のほうが好き。
 南壽あさ子の魅力はなんといってもその幻想的な世界観。静かなピアノの旋律と物語の予感を孕む澄んだ声が聴く者をその世界観に惹き込んで離さない。ほんと、先日のライブでは1曲目の「回遊魚の原風景」から最後の「歌うことだけ」までずっと彼女の世界観にどっぷり浸かり、恍惚としているうちに終わってしまいました。あんなに曲の世界観に惹き込まれたのは初めてだった。

sugar me『Around The Corner』(2015)

AROUND THE CORNER

AROUND THE CORNER

 

 
 こちらも先日の『うたかたの音楽祭 第2幕』にて僕を幸せな気持ちにさせてくれたアーティストのアルバム。ユメオチのヴォーカル寺岡歩美のソロ・プロジェクトsugar meの『Around The Corner』。
 前回の『Why White Y?』が夏のアルバムだったのに対し、今回はジャケットからもわかるように秋冬の雰囲気です。
 聴いた感想としては、相変わらず面白い音楽をやるなあ、と。意欲作だと思います。あと、1曲目が「Rabbit Hole Waltz」というアリスの世界観を思わせる曲なんですが、アルバム全体の雰囲気としてもどことなくそんな感じがする。僕はこの1曲目と2曲目の「Emily」が好きです。ライブでの「Emily」は最高だった。あと6曲目の「To Be Alright」も世界観が濃くて好き。

ルルルルズ『色即是空』(2014)

色即是空

色即是空

 

 
 やっとシティポップっぽいアルバムの登場。ルルルルズの『色即是空』。「色即是空」とは、Wikiによれば「『般若心経』にある言葉で、仏教の根本教理と言われる。「色」は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、「空」は、固定した実体がなく空虚であるという意味。』。色即ち是空 (しきすなわちこれくう)、ですかね。すべての物質現象は空虚なんだよ、と。
 さっき紹介したユメオチの作曲担当である行達也がここでもほとんどの作曲を手がけています。そうであるからして必然的にユメオチと曲調は似るんだけど、ヴォーカルと歌詞が違うからか全体としてはそこまで似た感じはない。こっちのがよりシティポップの影響を受けている感じがします。ヴォーカルも寺岡歩美の透明で無垢な声とは異なり、憂いを帯びたちょっと大人っぽい声。どちらも女性ヴォーカルではあるんですが。
 1曲目の「All Things Must Pass」が見事なまでにこのアルバムのコンセプトを表していると思います。僕はこれと3曲目の「街はたそがれ」が好き。意外なことに、アルバムでゆいいつ行達也の作曲ではない曲。ちなみに、2曲目の「Hello It's Me」の出だしはユメオチの「さよならをおしえて」とそっくり。初めて聴いた時は笑いました。

冨田ラボ『Shipbuilding』(2003)


 シティポップといえば冨田恵一、なのかどうかは知らないけれど、行達也が紹介してるんだからそうなんでしょう。
 上のアーティストのところを見てもらえればわかるようにV.A. アルバムなんだけど、すべて冨田恵一の仕事 (もしかしたら編曲のみの曲もあるのかもしれないけど) ということで、とにかくかっこいい。こんなん中高生の時に聴いてたら間違いなくハマッてた。「大人っぽさ」の詰め合わせ。
 ちなみに僕は冨田恵一つながりでキリンジを知りました。ほんとはここでも紹介したいくらい今ハマッてるアーティストの筆頭なんだけど、まだ紹介できるほどアルバムを聴いていないのでここでは断念。とりあえず「Drifter」がいい曲であるとだけは書いておきます。

Shiggy Jr.『is not a child.』(2013)

Shiggy Jr. is not a child.

Shiggy Jr. is not a child.

 


 ルルルルズ、冨田ラボと続いてここでまたちょっと雰囲気が変わります。まあ、編曲のクレジットには行達也がいるんだけどね。
 でも僕がこのバンドを知ったのは行達也つながりではなくて、単純にYouTubeの関連動画から。「LISTEN TO THE MUSIC」を聴いてみて、正直最初はぜんぜん良いとは思わなかったんだけどヴォーカルの声がかわいかったのでついつい何度も聴き、そうこうしてるうちに好きになってた。なんじゃそりゃ。
 今回紹介するのはその「LISTEN TO THE MUSIC」が入ってるアルバムではなくて、1stアルバムの『is not a child.』。
 1曲目の「Saturday night to Sunday morning」と2曲目の「サンキュー」がすごくいい。逆に言うとそれ以外はそこまで聴いてない。だからここに挙げるべきかどうか迷ったんだけど、好きなのには違わないから挙げることにした。
 Shiggy Jr.は曲ごとにいいのとイマイチなのとまちまちなんだけど、 上に挙げた2曲みたいにたまにすごくいいのがある。それと、やっぱヴォーカルの声がかわいい。たぶん意識して歌ってるんだろうなって感じのあざとい可愛さなんだけど、個人的にそういうのに弱いので。


声がかわいいから歌ってる本人までかわいく見えてくるマジック。

南波志帆『水色ジェネレーション』(2011)

水色ジェネレーション

水色ジェネレーション

 


 そしてトリを飾るのはこれ。南波志帆『水色ジェネレーション』。
 正直これまで南波志帆は「アニメ声の人」という偏見があって敬遠してたんですが、この前たまたま耳にする機会があった時に「たぶん、青春。」を聴いて見方が変わりました。いや、確かにそーゆー系統の声であるのは間違いないんですが、それでもなにかしら惹かれるものがあるな、と。
 南波志帆の声は「「マジックヴォイス」と評される」なんてWikiには書いてあって、これはちょっとよくわからないんですが、その同じ文章内で紹介されている西日本新聞の「10代のころにしか感じられない微妙な心の揺れ動き、人との距離感、目に映る景色といったものを真空パックに封じ込めたような音楽」という評言はなんとなくわかるな、と思います。確かにそんな感じ。
 南波志帆のアルバムはカバーアルバムを除けばフル2枚にミニ1枚と3枚リリースされていますが、そのどれもが全曲プロデュースです。作詞・作曲ともにゲスト。ただ、どちらにもけっこう豪華な名前が散見されるので、ブックレットを見てるだけで楽しいです。ちなみにさっき挙げた「たぶん、青春。」は作詞が土岐麻子で作曲が矢野博康。2ndフルアルバムの『乙女失格。』では僕の好きな赤い公園の津野米咲が2曲に詞を寄せているんですが、ブックレットを見るまでもなく曲のタイトルでどれがそうかわかって笑いました。わかりやすすぎだろ。
 話を1stフルアルバム『水色ジェネレーション』のことに戻すと、僕は1曲目の表題曲と3曲目の「こどなの階段」、4曲目の「たぶん、青春。」が好きです。これはこのアルバムに限らず南波志帆の音楽全体に言えると思うんですが、こどもと大人の狭間で揺れる「こどな」の心が繊細に表現されていると思います。曲調はもちろん作曲者によって異なるんですが、それでもやっぱりアニソンっぽいのが多いかな。リズム隊は申し訳程度にとりあえず鳴ってて、基本はシンセが目立ちまくるっていうあの感じ。軽い音が聴きたい時なんかオススメです。

 

おしまい

 どうでしたか? 気になるアルバムはあったでしょうか?
 冒頭にも書いたとおり、今回は万人に勧められるものではなくただ単に自分の好きなアルバムを紹介したので、大いに偏りがあったと思います。まあ、こんな趣向の人間もいるんだ程度に思っていただければ幸いです。
 今回紹介しなかったアルバムでもSing Like Talking『WELCOME TO ANOTHER WORLD』やMy Little Lover『evergreen』など好きなのは幾つもあったんですが、とにかく大好きなアルバムだけを紹介するんだということで迷ったのはすべて没にしました。でも、そういう「好きだけどベスト盤には入らない」みたいなアルバムもいつか紹介できたらなと思います。
 それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。この記事を読んでくれた皆様のフェイバリットアルバムが1枚でも増えますように。

『うたかたの音楽会 第2幕』in 早稲田祭2015

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 今日 (土)、明日 (日) は我が早稲田の学祭です。普段は人混みを厭んで早稲田の学祭なんかには絶対に行かない僕ですが、今回は『うたかたの音楽会 第2幕』に僕の大好きなアーティストsugar meさんが出演されるということで、人混みを掻き分けて行ってきました。


 この『うたかたの音楽会 第2幕』、出演されるのはsugar meさんだけではなく、平賀さち枝さん、南壽あさ子 (なすあさこ) さん、テニスコーツさんの計4組。僕の目当てはsugar meさんでしたが、1番手のsugar meさんが終わったあとも新たな出逢いがあるかもと思って最後まで残りました。そして、出逢いはありました。それについてはあとで書くことにして、まずはsugar meさんの公演について書きたいと思います。


演目

1 Rabbit Hole Waltz
2 Sometimes Lonely
3 1, 2, 3
4 Emily
5 To be Alright
6 ? (未発表曲?)
7 As You Grow


 会場に入るとsugar meさんが後ろで物販をしていて、CD購入者にサインをしていました。僕は既にタワレコですべてのアルバムを買ってしまっていたので持参していた『AROUND the CORNER』を差し出し、図々しくもサインをお願いしました。sugar meさんは快く引き受けてくださり、少しだけお話することもできました。小学生みたいな感想になりますが、超嬉しかったです。


 13:30になるとアコースティックギターを手にsugar meさんが登壇し、『うたかたの音楽会 第2幕』がスタート。(『第1幕』は2年前の早稲田祭2013で行われたそうです
。あの青葉市子さんも出演されたとか)


 個人的に、Sometimes LonleyとEmilyが良かったです。Emilyは元々大好きな曲だったのですが、Sometimes Lonelyは今まではそこまで注目していなかった曲なので、ライブで聴いて「こんなに良い曲だったんだ!」と遅ればせながら気づかされました。ライブでそうした発見を与えてくれたsugar meさんの力量に脱帽です。sugar meさんの声は生で聴いても朝の風みたいに透き通っていました。もちろん歌唱力も抜群で、何もかもがCD以上でした。これからも聴き続けて行きます。


 2番手は今回初めて聴く平賀さち枝さん。
 平賀さんは失礼を承知で言えばどこか田舎っぽい垢抜けなさがあるんだけどそこがまた魅力的でもあって、身近な事柄を自分の言葉で素直に歌い上げているところが良いなと思いました。もしかして演歌に造詣があるのかな? ところどころ「コブシ」みたいなのがあって、特徴的でした。それとなんとなくandymoriを連想させるところがあって、具体的にどこがと聞かれるとわからないのですが、惹かれました。公演後、CD買いました。


 3番手の南壽あさ子さんにはハートを撃ち抜かれました。正直、このライブでいちばんインパクトがあった。なんて言えばいいのか、とにかく「聴き惚れ」たんです。切なくて儚げなんだけど伸びやかで光に溢れているようでもある声で、曲調もポップなんだけどそこらの掃いて捨てるようなポップとは一線を画す独特さがあって、詞も難しい言葉を使っているわけではないのに独自性がある。南壽さんは前出の2組とは違いアコースティックギターではなくピアノで弾き語りをしていたのですが、綺麗な音色と声、それらが生み出す世界観に心地良く溺れているうちにあっという間に公演が終わってしまいました。ほんとに素晴らしかった。もちろんCD買って、お金が無くて買えなかった分はTSUTAYAで借りました。この前sugar meさんの『AROUND the CORNER』を買ったばかりなのに今日また平賀さん、南壽さんとCDを買い求めてしまったので金欠です。やばいです。でも後悔はしていません。


 4番手、テニスコーツさんは正直好みではありませんでした。なのでここでは割愛します (ボーカルはうまかったです)。


 そんな感じで、お目当てのsugar meさんだけでなく、平賀さち枝さん、そして南壽あさ子さんという素晴らしいアーティストに出逢うことができて、今日はほんとうに幸せな1日でした。音楽でも小説でも、真っ直ぐなものに触れるとこちらも頑張ろうって気になりますが、まさにそんなやる気の出る出逢いの連続でした。特にsugar meさん、南壽あさ子さんの音楽には大いに励まされました。僕も引き続き小説家目指して頑張って行こう。


 このような素晴らしい場を用意してくれた4組のアーティスト、運営のROCK STEADY WASEDAさんには感謝感謝です。刺激的な音楽会でした。やっぱ生音最高!


sugar me




平賀さち枝




南壽あさ子

街、帽子、光、鳳凰

 ここのところ自分でもどうかと思うほど引きこもっていたので、今日は電車に乗って街に出た。あまりに小説のアイディアが浮かばないので、外に出れば何か思いつくかもしれないという淡い期待もあった。
 折しも今日は花火大会の日だったので、浴衣や甚兵衛を来た若者がたくさんいた。見た目にも涼やかで夏らしかった。花火大会などとは何の縁もない僕は図書館で庄野潤三『プールサイド小景・静物』を返却し、モスバーガーで昼飯を食べようとしたが満員、フレッシュネスバーガーに向かうも改装中、いじけて何も食べずにパルコに入り帽子を見た。登山用に、ここのところ帽子を探していた。カップルが楽しげに相手の服を選んでいる中、ひとり黙々と帽子を被り脱いだ。ちょうど良いのがあったので購入し、その場でタグを切ってもらった。
 せっかく街に出たので、ついでにTSUTAYAに寄った。松崎ナオのアルバムがあれば借りて帰ろうと思ったのだが、所詮郊外のTSUTAYAにはカラオケに収録されていないアーティストは置いていなかった。NHKの『ドキュメント72時間』で流れるこの人の「川べりの家」*1という曲に心を揺さぶられて以来、ずっとアルバムを聴いてみたいと思っているのだが、機会が訪れない。やはり新宿に行くしかないのか。それと、前の記事で紹介したtricotの新作アルバムがあって借りたかったのだが、一枚だけで借りるのもばからしかったのでやめた。唾を吐きたい気分で店内を後にし、電車に乗って家に帰った。昼飯には結局コンビニのざるそばを食べた。おいしかった。
 ちなみにこの記事を書きながら、andymoriの『光』を聴いていた。小山田壮平の声はほんとうにふしぎだ。何かを痛切に叫んでいるような、それでいてどこか甘えるような、惜みなく愛を降り注ぐような、楽しかった幼年時代に思いを馳せるような、少年っぽさを残した、だけど少年のものではない声。
 よく詩とか哲学書とかを指して頭ではなく身体で「わかる」と言ったりするけど、僕は小説家を志しているくせに文字媒体でそうした体験をしたことがなかった。ほんとうにそんな体験が実在するのかと不審に思っていた。でも、andymoriを聴いた時の感覚というのはまさにそれだ。頭よりも何よりもまず全身で共鳴してしまう。存在ごと共感してしまう。この人たちは自分と同じ思いを抱いている、と理屈ではなく「わかる」。
 andymoriを聴くたび、僕も全身全霊をかけて、自己存在をかけて小説を書かなければならないと思う。焦りを覚える。それでも一行一行、苦しんで書いていくしかない。

 ……ここで終わらせるはずだったのだが、チャイムが鳴り、クール便が届いた。待ちに待っていた「鳳凰聖徳 大吟醸酒しずく搾り」だった。神妙な気持ちになっていた大学四年生 (無職)、PCの前を離れて小躍る。……というわけで、この段落の文章を書いているのは酒を飲んだ後である。非常に美味だった。今度レポートします。

*1:歌詞がとても良い。「大人になってゆくほど 涙がよく出てしまうのは 一人で生きてゆけるからだと 信じてやまない」

おちゃんせんすぅす

 

 去年からtricot (トリコ) というバンドに注目しているのですが、僕が彼女らの音楽に惹かれたのはこの『おちゃんせんすぅす』を聴いた時からです。
 ただひたすらに「おちゃんせんすぅす」というなんだか間の抜けた言葉を繰り返すこの曲を初めて聴いた時、ふざけてやがる、と笑いが浮かぶのと同時に、えもいわれぬ痛快さを感じたんですね。
 だってこれは、強烈なJ音楽批判なんです。
 歌詞は「おちゃんせんすぅす」という全く意味の無い言葉の繰り返しだけど、この曲、めちゃくちゃ完成度が高くて、ひとつの楽曲として十分に成り立っています。そしてその事実こそが、「イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ× 2 + 転調サビ」という型にありきたりな歌詞を填め込んでいるだけの曲 (いわゆる「売れ線」の曲) の厚顔さを浮き彫りにし、これ以上無い痛烈さで批判しているわけです。もちろんtricotにそんな意思があったかどうかはわかりませんが、少なくとも聴いた僕はそう思ったし、歌詞なんかなくても楽曲は成立するんだ、という新鮮な驚きを与えてもらいました。「"ありがとう"って伝えたくて」とか「あなたと笑っていたいから」とか、そんな詞を付すくらいなら歌詞なんて最初から無いほうがいい、というスタンスを、勝手に感じ取ったわけですね。(もちろん同じ歌詞でも使われ方によって善し悪しがあります)
 ちなみにこのtricotというバンド、『おちゃんせんすぅす』のほかにもおもしろい曲がたくさんあって、『爆裂パニエさん』はその筆頭たる曲だし、『おもてなし』とか『bitter』は歌詞が個性的で良いです。『Break』のMVも好きですね。
 これからも注目したいバンドです。