電車について【思索1】

 

きみの書く小説はいつも電車に乗っているね、といわれた。

ぜんぜん意識したことがなかった。思い返してみて、驚いた。たしかに多くの習作で電車が走っていた。いま書いている話も、中央本線甲府に行くシーンから始まっている。

ぼくはべつに乗り鉄でもなければ、撮り鉄でも時刻表マニアでもなかった。けれどぼくの主人公は、いつも電車に乗っていた。加えて、最近熱心に読んでいるタブッキの小説でもそれは同じだった。

無意識のうちに走り出す電車は、自分にとってどのような意味を持つのか。

思索はここから出発する。

 

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電車。列車 (ぼくはこの呼び名のほうが好きだ)。それは何よりもまず移動手段であり、ひとやものを運ぶ。

都市においては、それはいちばん主要な移動手段である。通学のため、通勤のために、ひとはつり革を握る。もちろん、レジャーのためにも。向かう先はさまざまだが、共通していえるのは、電車に乗るとき、誰しも目的地を持っているということだ。どこに行くか決まっていないのに、ふらりと電車に乗るということは考えづらい。これは、徒歩や自転車での移動と大きく異なる。あのいかついメルセデスでさえ、もっと小回りがきく。電車は「そぞろ歩き」に適さない。

しかし一方で、車室に揺られる人物の意識はそぞろになりがちである。車窓が流れるとき、ひとの思考もまた流れる。景色と同じようにあいまいに。車窓、あのどこか不透明なガラスを通して見ると、景色は抒情を醸す。それからノスタルジー。脈絡もなく昔の記憶が立ち上る。

抒情とノスタルジー。これは電車よりもむしろ列車に近い。ひとが旅先で抒情を感じるのは、ひとつにはあの車窓のながめ、それから枕木をたたく一定のリズムがある。このリズムは容易にねむりと結びつき、ひとをやすやすと運び去る。しかし、ここではもう少しだけ我慢しよう。

電車に乗るとき、ぼくはある考えにとらわれる。ほとんど強迫観念といってもいい。「いま出かけている分だけ、もどらなければいけない」。電車に揺られることは、自分の「いまここ」を遠くへ追いやり続けることだ。住み慣れた「いまここ」にもどるには、まったく同じだけの時間と体力、それも往路と比べて疲れ気味ーーを費やさなければならない。いっそのこと、行きっぱなしにしてしまおうかと考えるときもある。しかしそれはそれで、大きな決断を要する。少し大げさにいえば、電車に乗るとはひとつの賭けであり、ホームとの微妙な隙間を跨いだ瞬間、彼はいちばん安全な牌を捨てている。つまり、「いまここ」に留まるという選択を。駅を出てすぐの加速がその罪悪感をいや増し、同じだけ背徳感を与える。電車に運ばれる人物がどこか物語の登場人物じみて見えるのは、そうした可能性の贅沢な廃棄、それから劇的な未来の可能性、このまま、帰らないかもしれないーーを秘めているからだ。