これからのこと

ふがいない院生は空を見た

いつの間にか僕らも

いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった

暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ

——ユニコーン「すばらしい日々」

 

八日 (日)、大学の友達と柴又帝釈天に初詣に行って来ました。

「大学の友達」といっても僕以外の三人は既に卒業して働いているため、大学時代の友達といったほうが適切かもしれません。このブログが開設された直後に「シュレディンガーのパン」というくだらない話を書きましたが、この話に四回生として登場したコージもメンバーのなかにいました。立派な社会人として。

僕らは一四時に柴又で待ち合わせ、昔ながらの駄菓子屋や「とらや」などに寄り道しつつ参道をぶらぶら、帝釈天に向かいました。昔は「小説家になれますように」とも祈っていたんですが最近は他力本願ぶりに失笑し、家族と自分の健康、安全無事だけ祈っています。なんで初詣自体はあっさり過ぎて、御守りを買うという発想すら浮かばずすぐに次の目的地、矢切の渡しへと向かいました。

ちなみにこの日は雨です。しかもニュースではこの冬いちばんの冷え込みと報じています。

そして矢切の渡しとは東京と千葉を隔てる江戸川の渡し船のことです。つまり矢切の渡しに向かうとは、江戸川の河川敷に向かうということでもあります。

超寒かった。

しかもなぜかメンバーのひとりがゴムボールを持ってきていて、雨と寒風のなかキャッチボールと洒落込みました。楽しかった。でも超寒かった。

(……と、こんなプライベートなことを書こうと思ったのではなかった。キャッチボールのあと僕らは山本亭に避難し、そこで風雅なひとときを過ごしたのちも立石の呑んべ横丁に移動したり定番のカラオケに行ったりしたのですが、いまここではそれらのことを事細かに記録しておこうと思ったのではなくて、この日自分が思ったこと、感じたことを整理しておこうと思ったのだった)

思ったこと、感じたこと。それは一言でいえば「いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった」ということです。

いやいやいや、自分まだ二十三やろ。ぜんぜん年とってへんやん。めっちゃ若いやん。と思う方もいるかもしれませんが (というか自分でセルフツッコミしましたが)、それでもまだみんなが大学生だった去年と比べると、だいぶ雰囲気が変わったなあと。

やっぱり根本的に、人生観が違うんですよね。社会人と学生の別を問わず人生観は人それぞれ違って当たり前ではあるんですが、それでも去年のみんなといまのみんなでは明らかにそれが変化しているし、自覚というか、自分の年齢や可能性に対するスタンスなんかもぜんぜん違っている。要は「大人になっている」。

不定期ながら毎年二、三回 (三、四回?) は必ず会っているみんなはほんとうに気の良い人たちで、そのやさしさやおもしろさは変わらないんだけれど、それでもやっぱりみんな大人になっているんだなあ、確実に社会人になっているんだなあと、そしてそんなみんなにつられ、「いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった」んだなあと思いました。あの日カラオケの一曲目で「すばらしい日々」を歌いたくなったのは、そんな感慨もあったのかもしれない。

少しずつしかし着実に大人になっている同窓生に、自分もいい加減大人にならないとなあと焦りつつ、でも永遠にキッズでいたい、キッズとして生きていけるだけの「売り」がほしい、とも思ったり。ほしい、では他力本願やから「手に入れてやる」、ですかね。「手に入れてやる」。でも、僕の「売り」って何だ? 

 

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黒澤明『羅生門』——「視線」をめぐる考察

 

卒論でテクスト表現との相違について書くにあたり、ここのところ僕にしては珍しく映画を観ていた。というわけで黒澤明羅生門』について書きたいと思う。

 

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羅生門』は芥川龍之介羅生門」と「藪の中」を組み合わせて撮られた映画だ。冒頭、カメラは羅生門に据えられている。降りしきる雨の中、門の下で休む三人の男。下人と杣売りと旅法師。皆ぼろぼろの恰好で、下人は羅生門から板をはぎ取り、それで火をおこし始める。その男から少し離れた場所で、ぼうぜんと座り込む二人。その様子を不審に思った下人がどうしたのかと訊ねると、杣売りの男がたったいま、自分が見聞きしてきたことについて語り出す。……

 

先に書いたように『羅生門』は「羅生門」と「藪の中」を組み合わせた映画だが、どちらがより原作にふさわしいかといえばそれは後者だろう。杣売りの男が語る内容はそのまま「藪の中」だ。男が山中を歩いていると、散乱した荷物、そしてその奥に侍が死んでいるのを見つける。彼が検非違使に発見時の証言をすると、侍が妻と旅しているところを見たと旅法師も証言した。彼らが証言した後、すぐに犯人が見つかる。侍を殺したのは盗賊・多襄丸だった。高らかに笑いながら、捕縛された多襄丸は語り出す。俺はあの女がほしくなって、侍を罠にかけた。最初は殺すつもりはなかったが、激しい乱闘の末、やっとのこと気の強い女をものにすると、女がしがみついてきて言った。「自分は二人の男に従うことはできない。果たし合いをして、生き残ったほうに従う」そこで俺は侍の縄を解き、正々堂々と戦った。一瞬たりとも気の抜けない剣戟の末、俺が勝ち、侍は死んだ。でも振り返ると、女は既に姿を消していた。……

 

この証言の後しばらくして、生き残った妻が召喚される。多襄丸があれほど気の強い女は見たことがないと言っていたのとは裏腹に、彼女はしなしなと泣き濡れながら、事の顛末について語り出す。多襄丸は自分を手篭めにした後、夫を殺さずに縄をほどいた。しかし解放された夫は自分を軽蔑した目で見つめ、口をきこうとしない。自分はそんな目で見ないでくれ、そんな目で見られるくらいなら死んだほうがましだ、いっそのこと殺してくれと懇願したが、夫は応えない。つらさのあまりいつの間にか意識を失い、目覚めたら夫が死んでいた。自分も後を追おうとしたが、できなかった。……

 

次に巫女が呼ばれる。巫女は自分のからだに死んだ侍の魂を呼び起こし、その口から怒りにおののく侍の言葉を語り始める。手篭めにされた妻は多襄丸に情を移し、俺を殺してくれと頼んだ。その言葉を聞いた多襄丸は激怒し、俺に妻を生かすか殺すか決めていいと言う。それを聞いた妻は逃亡し、多襄丸も姿を消した。一人残された俺は、無念のあまり自殺したのだ。……

 

しかし杣売りの男は皆が嘘をついていると言う。本当は、自分は草葉の蔭から見ていたのだ。女を手篭めにした後、多襄丸は自分の妻になってくれと土下座した。女はそれには応ぜず、夫の縄を解く。しかし夫が自分を軽蔑した目で見るのに激昂し、男たちを焚きつけて決闘させた。二人はへっぴり腰で何度も転びながらほうほうの体で戦い、結果、多襄丸が相手に太刀を突き刺すことに成功する。だがその隙に、女は二人の前から逃げ出していたのだった。……

 

ここまで書いてきてまず気づくのは、「藪の中」においては謎のままに終わった真相が、この『羅生門』においては杣売りの男によって一つの解答編として示されているということだ。この点で、『羅生門』は厳密にはリドル・ストーリーではないのかもしれない。結局、多襄丸も女も侍も皆嘘をついていたわけだが、その嘘がもれなく自尊心に結びついているのがおもしろい。皆、惨めな自分というものに耐えられないんだね。侍なんか死霊となってからも嘘をついているわけで、ここでは死=達観といった仏教的価値観は通用しない。死んでもなお、人は惨めな自分に耐えられないのだ。

映画では語り手ごとに異なる内容がことごとく映像化されるわけだが、多襄丸編と解答編の違いようがひたすら滑稽でおもしろい。多襄丸編では寸分の油断も許さない堂々たる剣戟が繰り広げられていたのに対し、杣売りの男が語る解答編では二人は腰が引けていて、一方が逃げればおそるおそる追い、一方がおそるおそる迫ればぶるぶると後ずさる。刀を持つ手は常に震えていて、何度も転び泥だらけになりながら、最後は転んで身動きのできなくなった侍に、はあはあ言いながら多襄丸が太刀を突き刺す。この対比。

 

あと特筆すべきは妻役の京マチ子の妖艶さだろう。この作品は三船敏郎の多襄丸も森雅之の侍も本間文子の巫女も総じて素晴らしいのだが、この京マチ子、とりわけ多襄丸編における彼女の妖艶さが際立っている。最初、彼女の顔は襞つきの帽子に隠されて見えない。だから侍と一頭の馬、その馬に跨がった女がやってくるのを見ても多襄丸は何とも思わない。けれど一陣の風が吹いて、襞の隙間からちらと女の顔がのぞく。微かにのぞいたその横顔はどこか浮き世離れしていて、神秘的な美しさを持っている。多襄丸は是非とも彼女をものにしようと考える。そして侍を罠にかけるのだが、圧巻なのはこの後の乱闘シーン。女は着物から短刀を抜き取り、必死の形相で多襄丸に抵抗する。短刀が一閃、また一閃し、二人は激しく取っ組み合う。検非違使の前で多襄丸があれほど意思の強い女は見たことがないと言ったのもうなずける物凄さで女は抵抗する。だがやがて、多襄丸に無理矢理唇を奪われると、つい今しがた激しく振り回していた手からぽとりと短刀が落ち、その手はそれまでと同様の激しさをもって多襄丸の背中に回る。自分を奪った男の唇に激しく自分の唇を重ねる。この激しさ。一瞬における変身。安吾の「桜の森の満開の下」の女を思わせるような、そんな妖艶さがある。はっきりいって、かなり扇情的なシーンだ。特に唇を奪われたときの目。憎しみが諦念、そして情熱へと一瞬のうちに移ろってゆく。このほかにも侍役の森雅之のすべてを見はるかしたような無の目、巫女役の本間文子の凄絶なおののき、声など見所満載なのだが、ここでは詳述しない。

 

さて、杣売りの男によって「真相」が暴露された後、それを聞き終わった下人が言う。侍の持っていた太刀と女の持っていた短刀はどこに消えたんだ、と。

そうなのだ。この事件ではこの二つの刀が消え、どこに消えたのかが問題となっていた。しかし杣売りの男の説明では、これらの刀が消えたことの説明がつかない。

下人は重ねて問う。刀を盗んだのはおまえじゃないのか、と。

結局、杣売りの男までが自分に都合のいい嘘をついていた。沈黙する一行。そんなとき、すぐ近くから赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。下人は立ち上がって羅生門のそばに捨てられた赤子を見つけると、その小さなからだをくるんでいた布をはぎ取った。「何をする!」非難する二人に対し、下人はこれこそが人間の本性だと言ってその場を去る。このへん、芥川の「羅生門」に通じている。

 

この映画が「羅生門」と決定的に違うのは、下人が京の街に消えたこの次のシーンだ。それまで黙り込んでいた杣売りの男が急に赤ん坊に手を伸ばす。「あなたはこの子から衣服さえもはぎ取ろうというのか!」あわてて赤ん坊を守る旅法師に、杣売りの男は言う。なに、何人育てようと変わりはしない。……

杣売りの男は赤ん坊を引き取ろうと言うのであった。時は平安、戦乱と疫病、天災によって荒れ果てた時代に、この赤ん坊を育てようというのである。旅法師は赤ん坊を手渡し、感謝して言う。ありがとう。あなたのおかげで、私は人間を信じることができる。……。赤ん坊を大切そうに抱いた杣売りの男が去って、映画は終わり。

つまりこの映画では二人の下人が描かれている。一人の下人は小説「羅生門」のように善悪の彼岸へと駆けだしていくが、もう一人の下人、すなわち杣売りの男は自分のも含め、人間の醜さを目の当たりにした後、それでも善悪の此岸に居続けることを選ぶ。ここに映画『羅生門』のメッセージ性がある。

 

だが少し意地の悪い見方をすれば、『羅生門』のメッセージ性は更にこの奥で見出すこともできる。意地の悪い見方とは、『羅生門』を「視線の物語」として捉えることだ。

 

そもそも、この映画の原作である「藪の中」は視線によってつくりあげられたリドル・ストーリーだった。章ごとに異なる語り手が現れる。木樵り (杣売り)、多襄丸、女、巫女 (侍)……。一つの事件について語っているはずなのに、その内容は語り手によって違う。語りが騙りとなっている。

映画『羅生門』もこの構成を踏襲している。小説と同じように一人ずつ語り手が登場し、そこで語られることがその都度映像化される。多襄丸編では多襄丸と侍は激しく剣戟し、しかし巫女 (侍) 編では二人は刀を交えずに去る。多襄丸の言によれば気性の荒い女も、検非違使の前に呼び出されるとおろおろと泣いている。何がほんとうで、何が嘘なのか。その語り (=騙り) から知ることはできない。

ただ先ほども書いたように、謎が謎のまま終わる「藪の中」に対し、『羅生門』では一つの解答が提示されている。実は杣売りの男が草葉の蔭から一部始終を見ていたという設定で、多襄丸や女、巫女 (侍) が語り (=騙り) 終わった後にそれはかたられる。この「真相」の暴露があって最後の杣売りの男の決意、旅法師の感動的な言葉 (あなたのおかげで私は人間を信じることができる) があるわけだが、この映画を「視線の物語」として捉えようとする僕 (たち) は、ここである疑いを差し挟まずにはいられない。——杣売りの男が語ったことは、ほんとうに「真相」なのか、と。

それまでの語りが全部騙りであった以上、杣売りの男のかたりだけが語りであるという保証はない。現に彼は下人に指摘されるまで自分が刀を盗んだことを隠していた。彼の話が「真相」である証拠などどこに見出されようか。

同じ理由で、僕 (たち) は赤ん坊を引き取って育てるという彼の言葉をも信じることができない。旅法師から手渡される前、彼はじっと赤ん坊を見つめる。その視線は赤ん坊ではなく、その子の衣服に注がれているのではないだろうか。いや、これはさすがに穿ち過ぎか、だがしかし……。

 

最後のシーンが印象的だ。雨が止み、晴れ間がさしてきた羅生門の外に、赤ん坊を大事そうに抱いた男が時々後ろを振り返りつつ歩いていく。その背中に、羅生門に残った旅法師がじっと視線を注いでいる。……

そう。この旅法師こそが重要だ。『羅生門』において「羅生門」にない要素を見つけようとするならば、第二の下人としての杣売りの男よりも、この「視る者」としての旅法師を挙げるべきだろう。示唆的なのは、この旅法師が最後まで羅生門に残り続けることだ。言うまでもなく、この羅生門はメタファーとして機能している。すなわち下人は善悪の「外」に行き、杣売りの男は善悪の「内」へ行った (表面的には)。しかしこの旅法師だけは門の下に留まり、態度を保留している。ほんとうに人間を信じていいものか、未だ決めきれずにいるのである。

そのことは彼の視線によく現れている。人間を信じたいと願う彼の視線は僕 (たち) の視線と合わさり門を出て行く杣売りの男へと注がれるが、そこではきょろきょろと後ろを気にする男の仕草がすべて怪しいものに映り、やがて焦点が旅法師から下人に移動してその顔がおぼろげになるにつれて、そこから向けられる視線には疑いが根ざしているのではないかという印象をどうしても拭い去れずにはいない。こうした不穏な疑念を残したまま、物語は静かに幕を閉じる。だからこそ僕 (たち) は物語を反芻し、自らにこう問わなければならない。——自分は何を見たのか、と。

ここでは結局、映画を観る僕 (たち) の決断こそが求められている。黒澤は遠ざかる杣売りの男に焦点を合わせることで、かたりを語りとして素直に聞き入れることの危険性を喚起するとともに、僕 (たち) が自分で善悪の門と向き合い、選択していくことを求めているのだ。だからこそ、杣売りの男を見送る旅法師の目はぼかされている。その視線は僕 (たち) が選択し、描かなければならない。

 

空が青い

 

空が青い。卒論が終わったのだ。

 

卒論。ここのところずっと、僕はこれに苦しめられてきた。(死にたくないけど) 死にたいと毎日のように思い、煙草の吸い殻は積もり、髪はボサボサで肌には至るところにきびができた。でもようやく、それも終わったのだ。

 

(徹夜明けの目に空は眩しくて、光はレースカーテンのように透明だった。僕は大学の喫煙所でアメスピを吸い、これで終わるのだ、と思った。製本が終わるのは午後三時。それまで何をしよう。とりあえず図書館に行って、ゆっくりしようか。ああでもお腹空いたな。麺珍って何時からやってるんだっけ? ……ああ、十一時。それならやっぱり今から図書館行って、ちょっとぼうっとしてから食べに行こうか。ほんで食べ終わったらまた図書館行って……

 

できばえに納得はしていない。やはり後半、時間が足りなくなって急がざるを得なくなってしまったのが痛かった。でもこれは言い訳だ。あれだけ時間があったにもかかわらず、ギリギリまでだらけていたのは自分なのだから。しかしともかく、卒論は終わった。

 

(やっぱりW盛は多かったなあ。つい勢いで注文しちゃったけど。これからどうしようか。図書館行こうと思ってたけど、なんか珈琲飲みたくなったな。久しぶりに西東詩集行くか。……ってなんだ、やってないじゃん。しかたない、おとなしく図書館行こう。無性に煙草が吸いたくなって、図書館奥の喫煙所でアークロイヤルを吸った。苦い。あれ、こんな苦かったか? 喫煙所には僕のほかにおっさんと女学生がいた。……このおっさん、だいぶ後頭部キてんなあ。煙の形かっこいいなあ。どうしたらこんな柱みたいになるんだろ。にしても最近珈琲飲みながら煙草吸う人多すぎじゃね? 女学生は何吸ってんだろなあ。ピースとかだったらかっこいいなあ。

 

終わった。終わった? ほんとうに終わったのだろうか。確かにこの後、製本してもらったのを受け取って大学に提出するだけだ。見落としがないか何度も確認したし、おそらく問題なく受理されるだろう。にもかかわらず、ぜんぜん解放感がなかった。たとえば院試が終わったときのような、さあこれからはなんでも好きなことやるぞ! という昂揚感がぜんぜんない。

そう。僕は来春から大学院に行くのだ。働きながら、通うことになる。ここに落ち着くまでには色々あったが、とにかく僕は院試を受け、そして合格した。卒論が無事受理されれば、院生になることも確定する。……でもさ、これってほんとにハッピーエンドなの?

 

(僕は詩集の棚へ行き、『氷見敦子詩集』と『荒川洋治詩集』を手に席へ着いた。なんとなく、今なら氷見敦子の詩がすんなり入ってくる気がしたのだ。巻頭の詩を読んだ。男の腕のなかで眠る女の、生まれる前の闇へと深く潜っていくイメージ。耳の内側で不気味に響く水の音。口から吐き出される蜥蜴。……ダメだ。相変わらずぜんぜんわからない。これを読んだのは大学二年生のときだっけ? 蜂飼耳の随筆を読んで、「日原鍾乳洞の『地獄谷』へ降りていく」が読みたくなって借りたのだった。確かにいちばん印象的な詩で、いまも記憶に残っている。……でも僕は本を閉じ、『荒川洋治詩集』に向かった。寝不足で疲弊しきっていて、一ミリたりとも頭を使いたくなかった。詩人 (現代詩作家って書かないと怒られるんだっけ) が大学生のときに書いたという『娼婦論』の詩を読む。あかん、これ頭使わな読まれへんやつや。ずっと読んでみたいと思っていた『水駅』に移る。ああ、いい……けど、やっぱちゃんと頭働くときに読みたいな。そう思ってぱらぱら本をめくっていたら、後ろの方にエッセイが収録されていた。テレビ番組についてのエッセイを読む。荒川さんらしいとぼけたような、でも時々ハッとさせる文章が書かれていて、少しだけ明るい気持ちになった。

 

もちろんエンドではない。なぜならこれからも人生は続いていくからだ。たとえば、二年後には修士論文がある。卒論でさえこのザマなのに、修士論文なんて書けるのか? また死にたい死にたいって思うんちゃん? ていうか、これまでレポートのときだって死にたいもう無理やほんま自分死ねって思ってたやん。なんていうか、卒論終わったはいやったーではなく、もっと根本的に自分直さなこの先一生苦しいんちゃうの?

 

(いつの間にか眠っていた。二時間くらい寝ていたようだ。時刻は午後二時。製本が出来上がるまであと一時間だ。なんか適当に本でも借りよう……と思うのだが、まぶたを開けておくことができない。ダメだ、とにかく眠い。頭が働かない。頭が働かなくても読める本が読みたい、と思うが頭が働かないから何にも思いつかない。ふわふわしていて……でも抽象度は高くなくて……幻想とか、そういうのはいいから……いしいしんじ? ダメダメダメ。そういうふわふわちゃうねんて。もっと読みやすい、ほんで癒やされるような……池澤夏樹? ええかも。『スティル・ライフ』とか『キップをなくして』とか、そんな感じの小説ないかな……『マシアス・ギリの失脚』……はちゃうやろ。それはもっと満を持して読まなあかんやつやろ。……うーん、難しいな。こうなったら保坂和志でも読むか。『プレーンソング』の続編なんやったっけ? 『草の上の朝食』? うわっ、『カンバセイション・ピース』ってこんなぶっといん? ムリムリムリ今はムリ。『この人の閾』とかないかな……ないなあ。

 

僕はたぶん、気づいてしまったのだ。僕を苦しめているのは環境ではなく、自分自身であるということに。この調子で期限が迫るたびに死にたくなってたら、体が持たないということに。一生苦しいままだということに。

 

(けっきょく借りる本が思いつかないまま、時間が来て製本屋に受け取りに行った。「三時以降に来てください」といわれていた。製本屋の前まで行くと、おそらく僕と同じ身の上だろう、学生がたくさん待っていた。時刻は二時五七分。え、まだできてないん? 店に入ると、普通に受け取れた。僕が受け取った卒論片手に店から出ると、それまで店の前に固まっていた学生たちが続々入店していった。日本人かよ。というか、僕と同じようにギリギリになって駆け込んだ学生もけっこういるんだ。がんばれよ。みんな無事、受理されたらいいな。大学では提出部屋が設けられていて、横一列に並べられた机の両側に椅子が置かれ、マンツーマンで学生に対応していた。「学部、所属はどこですか?」と聞かれ、数秒、答えられない。案内された席に座り、たったいま製本屋から受け取ったばかりの卒論を渡した。表紙に書いてあるページ数と総ページ数が一致していないことについて突っ込まれる。あ、このページ数は本文のページ数で、表紙とか目次はカウントしてないんです。ご丁寧に一ページずつ数え直しはって、事なきを得た。受領書にサインし、審査済みの印鑑を押してもらう。「お疲れ様でした」。ありがたいと思いつつ、ろくに返事をすることもできなかった。

 

でも、そう簡単に自分が変われるはずがないということにもまた、気づいてるんだよなあ。というか、この先いったい僕はどうなるんだろうね。院生の間はいいとしても、その後就職できんのか? またできたとして、社会人としてやっていけるのか? いやそれ以前に、人生がこうした繰り返しであることに気づきながら、堪え忍んでいくことができるのか?

 

(今日は本を持ってきていない。せっかくだから、家に帰る前にもう一度図書館に寄っていくことにした。電車のなかで気楽に読める本がほしかった。前向きになれそうな本が読みたかった。川端裕人はどうだろう? 池澤夏樹と同様、読めば前向きになれる大好きな作家だ。WINEで検索にかける。しかしいま読みたいと思うような本はなかった。なんだかもうどうでもよくなってきて、気づいたら僕は岩波文庫の棚にいた。『ブッデンブローク家の人々』を手に取る。前から読もうと思っていた本だ。けれど上中下とあるのを見てまた積本の影がよぎり、けっきょくその隣にあった『トオマス・マン短篇集』を借りていくことにした。冒頭の「幻滅」という話が気に入った。「僕」は混乱している。ヴェニスの広場であの見知らぬ男が話しかけてきたせいだ。「あなた御承知ですか、幻滅とはどういうものだか。」男は問いかけ、自身がこれまで経験してきた幻滅について語る。「私は、人間からは神のごとき善良と、身の毛もよだつ邪悪とを期待していました。人生からは、目もさめるような美しさと物凄さとを、期待していました。」……。でももっと胸を打ったのは、この次に収められていた「墓地へゆく道」という短篇だ。「それは春だった。もうほとんど夏だった。世界は微笑していた」そんな気持ちのいいある日、一人の男が墓地へゆく道を歩いている。彼の名はロオプゴット・ピイプザアム。ピイプザアムは不仕合せだ。「第一に彼は飲む。(…) 第二にやもめで孤児で、世の中からまるで見離されている。愛してくれるものが、この地上にただの一人もないのである。旧姓をレエプツェルトといった細君は、半年ばかり前、子供を産むと同時に拉し去られた。それは三番目の児だったが、死んで生れたのであった。ほかの二人の子供も亡くなっていた。(…) そればかりではない。その後間もなくピイプザアムは地位を失った。不面目にも職務とパンから逐い立てられたのである。」そのピイプザアムが墓地へゆく道を歩いていると、後ろから若者の乗った自転車が全速力でやってくる。若者はピイプザアムが道の真中にいるせいで調子をゆるめるが、ピイプザアムはいっこうに道を開ける気配を見せない。しかたなくゆっくり彼の傍を通り過ぎた若者に、ピイプザアムは因縁をつけはじめる。「私はあなたを告訴します。あなたはあっちの国道のほうを走らないで、こっちの、この墓地へゆく道を走ったからです。」馬鹿馬鹿しい、みんなこっちの道を自転車で走ってるじゃないかと言い返す若者に、ピイプザアムはしつこく「私はあなたを告訴します」と繰り返す。あきれた若者が再びペダルを漕ぎ出すと、ピイプザアムは狂ったように自転車を追い、サドルにしがみつく。自転車はピイプザアムの妨害を受けてぱたりと倒れるが、怒った若者はピイプザアムを突き飛ばし、再びサドルに跨がってぐんぐん遠ざかっていく。ここからピイプザアムが真に狂人の色を帯びていく。「それを見ると、ピイプザアムはどなりはじめた。罵倒しはじめた。あるいは吠えはじめた、といってもいいかもしれない。もうとうてい人間の声ではないのである。/「もう走ってはいかん。」と彼は叫んだ。「そんなことをしてはいかん。この墓地へゆく道でなく、あっちのほうを走るんだというのに、聞えないのか。——降りろ。すぐに降りろ。おお、おお、おれは告訴する。訴えてやる。おお、ほんとになんたることだ。やい、おっちょこちょい野郎、倒れやがったら、もし倒れやがったら、踏んづけてやるのに。靴で面を踏んづけてやるのになあ。この悪党め。」/こんな光景は空前である。墓地へゆく道の上に、ののしりわめく一人の男がいる。男はのぼせ上って吠えている。ののしりながら躍る。飛び上る。手足を目茶苦茶に振り動かす。無我夢中になっているのである。先刻の乗り物は、とうの昔に見えなくなってしまったのに、ピイプザアムはまだ依然として、ひとつところで狂い廻っている」次第に弥次馬が集まってくる。「が、ピイプザアムは、なおも荒れ狂って止まない。しかも様子はだんだん険悪になってきた。両方の拳骨をめくら滅法に、上下左右あらゆる方向へ振り廻す。脚をばたばたやる。こまのようにぐるぐる廻る。膝を折り曲げたかと思うと、声の限りどなり立てようとして、また死物狂いに跳ね上る。その間一刻といえども、悪態をつくことをやめない。ほとんど息をする暇さえないのである。いったいどこからこんなにいろんな言葉が出てくるのか、呆れるよりほかはない。顔はもうおそろしく脹れ上ってしまった。シルクハットはうなじのほうへずるっこけている。いわえてあるシャツの胸当は、チョッキの外へはみ出しているという有様である。おまけに、いうこともとうに一般的なことにわたっていて、どう考えても、本筋とは関係のないようなことばかり並べている。自分の不行跡のことをほのめかしたり、宗教じみた暗示になったりする。それがまたいかにも不釣合いな調子で、だらしなく悪口雑言をまじえながら、述べ立てられるのである」やがてピイプザアムは声を振りしぼってどなった後、人事不省に陥ってぱったりと動かなくなってしまう。弥次馬たちが水をぶっかけたりブランデエを嗅がせたりするが、てんで効果がない。しばらく経った頃、衛生隊の馬車がやってきて止まる。男が二人降りてきて、一人が馬車の後ろで取りはずしの利くベッドを引き出しているあいだ、もう一人が弥次馬を払いのけ、ピイプザアムを馬車まで引きずってくる。「それからピイプザアム君は、例のベッドの上にねかされて、まるでパンをパン焼き竈の中へでも押し込むように、馬車の中へ押し込まれてしまった」そしてピイプザアムは運び去られ、物語は終わる。ここではもちろん、ベッドが棺桶に見立てられ、それが馬車の中へ押し込まれるさまは火葬場で棺桶が押し込まれるさまに見立てられている。滑稽な、ほんとうに滑稽な男の話だ。だが笑うことができるだろうか? トオマス・マンは書いている。「人間は、自分自身に向っていくら自分の無辜を力説したところで、それはなんの役にも立たない。たいていの場合人間は、自分が不幸だからといって自分を侮蔑するようになるものである。ところが、自蔑と悪徳とは実に怖ろしい相互関係に立っている。両者は互いに相養い相扶ける。それはぞっとするくらいである。ピイプザアムの場合もまた、その通りであった。」

 

僕は最近、苛々することが多くなった。前にも増して、自制がきかなくなっている。自分がしょうもない人間だと感じる。何をしてもダメなような気がする。安吾は『堕落論』のなかで、再び立ち上がるにはいちど堕し切ることだと書いた。でもそろそろ、堕落することにも疲れてきている。自蔑と悪徳の怖ろしい相互関係に飲み込まれる前に、何か、何か行動しなければならない。何か……

 

(「墓地へゆく道」を読み終わり、次の「道化者」に差し掛かったところで最寄り駅に着いた。僕は駅の近くのコンビニで煙草を吸い、喫煙スペースから狭く区切られた空を眺めた。ぼやけたように色を失い、蒼白な光を帯びた空が広がっていた。今朝、卒論を完成させて徹夜明けで眺めたあの青い空を、ずっと覚えおこうと思った。

 

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『君の名は。』感想

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今更ながら、『君の名は。』を観ました。

僕はこれまで新海誠の映画は全部見ていて、『言の葉の庭』ではがっかりしたもののまあ好きな監督ではあったのですが、今作『君の名は。』に関しては実は全く観る気がありませんでした。それは前作の言の葉で落胆したせいであり、また粗筋などから伝わってくるチープさのためでもあったのですが、今回なぜ今になって観ることにしたのかというと、卒論で扱うことにしたからです。

僕はテクストの空間、中でも小説で表現される空間というテーマで卒論を書いています。テクスト (小説) による場の表現と視覚芸術による場の表現の相違について考える上で、映画よりも監督自らによって執筆された小説が先に発表されるという特殊な経緯を持つ『君の名は。』はうってつけの検討材料だと思ったわけです。

以下、『君の名は。』の簡単な感想になります。本来はこんなことを書いている場合ではないのですが、どうしても今、まだ映画の余韻が残るうちに書いておきたいので雑記的な形で残しておきます。たぶん、卒論が終わったら追記します。

ちなみに小説を読んだ上で鑑賞しました。

 

以下、ネタバレあり。

 

・ラッド興醒め。
・BGMが印象に残らない。これまでの天門のほうがよかった。
・秒速、星を追う子どもの成就系。途上として言の葉の庭がある。AIRCLANNADに発展したように。後者が前者の成就系のように。
・秒速、星を追う子どもには童貞性(理想化した他者(異性)あるいは過去にしがみつく少年)の批評性があった。その他者あるいは過去をこれ以上ないくらい美しく描きながら、それが成就しないことによる批判性があった。今作では成就してしまった(まさしく糸が結ばれてしまった)がゆえにその批判性が消え、童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっている。それがつまらないと感じてしまった原因だと思われる。
悠木碧がかわいい。
・小説を読んでいないと理解できないのではと思う場面が多々あった。自分が映画が苦手なのは、その切断性のためだろうか。
・絵、これまでのほうが綺麗だったような。
・とんとん進んでいく。挫折がない。あったとしても直後に解決され、また観ているほうも解決されることが容易に予測できてしまう。
・奥寺先輩の煙草のシーンいったか?
・ほんとラッドいらない。
・エンディングは曲自体は悪くない(けどいらない)。
・初めて瀧になった三葉がマンションを出て、東京の風景を観るシーンがハイライトか。この部分は小説を読んでいて「きっと描きたかったんだろうな」と思った場面なので凄く楽しみにしていた。小説版の描写もおすすめ (52ページ)。
・カメラワークの違い。小説は一人称。映画は三人称。ズームイン、ズームアウトは共通。小説は小出し。映画は一望。
・ぜんぜん飛騨(聖地)に行きたいと思わなかった……。東京の風景には惹かれた。
・映画は説明不足というのに関連して。テッシーがオカルトマニアなこととか、もっと説明必要では。あとカタワレ時とか。
・最後、「君の名前は」までのやりとり(「君をどこかで〜」)はいらない。せっかくの盛り上がりがトーンダウン。
・やっぱり登場人物の声とか容姿、風景を自由に想像できるのは小説の強みだなあと、皮肉にも視覚芸術の悪い点ばかりが目についてしまった。これまでの作品はテクストとは異なった良さを発見させてくれたのに。
・オープニング曲「前前前世」がミスリードになっている?(三年前なのに「前世」)
 

君の名は。』が流行りだして以来、よく友達に「新海誠ってどんな映画?」と聞かれるようになったのですが、そのたびに僕は「童貞映画」と答えていました。
別にこれはバカにしているわけではなく、ここでいう「童貞」とは、誰もが胸の内に温めている美しい思い出のようなものです。
 
新海誠の主人公は、皆胸の内にそうした思い出を残しています。たとえば『秒速5センチメートル』では主人公は小学生の頃好きだった女の子の面影を社会人になってからもずっと忘れられずにいるし、『星を追う子ども』の主人公は自分の窮地を助けてくれた男の子のことが忘れられずに異世界にまで赴きます。主人公とともに赴く男もまた、亡くなった妻のことが忘れられず、彼女と再会するために異世界を訪れています。
 
この愛慕の対象となる他者 (異性) は先に書いたように過去の「思い出」が具現化したものであり、それらは月日の経過とともに理想化され、いつしか彼らの生きるための依り所となっています。
そうした理想化され美化された他者 (異性) =思い出を新海誠は持ち前のこの上なく美しい映像で描くわけですが、これまでの映画では、同時にそこに強い批評性がありました。
 
秒速5センチメートル』では最後、主人公の前に小学生の時からずっと思い続けた女の子が現れます。二人は踏切の遮断機を隔てて向かい合い、主人公の少年 (成人していますが、あえて少年と書きます) は「もしや」との期待を込めて電車が過ぎ去るのを待つわけですが、電車が過ぎ去って目の前を見ると、もうそこに女性の姿はありません。二人は結局、最後まで再会できなかったわけです。しかも女性は既に別の男性と婚約しており、少年の存在に気づくことはありません。
 
ここから読み取れるメッセージとしては、「確かに思い出は美しいしそれ自体価値はあるけれど、でもそれだけにしがみついていてはダメだよね」というものがあります。つまり新海誠はそうした思い出を賛美しつつも釘を刺しているわけです。「現実を見ろ、前を見ろよ」と。

しかし『君の名は。』ではどうでしょうか。瀧と三葉は上り電車と下り電車という遮断を乗り越え、再会してしまいます。「君のこと、どこかで」と互いに求め合い、涙を流し、無事その恋を成就させてしまうのです。
「君の名前は」と呼びかけ合う最後はとても美しくキマッてはいますが、成就してしまったがゆえに従来の批評性が消え、単なる童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっています。

思えばこうなる伏線はありました。『星を追う子ども』は成就しないまでも最後一瞬だけ他者 (異性=思い出) の幻影と再会するし、『言の葉の庭』では離ればなれになるとはいえ互いの気持ちを承認し合います。途上にこれらの作品があり、その発展系として『君の名は。』が作られたのでしょう。
よってこの意味では新海誠は順調に歩み続けており、『君の名は。』は彼の新境地であるのかもしれません。しかし、それでいいのか——と、『星を追う子ども』以前の新海誠ファンである僕としては、横槍を挟まずにはいられません。
 
もともと、新海誠という稀有な存在は、その圧倒的な天体描写に表されているように、絶望的なまでの断絶、そしてその断絶ゆえの美しさ、すなわち手の届かないもの=既に失われてしまったものの美しさを描く存在でした。それは彼の初期作『ほしのこえ』に最も顕著に表れています。もちろんセカイ系という概念を持ち出せば話は複雑になってきますが、それでも根本的には新海誠の映画はディスタンスの映画であったはずです。
 
その距離が失われてしまってほしくないと——もしかしたらこれも「思い出」に固執する童貞性に過ぎないのかもしれませんが——ハッピーエンドのささやかな満足感と拭いされないモヤモヤに悩まされながら、そんなことを思いました。
 
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憧れの槍ヶ岳【本編3】

 

08/04 (木)

 

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ヒュッテ大槍前より

 

登山3日目、最終日の朝は4時に起床。昨日と同じく御来光を拝みます。本当は御来光だけでなく星空も見たかったのですが、午前4時では既に星はほとんど消えていて、こちらは作戦失敗でした。ほかの宿泊客には夜中トイレに起きたついでに外に出て星空を見たという人もいて、僕たちもそうしておけば良かったと思いました。

 

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それはともかく御来光です。

槍ヶ岳までコースタイム50分のところにあるヒュッテ大槍から東を望めば上の写真のような景色が広がっていますが、北側には、

 

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 このようにドンと、槍の穂先が構えられています。

 

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 槍の肩に見える灯りは槍ヶ岳山荘のもの。けっこう遠くにも見えますが、ヒュッテ大槍からは1時間足らずで行くことができます。

 

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4時50分頃 日の出

 

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朝陽を浴びる槍ヶ岳

 

さて、5時頃まで御来光を拝んだら、ヒュッテ大槍にて朝食をいただきます。

 

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 デザートまで付いたおいしい朝食

 

ちなみに、昨日の夕食はこんな感じでした。

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まさかの白ワイン

 

ヒュッテ大槍ではこの夕食時のワインが売りの一つのようで、食事もそれに合わせて洋食になっています。非常においしかったのですが、翌朝槍の穂先に登るつもりだったのでワインは控えました。自他共に認める酒好きのぼく、本当は飲みたくて飲みたくてしかたがなく、事実何度も誘惑に負けそうになったのですが、万全の状態で槍に登りたいという思いのほうが強く、どうにか抑えました。

ただ、目の前にあるとどうしても飲んでしまいそうだったので、食事の席で仲良くなった関西弁のおっちゃんに飲んでもらいました。おっちゃんありがとう。

 

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6:00 出発

 

朝食を食べ終えたらヒュッテ大槍を出発。いちどまた戻ってくることにして荷物を置かしてもらい、ヘルメットも借ります。

 

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下 (写真中央左寄り) に見えるは深田久弥が泊まったという殺生ヒュッテ (?)

 

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6:40 槍の肩に到着。ヒュッテ大槍から槍ヶ岳を仰いだとき、槍ヶ岳山荘が見えたところらへんです。

 

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写真下部左寄りに矢印があるのがお見えになるでしょうか。ここから穂先へ登ります。

 

「憧れの槍ヶ岳」と題して書いてきたこの記事もとうとうクライマックスを迎えるわけですが、ここから穂先 (山頂) までの道のりは今まででいちばんの難所であり、一瞬も気が抜けません。

岩場のトレース、鎖場、垂直な梯子……。槍の穂先といえばこの垂直の梯子のイメージが強いかもしれませんが、ぼくがいちばん怖かったのは鎖場や梯子が出てくる前の岩場のトレースでした。鉄筋が岩に打ち込んであり、それを掴んで登り、また足場にもするのですが、鉄筋と鉄筋の間が離れている箇所があり、登り方が見つかるまでが非常に怖かった。Sも怖かったと言っていました。ここは焦らず、登り方が見つかるまでは下手に足を踏み出さないほうが良いと思われます (ずっと止まっているのも怖いですが)。

Sはボルダリングの経験が役に立ったと言っていました。三点支持の感覚が身につけられるそうです。ぼくの場合は北アルプスに来る前に登った岩殿山の経験が生きました。あそこの稚児落としに至る鎖場も相当怖かったので。

 

というわけで登っている最中は緊張の連続で、もちろん写真なんて撮っている余裕はなかったのですが、後からカメラを見返すとなんとか1枚だけ撮っていました。

 

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しかもちょうどいちばん怖かった箇所

 

基本的には注意さえ怠らなければ初心者でも登ることができるそうですが、転落事故が起こることももちろんあるみたいなので、実際に見て「無理だ……」と思った方は引き返したほうがいいと思われます。穂先への道は登りと下りとでルートが分かれていて、いちど登り始めたら引き返せないというのもありますし。

また、Sのように事前にボルダリングで感覚を養ったり、低山にある (無理だと思ったら引き返せる) 岩場や鎖場で練習するのも手です。

 

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7:00 ついに山頂に到着

 

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槍ヶ岳山頂 標高3180m

 

槍ヶ岳の山頂からは日本百名山のおよそ半分ほどの頂が見渡せるそうです。この時はガスもほとんどなく、360度ぐるりを遠望することができました。

それにしても、この達成感!

 

「一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう」(深田久弥日本百名山』「槍ヶ岳」)

 

登山を始めて1年、とうとう槍の穂先に立つことができました。

こういう場合によく言われる、人生観が劇的に変わったとか涙が出たとかいうようなことはなかったけれど、それでも下界にいたら決して味わうことのない感情の高ぶり、また月並みですが、自然のスケールの大きさ——自然がまず先にあって、人間はあくまでそこにいるだけに過ぎないのだ——ということを肌で感じることができました。

間違いなく、これからの自分を変えていく出来事の一つになったと思います。

 

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7:25 下山開始

7:40 槍ヶ岳山荘 (槍の肩)

 

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槍ヶ岳からヒュッテ大槍に戻る途中の尾根

 

8:20 ヒュッテ大槍着

8:40 上高地に向けて下山開始

 

下山

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念願だった槍ヶ岳登頂も果たし、ついに山を下る時がやって来てしまいました。名残惜しいような、ほっとするような。ヒュッテ大槍にヘルメットを返却して荷物をまとめ、8時40分に下山を開始します。目的地の上高地までは長くなだらかな下りでコースタイム7時間50分。最後の踏ん張りどころです。

 

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バイバイ槍ヶ岳。(半ば雲に隠れています)

 

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沢がありました。

 

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このあたりから沢の流れが川となり、その川に沿って歩いて行くことになるのですが、

 

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その豊かな水の、あまりの透明さに目をみはりました。

ちなみにこの川は梓川というのですが、andymoriが好きなぼくにとっては思い入れのある川でもあります。

 

帰り道のオリオン座 耳を澄ませた山びこ

遠くかすんでいく太陽 梓川 (andymori「優花」)

 

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写真では伝わりづらいかもしれませんが、登山道を横切る沢によってできた水溜まりです。驚くべき透明度。

 

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どんだけ水の写真載せんねんっていうね。でもそれくらいきれいだったんです。

 

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12:00 横尾山荘到着

 

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昼食

 

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12時40分、下山再開。横尾大橋を右手に見ながら上高地方面へ進みます。

ちなみに橋の方へ進むとコースタイム3時間の後に涸沢に至ります。ぼくたちは予備日の余りがあったのでこれから涸沢に行くという案も出たのですが、さすがに急過ぎるし、また今度の楽しみに取っておこうということになりました。金稼がないと……

 

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穂高方面。必ずや、いつか!

 

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さて、道はいよいよ平坦になり、これまでの2日間ではしんどくて沈黙しがちだったぼくとSも気楽に談笑しながら歩いていたのですが。

なにやら前方が騒がしい。さっきから、鳥だか栗鼠だかが鳴いているような甲高い声がする。いったいなんなんだ? そう思ってふと目をやると、

 

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猿がいました。

 

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親子(?) で仲良く歩く猿

 

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「もう歩けないよ、ママ〜」「まったく、しょうがないわねえ」な猿

 

猿を山で見たのは宮ヶ瀬ダムに自転車で行ったとき以来だったので、テンション上がりました。別にぜんぜん好きじゃないんですが。

 

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14:50 かっぱ橋到着

 

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ザ・上高地という感じの写真。

 

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グレートトラバースで田中陽希さんが食べていたジェラート。美味なり。

 

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かっぱ橋から上高地バスターミナルまでは10分ほどで行くことができます。ぼくとSはしばし上高地の景色を堪能した後ターミナルへ向かいました。いつ下山することになるか正確なところがわからなかったため帰りのバスは予約していなかったのですが、折良く新宿行のバスがあったのでそれに乗って東京へ戻りました。幸せな山行でした。

 

16:15 上高地バスターミナル出発

21:00 新宿バスタ

 

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「ねぎし」にて乾杯。この達成感たるや。

 

というわけで、無事に表銀座縦走、槍ヶ岳登頂を果たすことができました。今までお付き合いいただきありがとうございました。

細かい行程記録、山行の前に買った登山靴などの登山用品の感想、行ってわかったこと、反省点などは次回【振り返り編】にて書きたいと思います。【準備編】と同じく、主に初心者の方に向けて、実際に北アルプスに行ってみないとわからなかったことについて初心者であるぼくが書きたいと思います。

参考にしていただければ幸いです。(【振り返り編へつづく】)

 

憧れの槍ヶ岳【本編2】

 

 

08/03 (水)

 

 

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登山2日目は午前3時半に起床。御来光に向け、燕岳山頂へ向かいます。
初めてのナイトハイクでしたが、そこまで険しい道でもなかったので、特に怖い思いをすることもなく歩くことができました。ヘッドランプもぼくが用意したのは最大出力40ルーメンのものでしたが、事足りました (が、後日行った富士山では暗かったので、もっと明るいものを買ったほうが良いと思われます)。

 

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4:15 燕岳山頂 (2763m) に到着

 

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非常に分かりづらいですが、中央に槍ヶ岳が見えます。

 

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上の写真のアップ。これだと槍が分かる。

 

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徐々に白む東の空

 

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4:50 日の出

 

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姿を現す槍ヶ岳。あんなとこに登れるのか……? と不安になったり。

 

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まわりはこんな景色。

 

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心ゆくまで御来光を浴びたら、来た道を戻ります。

 

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5:40 燕山荘前のテーブルから

 

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今朝は燕岳がよく見える。

 

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朝食

 

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6:15 燕山荘を出発

 

もともと昨日、大天井ヒュッテまで行くはずがぼくの不調により燕山荘でストップしてしまったので、今日はコースタイム6時間35分のヒュッテ西岳を目指して歩きます。天気は昨日とは打って変わり、爽やかな晴れ模様。しかし昼からは雨との予報なので、先を急ぎます。燕山荘からのルートはいよいよ本番、表銀座縦走路。

ちなみにぼくの不調ですが、一晩寝たら順応したのか治っていました。ですが油断は禁物ということで、今日はこまめな水分補給とおやつ補給を心がけることにし、ポケットにたくさんおやつ類を忍ばせておきます。

 

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 これから槍ヶ岳までは北アルプス屈指の人気コース、表銀座縦走路。

 

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岩の合間を縫って進む

 

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矢印に従って進む。この先危険箇所。

 

燕山荘〜ヒュッテ西岳の縦走路は展望が良く、概ね気持ち良く歩くことができますが、時たまこうした危険箇所が出てくるので注意が必要です。

 

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表銀座縦走路。写真右側に槍ヶ岳が見えます。あそこまで行くのか……

 

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大天井岳まで3.5km。山頂には登りませんが。

 

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雲に半ば隠れていてもそ槍は目立つ。

 

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どこまでもつづく稜線

 

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滑落注意

 

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湖のようなものが見えました

 

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燕山荘を出発して3時間足らず、ようやく大天井ヒュッテを確認。当初の予定では昨日泊まるはずだった山荘です。

 

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9:00 大天井ヒュッテへ到着

 

表銀座は稜線なので緩やかな道だと思われるかもしれませんが、ところどころにアップダウンがあり、危険な箇所も何箇所かあるので気が抜けません。ここらでひと休みしたいところですが、雲が迫って来ているのですぐに出発。この日の宿泊予定地、ヒュッテ西岳を目指します。

 

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愛嬌のある道標に見送られながら出発

 

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雪渓が見えました

 

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山では天候に敏感になります。残りの行程にかかる時間を暗算し、それまで天気が保つかどうか、ペースを上げるべきかどうか常に悩みながら進まなくてはいけません (もっとも、たとえ要請されたところでペースを上げるなんてとうてい無理なわけですが)。

 

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・・・・・・・・・・・・ 

この後ももちろんぼくとSは表銀座を歩き続けたわけですが、よっぽど疲れていたのか、なんとこの日の写真はここで終わってしまっていました。なのでここからの道程についてはごく簡単に記しておこうと思います。

 

大天井ヒュッテ出発から約2時間後、10時50分に西岳ヒュッテに着いたぼくたちはさっそく宿泊を申し込みました。すると山荘の主人は意外そうな顔でこう言ったのです。

「え、泊まるの? この時間だったらまだ先に行けるけど」

彼の話によれば、まだ昼前のこの時間であれば槍ヶ岳山荘は厳しいとしてもヒュッテ大槍までは行ける。もちろん体力次第だけど、若い人ならだいたい2時間から3時間でそこに行くことができる。……

 

この時点で (それこそ写真も撮れないくらいに) 疲れ果てていたぼくはありえへんと思いました。やっと山荘に着いたのに、まだ歩くなんてありえへんと。しかも先述の通り天気は着実に怪しくなってきており、いつ雨が降り出すやもわかりません。雨だけならまだしも稜線で風に吹かれれば転落の危険もあるし、雷が鳴り出したら隠れる場所もない。ただでさえ疲れ切っているのに、そんな不安要素を抱えながら進むなんてありえへんやろ、と。

ですが主人曰く天気は昼までは保つ。もちろん無理にというわけではないが、進むのも一つの手ではあるよと (そして実際、同じ頃ヒュッテで昼食を摂っていた人たちはまだ先に進むようでした)。

 

ぼくとSはとりあえず燕山荘に作ってもらった弁当を食べることにしました。

「どうする?」というSの問いに、ぼくは婉曲な言い回しで「やめとこう」と訴えます。ですがぼくよりも体力に余裕があってかつ現実的な彼は、しばらく黙考したあとでこう言いました。

 

「進もう」

 

彼曰く、「予報ヲ信ズレバ雨昼ヨリ降ル。若シヒュッテ大槍ニ至ルレバ、明日以後ノ行程甚ダ楽ナリ」と。

 

僕曰く、「マジで?」と。

 

しかしこういう時、僕よりもSの判断が正しいのはこれまでの9回の登山で実証済みです。ぼくは恨めしそうな目を隠す余裕もありませんでしたがおとなしく従うことにしました。

そして結果的には、この判断がベストだったことになります。

というのもぼくとSは雨に降られることもなく無事ヒュッテ大槍に到着し、翌朝、体力的にも天候的にも万全な状態で槍ヶ岳へアタックすることができたからです。疲れていたぼくを引っ張ってくれたSに感謝。

 

というわけで、次回はいよいよ本編最後、憧れの槍ヶ岳への挑戦となります。その山容をテレビで見てから、ずっと憧れてきた槍の穂先。——とうとう明日、そこに登る。そう考えると、期待と緊張で胸が騒ぎ、何か運命的な出来事が起こるのではないかという気さえしました。——近々更新予定。

 

 

ちなみに、ヒュッテ西岳からのタイムは、

11:10 ヒュッテ西岳出発

13:40 ヒュッテ大槍着

でした。この間、「山と高原地図」でも記されているとおり険しい崖にかかる梯子や鎖場など危険な箇所が多くあります。注意してください。

 

憧れの槍ヶ岳【本編1】

 

 

2016/08/01 (月)

 

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22:30 毎日新聞社ロビー

 

午前中に新宿にて最終確認及び行動食の買い出しを行ったぼくとSは、22時に竹芝駅に集合しました。駅直通の毎日新聞社の入っているビルの中にはコンビニも入っており、仮に忘れ物をしてしまったとしても簡単なものならば調達することができます。ぼくとSは翌朝の食べ物を買っていなかったのでおにぎりを購入しました。

受付が済んだらいよいよバスに乗り込み、登山口の中房温泉に向けて出発です。

 

08/02 (火) 曇りのち雨

 

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5:30 中房温泉口

 

この週は天気予報が芳しくありません。北アルプス初日の朝は予報通り曇りでした。ほかの登山者たちに混じって準備を整えたら、いよいよ登山開始です。

 

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6:00 登山口 (標高1462m)

 

この日は燕岳まで登り表銀座に入って稜線を大天井ヒュッテまで行く予定です。まずは標高2763mの燕岳まで登る必要があるわけですが、上に書いたように登山口の標高は1462m。標高差は単純計算で1301mです。それをコースタイム4時間20分で行くというのですからけっこうな急登ですが、それもそのはず、このルートの後半の合戦小屋から燕山荘までの合戦尾根は北アルプス三大急登に数えられています。

夜行バスであまり眠れなかったこともあり、ぼくはその三大急登が現れるずっと前の初っ端からへばってしまいました。何度も休憩をねだりつつ、どうにか前を行くSについて行きます。余程辛かったようで、ほとんどその間の写真が残っていませんでした。

 

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登山口の時点で既に肌寒いくらいでしたが、登り始めるとすぐに暑くなってインナー姿になりました。

 

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8:30 合戦小屋到着

 

この段階で頭痛がし始め、「高山病」の文字が頭をちらつき始めました。特に危険な箇所はないのですが、ここまでの道のりはとにかく急できつかったです。前を行くSくんはまだまだ元気そうでしたが。

 

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合戦小屋名物、西瓜。

 

一息ついたあとは、燕山荘目指して再び歩き出します。いよいよ登りも佳境、恐れていたあの北アルプス三大急登です。……が、調子に乗って西瓜を食べ過ぎてしまったのがいけなかったのか (上の写真の分をひとりで食べました)、体が手指の先まで冷え、一気にしんどくなりました。先ほどからの頭痛も悪化。あわててフリースとネックウォーマー、手袋を着込むと、少し登ったところで無事汗が出て来ました。

 

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燕山荘付近 (だったと思う)

 

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10:30 燕山荘到着

 

登山開始から4時間半、やっとこさ燕山荘に到着です。

当初の予定ではここでひと休みした後、燕岳山頂までピストンして表銀座に入り、大天井ヒュッテまで行くはずだったのですが、ぼくがおそらく高山病と思われる頭痛、お腹の不快感で困憊していたため、予定を変更してここ燕山荘で1泊することになりました。

 

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宿泊受付を済ませてザックを置かせてもらったあと、とりあえずカップヌードルを食す。

 

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一面を覆っていた霧が束の間晴れ、燕岳が見渡せました。

 

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まわりはこんな景色。テン場がすぐ近くにあります。

 

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燕山荘展望台

 

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少し霧が晴れたので、燕岳にアタックしてみた (けっきょく途中で引き返しました)。

 

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燕山荘喫茶室にて

 

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ランチ (ぼくは山菜うどん、Sはカツカレー)。山荘の食事とは思えないほどおいしい。

 

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晩ご飯。山荘の食事とは思えないほどボリュームがあり、とてもおいしい。

 

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夕食風景。この日は午後から天気が崩れて大雨となったため、夕方頃にずぶ濡れで駆け込んできた登山客が多かった。また、ツアー客もけっこういた。

 

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寝床。多いときは六人で寝るという一区画にぼくとS、おじさん2人の4人で寝ました。二層構造になっていて、ぼくたちは梯子で登る二階部分でした。秘密基地っぽくて楽しかった。

 

 

……というわけで、登山初日は天候不良とぼくの高山病疑惑で予定を変更して大天井ヒュッテではなくそのずっと手前、表銀座の入口の燕山荘に泊まることになりました。が、この燕山荘、さすがは日本でいちばんきれいな山荘といわれているだけあって、素晴らしかったです。もはやきれいを通り越して、お洒落のレベルまで達しているのではないかと思いました。全体的に内装が凝っていて、とても雰囲気が出てます。食事もおいしいし、スタッフの対応も素晴らしかった。泊まって良かったなと思いました。

……「泊まって良かった」。今でこそそう思いますが、正直に白状すると、初日のこの段階では「とんでもないところへ来ちまった」と思っていました。Sの手前口には出しませんでしたが、異常なほどの息切れ、軽症ではあるものの頭痛、腹の不快感と悩まされ、おまけに中房温泉から燕山荘までの道のりは辛く、だいぶ疲れていたのです。

 

しかしそんな不安も、翌日、吹き払われることになります。

 

次回、「憧れの槍ヶ岳【本編2】」では、燕岳ご来光登山に始まり、いよいよ表銀座縦走に入ります。目標は燕山荘からコースタイム6時間35分のヒュッテ西岳まで。表銀座に行ってみたいけれど初心者なので不安だ、という方にはぜひ読んでいただきたいです。近々更新予定。