シュレディンガーのパン

 気の置けない友達と話す時というのはほんとうに頭を使わなくて、僕はそれを「脊髄会話」と呼んでいる。脊髄会話というのは文字どおり脳を介さずに脊髄で反射的に言葉を口にしてしまう会話のことで、この脊髄会話からはしばしばくだらない話が量産される。以下記すのは、去年の冬、大学にて生まれた僕と友達コージの脊髄会話である。
 前の授業が早く終わった僕とコージは、キャンパス内のベンチに座ってパン屋の夢を膨らませていた。パン屋の夢というのは、来る就活から逃れるべく、卒業したらパン屋を開くという荒唐無稽な妄想であって、その頃僕たちのあいだで盛んに交わされていた会話だ。言い出したのは僕だが、話を聞いたコージもすっかり乗り気になって、暇があれば場所はどこにするか資金はどうするか店内ではどんなレコードをかけるかなどといった議論を侃々諤々に戦わせていた。パン屋の夢は設定を詰めれば詰めるほど培養させた酵母菌のように膨らみ、その日も時間を持てあました僕とコージの話題は当然パン屋に向けられた。その日の議題は「何をウリにするか」だった。 
 しばらくさまざまな案を出し合ったあと、ふとコージが (あえて強調しておくが、コージが)、
ハプニングバーみたいに、店員をノーパンにすれば客来るんじゃね?」と言い出した。
「え、俺らが?」と僕。(※ 脊髄会話)
「いやいやいや。あ、俺らも脱いじゃう?」(※ 脊髄会話)
「需要ねぇ。というか、ズボンだったらほんとにノーパンかわかんないじゃん」(※ 脊髄会話)
「まあ、スカートでもわかんないけどな」(※ 脊髄会話)
「あ、そっか。まさか捲るわけにもいかないしね」(※ 脊髄会話)
 そこで僕にひとつの疑問が浮かんだ。
「待てよ……そうなると、ハプニングバーはどうやってノーパンであることを証明するんだ?」(※ 脊髄会話)
 僕とコージは深い思索に沈んだ。まさか捲るわけにもいかないだろうし、そうなると店員がノーパンであることを証明することはできなくなる。客は、「店員がノーパンである」という「設定」だけを求めてハプニングバーに来るのか……?
シュレディンガーだな」とコージが言った。僕も同意した。
 シュレディンガーというのはもちろん「シュレディンガーの猫」のことだ。外からは中が見えない箱の中に猫を入れ、あとは毒ガスが発生するかしないか微妙な装置をONにして、一定時間後、猫は生きているか否かというアレである。文系に細かい説明は無理なので、詳細は「はてなキーワード」を参照されたい。(「シュレディンガーの猫」をクリックすると説明ページに飛ぶはず)
 日本人はなぜだかこのシュレディンガーの猫が大好きで、量子力学とか量子論の話になるとやたらとこれを持ち出すことは有名だが、その時の僕とコージもその例に漏れず、シュレディンガーの猫の思考実験に重ねて真剣に「ノーパンである」という状態について考え始めた。
 ……結論は出なかった。
 所詮、冬枯れたキャンパスのベンチで脊髄会話をしているだけの学生二人に解ける問題ではなかったのだ。しかしその代わりに、僕らはやっとパン屋の名前を決めることができた。
 その名は、パン屋「シュレディンガー」。
 これしかないだろ、とコージが言い、僕もうなずいた。店員が全員ノーパンのちょっといやかなり不衛生なパン屋、「シュレディンガー」。店名を聞いただけではまさかそんなくだらない由来があるとは想像もつくまい。パン屋の夢は四月になりコージが本格的に就活を始めるとともに雲散霧消してしまったが、脊髄会話の好例として残しておきたかったのでここに記した。ちなみに、タイトルの「シュレディンガーのパン」にはもちろん「パンツ」の意も掛かっている。