結局、「読まれる」ためよりも「読む」ために書いている。

 

 ぼくは今まであいまいな態度でブログを書いてきた。というのはブログ自体が日記のようでありながら第三者に開かれているあいまいなコンテンツだからだが、時に見知らぬ第三者に呼びかけ、時にそれこそ日記のように自分に沈潜しながら、いつもぼくはこのブログのあいまいさ、より具体的にいえば「ぼくはだれに向けてこの文章を書いているのか」という落ち着かなさを覚えながらブログを書いてきた。この戸惑いはそのままぼくのあいまいなエントリ、だれに向けて書かれたのかいまいちわからない文章に表れていると思う。どこどこに行ってきました、と第三者に語りかけながら、ひたすらプライベートなことを書き連ねている矛盾。しかしそうと知りながら、ぼくは個人的なことを書かずにはいられない。そんなもの、ぼくを知らないひとが読んでもおもしろくもなんともないはずなのに。

 結局、ぼくは「読まれる」ためよりも「読む」ために書いているのだと思う。もちろん、アクセス数がのびていたらうれしい。はてなスターがもらえた日には小躍りする。深夜、ひとり黙々と書き連ねた文章を読んでもらえたのだと思うと、孤独から救われるような、ぽっと灯りのともるようなあたたかさを感じる。

 でもやっぱり、ぼくは自分のためにこのブログを書いている。自分がいま思っていることを整理し、残しておくために書いている。あとで「読む」ために書いている。事実、ぼくは自分のエントリを読み返すことが多い。過去の文章を読んでいると、そのときに思っていたこと、考えていたことを思い出すことができる。そればかりか当時オブジェクト・レベルでしか見えていなかったことがメタ・レベルで見えてきたりする。つまり客観視することができる。もちろん恥ずかしくなることも多い。自分はどれだけ甘ちゃんなんだとしばしばあきれかえる。決意ばっかでぜんぜん行動しないなこいつ、とかいまの自分を棚に上げて思ったりもする。

 登山記録を読めば当時の楽しい記憶を思い出して癒やされるし、わずかながらアップしている創作小説を読んで厭になったり、案外わるくないやんと元気になったりもする。これはもしかしたらコンテンツ化した自分の日々を消費して悦んでいるだけの自慰行為に過ぎないのかもしれない。でも自分の日々が、そこで感じ考えたさまざまなことがわずかでも文章というかたちで残っているのはいいことだ。書き記しておくことにより、ぼくは過去の自分と対話することができる。そしてたぶん、未来の自分とも対話することになるのだ。