若さをもてあそぶ ――サニーデイ・サービス「若者たち」


 二ヶ月ほど前からサニーデイ・サービスにはまり継続して聴いているんですが、 1stアルバムの『若者たち』の最後を飾る表題曲「若者たち」*1に、こんな詞があります。

  彼女はと言えば 遠くを眺めていた
  ベンチに腰かけ 若さをもてあそび
  ずっと泣いていた

 僕はこの曲が好きで繰り返し聴いているんですが、最初にこの詞を聴いて思ったのが、「なんで若さを『持て余し』ではなく『もてあそび』なんだろう」ということ。
 ふつう、「若さを持て余す」とは言っても、「若さをもてあそぶ」とは言いません。

もて-あそ・ぶ【玩ぶ・翫ぶ・弄ぶ】
①手に持って遊ぶ。
②慰み愛好する。また、寵愛する。慰み興ずる。
③人を慰みものにする。なぶる。
④思いのままに扱う。好き勝手に扱う。(『広辞苑 第六版』)

 直後に「ずっと泣いていた」と続くことから考えれば、②の「慰み愛好する (…)」の意味ではないことが推測できます。④の「思いのままに扱う。好き勝手に扱う」も同じ理由で考えにくいと言うことができるでしょう。となると、残る選択肢は①か③の二つ。③は「『人』を慰みものにする」とあるのが気になるところですが、そもそもよく使われる「若さを持て余す」という表現も「若さ」を擬人化していることを考えると、それだけで撥ね除ける根拠にはならない。だが①の「手に持って遊ぶ」に対し、③の「慰みものにする。なぶる」は攻撃的なニュアンスを孕んでおり、「持て余す」が「処置に困る。取り扱いに苦しむ。手に余す」(『広辞苑 第六版』) と受動的な意味に収まっていることを考えれば、いちばん互換性が高いのは①の「手に持って遊ぶ」だと言うことができます。だから僕もはじめの頃は「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の類義語に過ぎないものとして聴いていました。

 が、何度も聴いているうちに、馴染みのある「持て余す」という表現ではなく「もてあそぶ」という表現を選択したのには、やっぱり何か別の強い意味が隠されているのではないかと思えてきた。それはたとえば、次のような詞を聴いたときに頭をもたげてきます。

  広がって来る不安におそわれ
  「明日になれば」「朝が来れば」とか
  昨日もそうだった

 もちろん、「若さをもてあそぶ」を「若さを持て余す」の単なる言い換えとして聴くことも可能です。しかしこれは曲名からもわかるように「若者たち」、さらにいえば (若者たちの) モラトリアムについて歌った曲であり、まさにいま「若者たち」のうちのひとりである僕としては、そこに「持て余す」の単なる言い換えには収まらない強い意味を見出さずにはいられないのです。つまり、どうしても③の意味で聴いてしまう。

③人を慰みものにする。なぶる。

 ところで、一般に語られる「若さを持て余す」とはどのような状況でしょうか。その表現から思い浮かぶのは、若さ故の精力、時間に満ちあふれているのだけれど、まさにそれが「満ちあふれ」ているがためにどう対処すればいいかわからず、身動きがつかなくなっている若者の姿。おそらくそんなところだろうと思います。

 では、「若さをもてあそぶ」になるとそれがどう変わるのか。「もてあそぶ」を①ではなく③の意味で捉えれば、そこには若さ故の精力、時間に満ちあふれ、それらをどうにかしようと何かしらやってみるのだけれど、なかなかうまくいかない。いつも徒労に終わる……そんな若者たちの姿が立ち上がってきます。つまり、「若さを持て余す」が自分では制御しきれない精力や時間を文字通り「持て余」して呆然と立ち尽くしているのに対し、「若さをもてあそぶ」はその制御しきれない精力や時間をどうにかしようと試みるのだが、それがうまく形にならない。徒労に終わり、結局は若さを「なぶる」だけに終わってしまう……というモラトリアム (≒ 何者かになるための猶予期間) の中でもどかしさを抱えた「若者たち」の姿を痛切に描き出していると思うのです。つまり、そこにはただ呆然と立ち尽くすのとは一線を画した能動性、弱々しいながらも懸命なあがきがある。

 それはたとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の主人公たちを思わせる光景で、「ベンチに腰かけ」て「遠くを眺め」、「ずっと泣いてい」るその後ろ姿は若さをセックスとドラッグで乗り越えようとしたものの、あるときふとその空しさに気づいて動けなくなった主人公の後ろ姿に重ねられないでしょうか。あるいはandymori「すごい速さ」*2の詞、

  でもなんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う
  だってなんかやらなきゃできるさどうしようもない
  このからだどこへ行くのか

 に描かれた「なんかやれそうな気がする なんかやらなきゃって思う」若者 (たち) の焦心、「だってなんかやらなきゃ」→「できるさ」→「どうしようもない」と試みては徒労にうちひしがれる後ろ姿とシンクロして見えてこないだろうか。


 と、長々と勝手な解釈を連ねてきましたが、それだけ僕はこの「若者たち」の「若さをもてあそぶ」詞が好きなのであり、その理由はまさにいま自分がモラトリアムの中で懊悩する若者で、歌い上げられるその姿に強く共鳴してしまうからだと思います。小説にさまざまな読み方があるように音楽にもさまざまな聴き方があって、たとえばクラフトワークが好きな僕の友達は「想像の余地が残されているほうがいい」と話していましたが、やっぱり僕はどうしても歌われたものに共鳴することでしか聴くことができないようです。だから「若者たち」のなにげない言葉のチョイスが、いつまでも心の内に引っかかる。

 サニーデイ・サービスはそうした若者の懊悩だけでなく恋の楽しさを歌い上げるバンドでもあり、また晴れた日の朝のうきうきとした気分や「雨の土曜日」の青白くけぶった街並み、八月の狂おしいほどの暑さをそれこそ「若葉の匂い」のように立ち上がらせてくれるバンドでもあるので、抒情的な音楽が好きなひと、特に邦画的な世界観が好きなひとなんかは惹かれるのではないでしょうか。今回取り上げた「若者たち」は冒頭に書いたように1stアルバムの表題曲でしたが、僕がいちばん好きなのは2ndアルバムの『東京』なので、いずれこちらについても書きたいと思っています。これがまたいいアルバムなんだ。


 と、いうわけで、評論に見せかけて実はただの好きな曲語りでした。
 さ、現実逃避はここまでにして、明日 (既に今日) の模擬授業の準備しよう。……はぁ。at AM 3:00


若者たち

若者たち

 

 

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

andymori

andymori

 

 

*1:作詞・作曲 曽我部恵一

*2:作詞・作曲 小山田壮平