街、帽子、光、鳳凰

 ここのところ自分でもどうかと思うほど引きこもっていたので、今日は電車に乗って街に出た。あまりに小説のアイディアが浮かばないので、外に出れば何か思いつくかもしれないという淡い期待もあった。
 折しも今日は花火大会の日だったので、浴衣や甚兵衛を来た若者がたくさんいた。見た目にも涼やかで夏らしかった。花火大会などとは何の縁もない僕は図書館で庄野潤三『プールサイド小景・静物』を返却し、モスバーガーで昼飯を食べようとしたが満員、フレッシュネスバーガーに向かうも改装中、いじけて何も食べずにパルコに入り帽子を見た。登山用に、ここのところ帽子を探していた。カップルが楽しげに相手の服を選んでいる中、ひとり黙々と帽子を被り脱いだ。ちょうど良いのがあったので購入し、その場でタグを切ってもらった。
 せっかく街に出たので、ついでにTSUTAYAに寄った。松崎ナオのアルバムがあれば借りて帰ろうと思ったのだが、所詮郊外のTSUTAYAにはカラオケに収録されていないアーティストは置いていなかった。NHKの『ドキュメント72時間』で流れるこの人の「川べりの家」*1という曲に心を揺さぶられて以来、ずっとアルバムを聴いてみたいと思っているのだが、機会が訪れない。やはり新宿に行くしかないのか。それと、前の記事で紹介したtricotの新作アルバムがあって借りたかったのだが、一枚だけで借りるのもばからしかったのでやめた。唾を吐きたい気分で店内を後にし、電車に乗って家に帰った。昼飯には結局コンビニのざるそばを食べた。おいしかった。
 ちなみにこの記事を書きながら、andymoriの『光』を聴いていた。小山田壮平の声はほんとうにふしぎだ。何かを痛切に叫んでいるような、それでいてどこか甘えるような、惜みなく愛を降り注ぐような、楽しかった幼年時代に思いを馳せるような、少年っぽさを残した、だけど少年のものではない声。
 よく詩とか哲学書とかを指して頭ではなく身体で「わかる」と言ったりするけど、僕は小説家を志しているくせに文字媒体でそうした体験をしたことがなかった。ほんとうにそんな体験が実在するのかと不審に思っていた。でも、andymoriを聴いた時の感覚というのはまさにそれだ。頭よりも何よりもまず全身で共鳴してしまう。存在ごと共感してしまう。この人たちは自分と同じ思いを抱いている、と理屈ではなく「わかる」。
 andymoriを聴くたび、僕も全身全霊をかけて、自己存在をかけて小説を書かなければならないと思う。焦りを覚える。それでも一行一行、苦しんで書いていくしかない。

 ……ここで終わらせるはずだったのだが、チャイムが鳴り、クール便が届いた。待ちに待っていた「鳳凰聖徳 大吟醸酒しずく搾り」だった。神妙な気持ちになっていた大学四年生 (無職)、PCの前を離れて小躍る。……というわけで、この段落の文章を書いているのは酒を飲んだ後である。非常に美味だった。今度レポートします。

*1:歌詞がとても良い。「大人になってゆくほど 涙がよく出てしまうのは 一人で生きてゆけるからだと 信じてやまない」