夏の二日間【奥多摩氷川キャンプ場】

 

2018年7月24日 (火)

 

9時前に家を出る。20分ほど歩いて駅に行くと、既にシャツが汗で湿っている。日中の熱射を思い、構内のコンビニでポカリを買う。

立川でKと合流。青梅線に乗り換え、久方ぶりの奥多摩へ。後で考えてみると、奥多摩に行くのは去年の盆、雲取山に登った時以来だった。

10時50分、奥多摩駅着。駅を出て左に折れ、昭和橋を渡って氷川キャンプ場へ。

受付でテン場代1600円 (1人800円) を払い、レンタル用品を受け取るために受付隣のカフェクアラへ。

カフェクアラは基本的に平日休業である。今回は事前にお願いし、特別に貸してもらえることになった。僕たちがレンタル用品を借り受けた後すぐシャッターが閉まっていたから、本当にこのためだけにスタッフがいてくれたのだと思う。感謝。

借り受けたインナーマット、BBQ台、チェア2脚を持って河原へ。

 

f:id:umiya22:20180728230439p:plain

 

平日の朝だし、だれもいないかもしれないと思っていたのだが、既に幾つか、テントが張られている。キャンプは初めてだが、場所選びが重要だということは言われずともわかる。少し悩んで、テントとテントの間の木蔭に設営することにした。

 

f:id:umiya22:20180728230820p:plain

 

前夜、散々悩んだ末、持ってきたトンカチが役に立った。河原はなかなかペグが刺さらず、場所に依ってはトンカチを以てしても手こずることもあった。

設営が終わると、もうすることは何もない。翌朝まで、ただひたすらの空白が続いているだけだ。

さて、何をしよう。

 

 

川の冷たさについて

 

河原には何もない。堪りかねる暑熱とせせらぎを除いては。都市の喧噪も、百万の眼も。

僕たちは水着に着替え、目の前の流れに足を踏み入れた。

驚かされたのは、その川水の余りの冷たさである。膝まで浸した途端、動けなくなった。「冷たい」が「痛い」と等号で結ばれたのは、実に小学生以来のことだ。祖父母の住まう福岡の、ある有名な鍾乳洞を浸す水の冷たさに僕は馴染めず、父におぶってもらったものだったが、二十五になった今、またも同じ清新な驚きが僕を刺していた。

しかしKはすぐに水中に飛び込み、その冷たさを享受していた。僕はしばらく一本の木のように固まってから、ようやく身体を川に浸した。案ずるより産むが易し。一度やってみれば、もう何のことはなかった。

川の中から見た景色は、これ以上ないくらいに夏だった。

 

f:id:umiya22:20180728233805j:plain

 

 

炭火の困難さと、着火剤の脱力について

 

「もう我慢できない」

とKが言った。時刻は正午を過ぎ、真夏の太陽はてっぺんに昇ろうとしていた。

僕たちは買い出しに出かけた。

近くの精肉屋でバーベキューセット2人前を買い、河原に戻る。網やトング、炭といった必需品は既に受付で借りてあった。さっそくBBQ台をセットし、火起こしに取りかかった。

しかし、炭というやつはバーベキューに欠かせないくせに、なかなか燃えてくれない。スマートフォンで効率的な火起こし方法を調べ真似してみたが、効果はなかった。ただいたずらに丸めた新聞紙だけが塵と化していくだけである。だがいったん試みた以上、着火剤に走るのは負けを認めるようで悔しい。30分ほど粘った。

「うみやちゃん、着火剤買ってきて」

「OK」

背に腹は代えられない。いや、文字通り腹が背にくっつきそうで、そうなれば背も腹も無いのかもしれないが、とにかく僕は受付に走った。

着火剤は200円だった。

炭と新聞紙の残骸の中にカレー粉のようなそれをひとかけら入れると、あっけなく火は燃えだした。さっきまで頑なにだんまりを決め込んでいた炭も、これには堪らず声を上げる。

それはあまりにもあっけない決着だった。僕等は無言のまま炭を足し、風を吹き込んだ。黙って見守る僕等の前で、火はいよいよ高くうねりだしてきた。

 

f:id:umiya22:20180729000014j:plain f:id:umiya22:20180729000104j:plain

 

 

炭火の偉大さについて

 

f:id:umiya22:20180729000403j:plain

 

 

風と蜩について

 

食後、例によって吐き気とめまい (というより酔い) に襲われた僕は、しばらくチェアに座ってじっとしていたが、昼頃から参上したパリピ軍団の雄叫びと大音量のBGMに追い打ちをかけられて、テントの中に引き下がった。

30分ほど眠ると、体調は落ち着いていた。Kと水切りをしたりして過ごした後、汗を流すべく温泉に向かった。

氷川キャンプ場からもえぎの湯へは、吊り橋を渡る。

 

f:id:umiya22:20180729001709p:plain

 

もえぎの湯はキャンパーや登山客御用達の温泉だ。去年はここで雲取山からの下山中、熊を見たという佐伯さんと再会したのだったなと思いつつ、内湯を通り越して露天風呂へ。ぬくめられる身体に、吹き抜ける風。山間の風は涼しい。

休憩室で、少し休む。畳の大広間には文明の風が行き渡っていた。やっぱ、文明は偉大だな。さっきまで散々自然を讃美し都会をけなしていた僕は言った。大自然の中で文明を享受するって最高だな。

僕はゆとり世代だった。

 

f:id:umiya22:20180729003857j:plain

 

温泉からの帰り道、徐々に日暮れてゆく景色の中で、何百という蜩が鳴いていた。

思えばここに来てからまだ油蝉の声を聞いていない。蜩の声に包まれていると、油蝉がなぜそう呼ばれるかがわかる気がした。あのじっとりとした鳴き声に比べて、蜩の音の、なんと清冽なことか。蝋細工のように薄く軽やかなあの羽には、日々の垢も付着できないのに違いない。

(しかし、Wikipediaに出てきた蜩は思ったよりもフツーの羽をしていた。そして思ったよりもセミ!な感じで、すぐにブラウザを閉じた)

 

 

1/f について

 

夜。

テントに吊されたランタンがひとつまたひとつと点灯していき、一面の闇の中に、仄かな灯だけが揺れている。

僕たちは大きめの石で堤を作り、そこに薪と火を点けた着火剤を入れた。

焚火をするのだ。

 

f:id:umiya22:20180729010812j:plain

 

ゆらぐ炎と、爆ぜる音。

ただ眺めているだけなのに、どうしてこうも満たされるのか。

 

f:id:umiya22:20180729011627j:plain

 

どうしてこうも旨いのか。

Kがチーズとウインナーを買い足しに行く。僕はひとり残され、茫然とチェアに座る。思い出したように薪を追加し、また虚脱。思い出したように煙草を吸い、また虚脱。

何を考えていたのか。その記憶すらも焚火はくべて、後にはただ写真と満ち足りていた感触だけが残るのみだ。

 

 

デジタルデトックスの不可能性について

 

日付が変わる。

ベースサイトはすっかり寝静まっている。

眠気がやってこないので、青空文庫アプリを開き、読みさしだった村山槐多『悪魔の舌』を読む。岡本かの子『桃のある風景』を読む。西東三鬼『秋の暮』を読む。『秋の暮』は沁みた。夏真っ盛りに読んだのに。抒情と感傷を分かつものは何だろう。自己顕示欲? 一人称との距離? すぐに感傷に落ち込んでしまう自分が目標とすべき文章かもしれない。

一首だけ短歌を作る。

寝ついて30分で目が覚める。身体が熱い。熱いのに汗が出ない。iPhone奥多摩町の気温を23℃と示している。まったく涼しさを感じない。いや、風が当たる部分は冷たいような気もするのだが、もはやよくわからない。頭が痛い。

熱中症かもしれない、と思う。

半袖半ズボンに着替え、テントを出る。チェアに座って塩飴を舐め、ポカリを飲む。いっこうに良くなる気配がない。スマホ熱中症になってしまった時の対処法を調べる。冷水に濡らしたタオルなどで手足の末端を揉むと血液が循環するらしい。水場に行って冷水で濡らしながら手先を揉む。ずっとやっているうちに、少しずつ寒さが感じられるようになってきた。チェアに戻り、ポカリを飲みながらぼーっとする。やがて寒さに身体が震え、安心してテントに戻る。Kが起きて、だいじょうぶかと聞く。こんな時でもKは優しい。カロナールを飲み、足の位置を高くして目をつぶる。

こうして夜が乗り越えられる。

  

そして今、PCを前に、デジタルデトックスの不可能性について考える。

自分はスマートフォンが嫌いだ。一時期はあえて持たない選択をし、まわりから顰蹙を買った。

今回のキャンプが、デジタルデトックスにもなればと考えていた。しかし逆に、一日でさえスマホから離れられなくなっていることを突きつけられてしまった。

買い出しに行く店を探した時、効率的な火の起こし方を調べた時、青空文庫を開いた時、熱中症の対処法を調べた時……。いや、そもそもスマホがなかったら氷川キャンプ場を見つけていないし、計画を立てることさえできなかった。

やはり、今となってはスマホ無しでは生きていけないのかもしれない。ネットワークの網から抜け出すことは、もはや不可能に近い。

 

 

夏の朝の全能感について

 

f:id:umiya22:20180729204152j:plain

 

ベースサイトの朝は早い。

7時頃にテントを起き出すと、まわりではもう朝が動いている。

Kが食パンを炙っているあいだに、レトルトカレーを湯煎する。こんがり色のついたパンにカレーをかけ、朝食が完成。しんぷるいずべすと。食後に淹れたインスタントコーヒーは、喫茶店で飲むマンデリンのフレンチローストよりもおいしい味がした。

チェックアウトは10時半である。テントを撤収する前に、最後にもう一度、川の冷たさを味わう。それから恒例の水切り。川に来ると必ずやっているのだが、いっこうにうまくならない。水切りの上手な男になりたい。

テントを畳み、受付でレンタル用品を返してキャンプ場を出てもまだ10時前である。いつの間にか空は晴れ、真夏日を予告する日射しが静かな町に降り注ぐ。僕等は奥多摩駅にもどり、電車が発車するまでのあいだ、近くの商店で土産を物色する。

 

f:id:umiya22:20180807095159j:plain

 

少ない乗客を乗せて、電車はゆっくり動き出す。まだ10時過ぎ。水曜の夕方になるときまって鬱になるKも、まだ快活だ。夏の朝は全能感に満ちている。

どこか寄って行こうか。この前話した羽村の樹樹でも行く? 福生でも寄ってく? 実現しなくてもいい。可能性があるということがうれしいのだ。これからどこでも行けるし、何でもできる、ということが。

けっきょく、僕等は河辺駅で降り、梅の湯に行く。平日の朝に温泉に浸かることの贅沢さを存分に味わいながら、この後の予定を立てる。

「髪切ってやろうか」

とKが言う。その後、いったん家に帰り、洗濯や片付けを済ませる。夕方、Kがやってきて、髪を切ってくれる。

Kと別れてから、近所の川沿いを歩く。頭ってこんなに軽いものだったのか、と驚く。夏なんだな、と思うと同時に、これで面接もだいじょうぶだな、とぼんやり考える。

煙草に火をつけながら、初めてのキャンプに思いを馳せる。幸福感と、寂しさがやってくる。なんと夏を満喫した二日間だったのだろう。来年からは、こんなふうにKと泊まりで遊ぶこともなくなるのだろうか。

コンビニ裏の薄汚れた喫煙スペースに、油蝉のじっとりした声が届く。隣町の電波塔が刺さった空は曖昧に焼け、曖昧に日が沈んでゆく。

二本目の煙草に火をつけ、スマホを見る。自然と溜息がこぼれる。半ばまで吸った煙草を灰皿に落とし、僕は家路につく。

巨人は今日も負けていた。

 

 

f:id:umiya22:20180807102110p:plain

 

4月に読んだ本

 

ふだん、読んだ本の感想は読書メーターに書いているのだけど、修士2年になると就活やら修論やらで忙しくて、という口実で、ぜんぜん書いていなかった。読んでそれきりになっていた。

ぼくはインプットが過剰になると言葉が出てこなくなる。だれかと話していても、「あの、ほらなんだっけ、あれあれ……」とおっさんみたいになるのだ。キャパオーバーということなのか、記憶にも定着しなくなる。そろそろアウトプットが必要だ。

 

というわけで、さらっと振り返る。まずは4月に読んだ本。

 

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

 

 

95年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件を受けて書かれた本。後者の比重が重いです。オウム真理教の解析、分析から時代の必然的推移を炙り出す。「大きな物語」以後という問題は、感覚的にはまだ解決されていないような気がします。……キリスト教の話が出てきた後半部からだんだん複雑になり、理解が怪しくなった。時代の転換点だったという連合赤軍の事件に関しては、たしか桐野夏生が小説で書いていたと思うので読んでみたい。本筋とは逸れるけど、オウム真理教のディテールが明らかになればなるほど、「『新興宗教オモイデ教』やん……」ってなった。あの小説はLeafの『雫』に着想した、というのをどっかで読んだけど、大槻ケンヂがレパートリーを加えたのか、そもそも『雫』の時点で意識されていたのか。 ←確認したら、新興宗教オモイデ教』が『雫』に着想を得たのではなく、『雫』が『新興宗教オモイデ教』からインスパイアされていた。まるっきり逆。危ないところだった。そして、『新興宗教オモイデ教』は『月刊カドカワ』に91年2月号から連載、92年には単行本が出ているので、地下鉄サリン事件よりも前に書かれていることになる。ちなみに『雫』は96年の発売。

新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

 

表紙が丸尾末広という豪華さ。

 

潮風に流れる歌

潮風に流れる歌

 

 

たぶん、高校生のときに買って、本棚で寝かせていた (なんか熟成されそう) 本。表紙に江ノ島が描かれているように湘南、江ノ電沿線が舞台の小説で、同じクラスに属する高校生たちがそれぞれ語り手を担当する連作短編。物語の核としてはクラスの裏サイトの存在があって、そこでは日々匿名でクラスメイトの噂や誹謗中傷が書きこまれ、ターゲットにされた者は翌朝から無視されるようになる。書きこむ側と書きこまれる側双方の語り手がいることで一元的な見方に収まっていないのはよかったけど、ヒロインが相変わらず「守るべき存在」みたいに描かれていたのは気になった。説明が不十分でご都合的展開に思えてしまったところもある。……しかし、学校の裏サイトってまだ運営されているのだろうか。今こうした小説が書かれるとしたら、LINEになるのかなあ。

 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

 

 

どうでもいいけど、電脳空間 (サイバースペース) に没入 (ジャック・イン) すると聞くとどうしてもロックマンを思い浮かべる。あれ、サイバーパンクだったのか……。

読んでいて、目の前がチカチカした。狂想曲、という形容がしっくりくる。主人公のケイスはドラッグをキメているか電脳空間に没入しているかで、後者の場合でも陶酔状態なので、どっちみちキマってる。しかも展開が早い、目まぐるしい。というわけでぼくの想像力ではついていけなかった。ディックの『ユービック』を読んだときもこんな感じだったけど、あれはいま依っている地平が崩れていく感覚、いわゆるディック感覚によって理解が確定しないがゆえの感触だったのに対して、今回はもう単純に、スピード感に置いてけぼりにされただけな気がする。

 

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

 

 

そういう読書のあとは、好きな作家の安心できる本を読みたくなる。というわけで『とにかくうちに帰ります』。津村さんの作品を読んでいてしみじみいいなあと思うのは、ほんとにそこらへんにいそうな (というか、いる!) ひとたちが描かれているところ。べつに悪いとまでは言えなくとも、苛々させられるひと、腹立つひとっていますよね。しかもこの場合たちが悪いのは、「こんな些細なことで腹を立てている自分が悪いのではないか……」と思わせられる点。津村作品の人物も悶々と悩みます。でも最終的に、「いやいや、やっぱあのひといまいちやって!」と腹を立ててくれる。この、最終的にちゃんと腹を立ててくれるところが好き。ぼくもよく同じような悩みにとらわれるので、安心する。悩みに悩み、「やっぱ私は腹を立てていい!」とようやく結論が出たときには相手はもういなくなっている、というのもあるあるで、こうした日常茶飯事がフツーに書けてしまう津村さんはすごいなあ、と思う。あと、あくまで「腹を立てる」だけであって、そこに他者への攻撃性がないのもいい。

……と、津村作品への思いを語っていたら肝心の小説の中身について何一つ具体的なことを書いていなかった。けどまあ、満足したからいいや。表題作では、そうしたいまいちさも残しつつ、その場その場で与えられるフツーのやさしさ (と言える世の中であればいいなあ) も描かれていて、降りしきる大雨の冷たさとはぎゃくに、あたたかさも感じました。自室のぬくもりが恋しくなる話。

 

湖底のまつり (創元推理文庫)

湖底のまつり (創元推理文庫)

 

 

同僚から性的暴行を受け、会社を辞めて旅に出た女性が、訪れた山間の村で洪水に巻き込まれ、危ないところを地元の青年に助けられる。翌朝、彼女が村の人間に自分を助けた男について尋ねると、彼はひと月前に毒殺されていて……。なんといっても、男女の邂逅を描くのがうまい。この場合、作家は細心の注意を払って二人の出会い、ともにした一夜を書かなければいけない。もしこれが凡百の出会い、セックスシーンだったならば、読者は嫌悪感に本を閉じたはず。にもかかわらず、まったくいやな感じがしないばかりか、かえって魅力的に、まさに一夜限りの特別な邂逅を情感たっぷりに、且つ洒脱に描いてみせる。しかも、このときの描写が後の展開に不可欠であり、だからこそこの一夜が特別なものになっている。

文庫の表紙もよくて、冴え冴えと冷たい霧に包まれた幻想的な緑はこの小説にぴったりだと思う。(緑で連想したが、泡坂妻夫には「赤の追想」という短編があって、ぼくはこちらもかなり好き。男女のミステリアスな邂逅という点で、『湖底のまつり』と通ずる空気感がある。『煙の殺意』所収)

ひさびさに読んだけど、やっぱり泡坂妻夫はいいなあ、と思った。

意図したわけではないんですが、ぼくの感想にはミスリードがあるかも。まあ、泡坂作品にふさわしい感想の書き方ということでお見逃しください。

 

 

以上、4月に読んだ本。いくら余裕がなかったとはいえ、大学院生として5冊しか読めてないのはやばい。

5月に読んだ本の感想も書く予定ですが、4月よりじゃっかん冊数があるし、自然と文字量が膨らんでしまうであろう大好きな2冊があるので、投稿できるのはしばらく先になりそうな気がする。とりあえず、来週の発表がんばらねば……。(就活もな!)

 

 

 

そうだ 鎖場、行こう。【岩殿山登山】

 

「最近、体調どう?」

「うーん……。前に比べたらマシにはなってきてるけど、万全ではないなあ……」

「そっか」

「うん。だからさ、……崖、行かない?」

 

16May2018 (Wed.) 

f:id:umiya22:20180521092515p:plain

というわけで、JR中央本線大月駅にやってきた。iPhoneの天気予報は今日が真夏日であることを伝え、僕等は駅の自販機で飲物を買い足した。

静かな朝の路地を抜け、線路を渡って少し行くと、桂川に架かる橋に出る。

f:id:umiya22:20180521093817p:plain

渡った先に、これから登る岩殿山が見えた。僕は2年ぶり、川井は初めての対面だ。

坂を登り、「岩殿城跡入口」と刻まれた道標のある場所から登山道に入る。

岩殿山は秀麗富嶽十二景の一つに数えられる山なので、このとおり、

f:id:umiya22:20180521094500p:plain

登山道から富士山が見える。ガスってて、ちょっと薄いけど。

f:id:umiya22:20180521095230p:plain

どうせなら富士に向けて設置すればよかったんじゃ? と思わないでもないけど、夏休みの部活を終えた後、棒アイスを食べたい感じのノスタルジックなベンチ。

f:id:umiya22:20180521095552p:plain

山頂にはあっという間についた。登り始めてから1時間もかからなかった。上の写真は山頂ではなくその手前の展望台から撮ったもの。ここから歩いて10分ほどで山頂に行けるのだけど、こちらは展望がなかったので割愛。

大月駅を出発したのが10時で、山頂に着いたのがだいたい11時過ぎ。普通の登山ならば山頂に着いた後は下るだけですが、今回の山行はここからが本番。

f:id:umiya22:20180522083635p:plain

稚児落しに行くのです。

f:id:umiya22:20180522084448p:plain

バリエーションルートに入った途端、本気を出してくる岩殿山

徐々に上がっていくテンション。

f:id:umiya22:20180522084659p:plain

f:id:umiya22:20180522090253j:plain

スニーカーできてしまったことを後悔する川井 (登山靴を用意していたのに忘れてしまったらしい)。写真では伝わりづらいですが、写真右側は深い谷となっていて、足を滑らせたら命に関わります。

f:id:umiya22:20180522090728p:plain

さっきの場所を渡りきったところにあるのが最大の難関。一見地味な鎖場だけど、1箇所、足場を見つけにくい場所があって、慣れてないと怖い。僕は2度目だったので案外あっさり行けたけど、川井はけっこう戸惑っていた。見た目にはもっと派手な鎖場のある乾徳山や伊豆ヶ岳にいっしょに登ったときはここまで苦戦していなかったので、いかに岩殿山の鎖場が手強いかが判る。

f:id:umiya22:20180522091209j:plain

生命力の昂進を感じるぜ……

 

f:id:umiya22:20180522092056j:plain

無事登りきり、ほっと一息。

f:id:umiya22:20180522092308p:plain

新緑の季節がいちばん好きです。

f:id:umiya22:20180522092744p:plain

f:id:umiya22:20180522093109p:plain

ついにきました、稚児落し。ここからは岩肌の上を歩くことになります。写真奥の隆起したところまで行くわけです。

f:id:umiya22:20180522093401p:plain

f:id:umiya22:20180522093708p:plain

やってきました。すげえスペクタクル。

岩肌の上を歩くといっても道幅が極端に狭いわけでもないし、そんなに怖さもないんだけど、

f:id:umiya22:20180522093832p:plain

ほかの登山客が歩いてるのを見ると血の気が引きます。自分で歩くよりよっぽど怖い。(写真中央にひとの姿)

さて、時間も時間だし、せっかく眺めが良いのでここでランチタイム。

f:id:umiya22:20180522094503p:plain

1、乾燥キャベツを水でもどす。

f:id:umiya22:20180522224953j:plain

2、1に麺を入れ、茹でる。

f:id:umiya22:20180522095121p:plain

3、水分を飛ばした後、市販のソースと具を入れる。

f:id:umiya22:20180522095306p:plain

4、ペペロンチーノが完成する。

f:id:umiya22:20180522095439p:plain

5、食す。

パスタを山で作るという発想がなかったので新鮮だった。しかもめちゃめちゃうまい。パスタだったらラーメンと違っていろんな味付けがあるし、季節によっては具材もアレンジできる。夢が膨らむなあ。。。(何より、慢性的な体調不良でカップ麺が食べられなくなった僕としては、マジでありがたい)

f:id:umiya22:20180522101605j:plain

川井シェフ、ほんとありがとう。ごちそうさまでした。

幸せな山ごはんを食べて少し休んだら、後は下山だけ。軽くなった荷物がうれしい。

そして例によって、下山中の写真がほとんど無かった。たぶん、ここまでに散々スケールの大きい景色を見たので、取り立てて撮ろうという気が起こらなかったのだと思う。後は単純に疲れ。まあ、下りはカメラ持てる瞬間も限られてるし……

f:id:umiya22:20180522102613p:plain

登山道が終わって駅に向かう途中に見つけた石碑。二十三夜って何だろうと思って調べてみたら、旧暦の二十三日の夜に村の者同士で集まって月を待つ文化があったらしい。二十三夜は、とくに女性同士が集まることが多かったとか。いいなあ、そういうの。

f:id:umiya22:20180522102859p:plain

5時間ぶりの大月駅。登ったばかりの山を見ると、いつもふしぎな気持ちになる。さっきまで、自分はあの場所に立っていたのだ。こんなちっぽけな自分が、あんな山の頂に。

そういえば、某企業のESに「写真であなたを表現してください」という欄があって、僕は2年前、槍ヶ岳に登ったときの写真を選んだ。欄には写真のほかに簡単な言葉を書く欄もあって、僕はそこに、このとき大月駅のホームで思っていたのと同じようなことを書いた。恥ずかしいから詳しくは書かないが、まあ、日進月歩とかそういう感じのことだ。ただ、僕の場合はいつも暗中模索で、しかも一歩の歩幅が小さい。

「いやあ、間に合ってよかったね」

アナウンスが響き、14時47分発の高尾行電車が滑りこんでくる。

僕は最後にもういちど荒々しく露出した岩肌を見上げ、席を確保するべく、川井の後について電車に乗りこんだ。ボックスが埋まっていたので、肩を並べて目をつぶる。

軍手を忘れた手のひらに、まだ鎖の感触が残っていた。

 

 

川の畔で寝転んで、東京の空を仰ぐ

 

夕さり時、仕事終わりの川井と待ち合わせて、ぼくらは多摩川をめざした。

 

f:id:umiya22:20180430230405j:plain

 

河川敷はテントが一張りあるだけで、静かで、暗かった。

ぼくらは川のそばにシートを広げ、腰を下ろした。

 

f:id:umiya22:20180430230931j:plain

 

f:id:umiya22:20180430231156j:plain

 

たんまり買い込んだ食材は、あっさり食べ尽くしてしまった。

川の畔で食べる寄せ鍋は、想像を絶するうまさだった。

 

f:id:umiya22:20180430231512j:plain

 

食後、いつもはコーヒーだけど、今回は擬似キャンプということで、ココアを作ってみた。懐中電灯に虫が集まってくるので灯を消して作った。ところどころだまになっていたのは、ご愛敬。

 

f:id:umiya22:20180430232212j:plain

 

シートに寝転んで仰向けになると、月影に照らされた東京の灰色の空が見えた。星なんか一つも見えなかった。穏やかな風が新緑の梢を揺らし、頬を撫でていった。最初いたテントはとっくに撤収し、河川敷には見渡す限りだれもいなかった。懐中電灯を消すと、何も見えなくなった。人声も走行音も、何も聞こえなかった。時おり魚の跳ねる音だけが響き、静寂をいっそう深くした。

 

f:id:umiya22:20180430232926j:plain

 

青春だ、と思った。ぼくらはいま、青春をしている。

片づけを終えると、少し長い散歩をして、それぞれの日常に戻った。

GWの街はひっそりとしていて、家に帰り着くまでのあいだ、ほとんどひとの姿を見なかった。自分でもその意味がよくわからないまま、青春だ、青春だと心の中で思いながら、できるだけゆっくりペダルを漕いだ。ぼくは二十五歳になろうとしていた。

 

 

 

雑記

 

きょうは7時半に起床。夜更かしが祟ってか、体調悪し。余っていただしで雑炊を作り、梅干しを入れてたべる。読みかけの『ニューロマンサー』を読む気にならなくて、本棚でねむっていた関口尚『潮風に流れる歌』を読む。11時頃読了。中高生の頃はすなおに楽しめた物語も、いま読むと「けっきょくアンチミソジニストじゃねぇか」*1とか思ってしまうのでつらい。けど、楽しめたっちゃ楽しめた。やっぱ、こういうやる気がないときは読みやすい本を読むに限る。昨夜もニューロマンサーほっぽり出して、福田栄一ばかり読んでいた。福田栄一はぼくが高校二年生のときにはまった作家で、まさにアンチミソジニスト、たぶんフェミニストが読んだら一笑に付されそうな作風ではあるのだけど、やっぱりぼくは好きだ。『あかね雲の夏』、何回読み返していることか。

12時に家を出る。電車の中で気持ち悪くなり、途中で引き返そうかと思ったが、さすがに今季は語学の単位とらないとやばいし、ということで大学へ。3、5限をこなし、真っ先にスロープを下る。最寄り駅に帰ってきたのは19時頃だった。少し迷ってから、坂道を下りる。年度が替わるのを待って最寄りのファミマが喫煙所を撤去してしまったため、煙草を吸おうと思ったら坂下のコンビニに行かなくてはならない。

ファミマの喫煙所が撤去されてしまったことは何気に大きな痛手だった。その喫煙所は、

↑ の記事でも書いたように、ぼくにとってはいちばん身近で、少し特別な喫煙所だったのだが、自治体の条例が変更されるのに伴ってなくなってしまった。煙草一本吸うのにわざわざ坂下のコンビニまで歩いて行かなくてはいけなくなっただけでなく、ぼくにとってはこの喫煙所は眺めもよし、誘蛾灯よろしく喫煙者がどこからともなく集まってくる感じもよし、なによりこの場所で煙草を吸いながらいろいろなアイディアをメモしたり黄昏れたりしたなじみ深い場所だったので、なくなったのはショックだった。

坂を下り、長い信号を待ってからコンビニの喫煙所に向かう。きのう買ったばかりのアークロイヤルに火をつけ、鞄から津村記久子『とにかくうちに帰ります』を取り出して読む。

会社で働いたこともないのに、ついくすりと笑ってしまう。津村さんはほんとうに、会社における微妙な人間関係、ひとのちょっとしためんどくささを書くのがうまい。そして、面倒なやつであっても憎めないところが、いいひとそうであっても厄介なところが、書いてあって安心する。いま書いていて思ったけど、「わるいひとではないんだけど……」という人物の描写が一級品だ。だから身につまされる。決してわるいひとじゃなくとも、悪気ない言動がまわりにストレスを与えていることは多々ある、ということを。

わずか十分にも満たない喫煙時間だが、好きな作家の本を読みながら好きな煙草を吸う時間は至福だった。というか、きょう一日でいちばんほっとした時間だったかもしれない。それもどうなのって感じだが、こういう時間があるのとないのではその日の感触がまるでちがう。身近な喫煙所はなくなってしまったが、これからもこういう時間を持てたら、と思う。

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

 

 

最近よく聞いているトリプルファイヤーの話もしたかったのだけど、書き損なった。いずれ書きたい。


トリプルファイヤー「カモン/次やったら殴る/スキルアップ/おばあちゃん」@渋谷QUATTROワンマン

 

*1:もっとも、全編通して読んだときにその批判が当てはまるかどうかは微妙なところ。最初の話に対してはそう思ったけど、後の話でそこのところをカバーしてるかもしれない。

僕たちはどう生きるんだろうね

 

テレビをつけたらヒカキンが映っていた。

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、「新しい仕事」をテーマにした回だった。なんとなく見ているうち、東浩紀の小説を思い出した。たしか『新潮』か何かに発表されていた掌篇だが (調べてみたら『文藝』2014年8月号だった。作品名は「時よ止まれ」)、YouTuberが活動を突き詰めていった結果、最終的には自分の生活を24時間 (排泄や入浴も含む) 生放送するようになるという話*1で、当時はずいぶん極端な話を書くなあと思ったのだけど、思い返してみて、さすが東浩紀は先見の明があったのだなと思った。

というのは、YouTuberという仕事は、自分の生活やプライベートを売り物にしているんだなあと思ったから。毎日動画投稿を続けていると、どんなに発想豊かなひとでもネタが無くなってくる。そうなると、自分をコンテンツ化するしかなくなる。

東浩紀の掌篇を連想したのにはもう一つ理由があった。ヒカキンさんの次はプロゲーマーのウメハラさんが取り上げられていたのだが、YouTuberやプロゲーマーが仕事としてありえている背景には、世界が豊かになった、もしくはかなり効率化されてきたことがあるのではないか、と感じたのだ。

効率化され、豊かになったから余剰生産物が生まれる。YouTuberやプロゲーマーに象徴される「新しい仕事」は、まさしくこれではないだろうか。つまり、個人が動画を投稿すること自体は何も生み出さない。ゲームをきわめたところで何にもならない。けれど、それがお金になる。職業になる。

これはべつにYouTuberやプロゲーマーを貶めようというわけではないのだが、ちょっと前までの価値観なら「新しい仕事」であるこれらは「意義のない」ことに分類されていたと思う。つまり、それをしたからといって何かが生産されるわけではない。これはみんながみんな「意義のある仕事」(わかりやすいのでは農作とか公務員とか……) をしなくとも世界が (国が?) 回るようになったということで、だからその余剰分としてこういった仕事が生まれてきたのではないか。そのうちAIがほとんどの仕事を人間の代わりに担うといわれている時代だし、この先人間の仕事というのはむしろこういった余剰分、ちょっとしたエンタメ、いっときの暇つぶしに向かうのかもしれない。(僕もまさにいっときの暇つぶしでゲーム実況を見る)*2

かなり乱暴な考え方だというのはわかっている。「意義のある/ない仕事」という前提からして曖昧だし、そんな話を始めたら「じゃあスポーツ選手はどうなんだ」「小説家は?」「YouTuberやプロゲーマーも観客を沸かせる、受け手に感興を催すという点ではほかと変わらないじゃないか」という問題にまで広がって、収拾がつかなくなるから。

だからここでは普遍的な認識としてではなく、あくまで個人的な判断として話を進める。自分でもかなり意外だったのだが、どうやら僕はちょっと前までの「意義のある」仕事という価値観にこだわっているらしい。

1、2年前まで働くのいやだなあ、YouTuberになりてぇなあが口癖だったはずなのに、いざ考え出してみると、何よりも自分は「意義のある」仕事がしたい、と思っていることに気づいたのだ。仮にYouTuberとして暮らして行けたとしても、自分で意義がないと思ってしまうことをずっと仕事にするのでは精神が持たない、と思う。(あとヒカキンさん見てたらふつうにYouTuberたいへんそうやなと思った。たぶん実務的にも楽な仕事ではない)

「仕事の流儀」で興味深かったのはヒカキンさんもウメハラさんも同じことを言っていた点で、それは「自分にしかできないことをやりたい」という願望だった。ふたりともいまの仕事を始めるまではふつうに就職して働いていたようなのだが、その仕事を意義のある仕事だと感じつつも、「自分でなくともできるよなこれ……」と思ってしまうのがつらかったらしい。だから彼らはいまの仕事を選んだ。たしかに、ふたりともその分野で唯一無二の存在になっている。

僕も、自分にしかできない仕事をしたいと思う。でも冷静に考えて、自分にしかできない仕事をできるのはごく一部の人間だけだと思うので、そこまでは求めないから、せめて自分の興味、スキルを生かした職に就きたい。そして、自分が「意義がある」と思えることを仕事にしたい。

 

……とまあ、こんな当たり前の結論に至った夜だったのだが、肝心の中身、じゃあその条件を満たす具体的な仕事は? と聞かれると、まだはっきりしないんだよなあ……。

 

 

ま、悩んでてもどうしようもないんでES書きますが。(既にきつい)

 

*1:読んだの四年近く前だからほとんど印象しか残っていないのだけど、もしかしたらYouTuberと明記はされていなかったかもしれない。今度確認します。

*2:幕末志士が好き。

僕は青春ミステリが嫌いなのかもしれない

 

大学に入学したてのわずかなあいだ、ミステリクラブに所属していた。ほかの文芸サークルとの掛け持ちで、半年も経たずにやめてしまってからは、ミステリから遠ざかり、専ら「純文学」と呼ばれる小説ばかり読んでいた。

ミステリから遠ざかったのは恩田陸のせいだ。その頃、『麦の海に沈む果実』という小説を読んだ。大湿原を見下ろす丘の上に立てられた旧修道院の学校が舞台で、常に灰色の空に覆われた閉鎖的な環境、おまけに学校は特殊な技能に長けた生徒ばかりが集められた場所で、連れてこられた主人公の女の子は、記憶を喪っている——。文庫にして約五百頁の厚みのある本だが、『エコール』を思わせるような舞台設定、謎めいた登場人物、次々起こる事件の謎に、僕は夢中になって頁を捲った。

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

 

 

だけど、読み終えたときに残ったのは虚無だった。素晴らしい小説は読み終えたあとしばらく何も出来なくなるが、そういった種類の虚無感ではなく、自分が物語に裏切られたことに対する空しさだった。

ミステリは読者を騙すものだ。叙述トリックに限らなくとも、そこには隠された真実があり、意表を突いたトリックがある。自分の推理が当たっていたときの快感も大きいが、見事に騙された、してやられた快感もまた格別だ。むしろ驚きの少ないミステリは刺激が足りない。

けれども、『麦の海に沈む果実』は別の意味で僕を裏切った。今まで読んできた物語はなんだったのかと言いたくなるような、登場人物たちの思いはどうなるんだ、彼等は記号でしかないのかと怒りたくなるような結末で、事実、僕はそれ以来、ミステリを読むのをやめた。ミステリの倫理観について疑いを持つようになっていた。

そもそも、ミステリとは多くの場合殺人事件を描くものなのだから、そこに倫理観を持ち出すことは間違いである。僕も重々承知している。しかし、ただ殺されるために、騙されるために人物を配置し、読者を驚かせるために物語を描くことに対して、僕はどうしても割り切って考えることが出来なかった。

『麦の海に沈む果実』*1は、良くも悪くも僕に大きな打撃を与えた。あの小説の世界観は今でもたまらなく好きだ。読み進めていたときのわくわく感は忘れられない。それだけにいっそう、僕は傷を負い、ミステリから離れようと思った。

 

去年、僕の中でひそかなSFブームが起こった。そもそも僕はウエルベックが大好きな人間だし、それ以前にもディックや伊藤計劃を読んでSFの可能性、とりわけ哲学との相性の良さに目を見はった経験はあったのだが、去年はブラッドベリやハクスリーを読んでますますその確信が深まり、年の変わる直前に小川哲を読んだことが決め手となった。2018年は青背をいっぱい読もう、と思った。

同時に、そろそろまたミステリを読もうかな、とも思うようになった。かつて在籍したミステリクラブにもSF部門があったように、ミステリとSFの親和性は高い。去年の終盤にクイーンや有栖川有栖を読んだこともあった。クイーンの小説にはテクストであるからこそ可能である伏線の張られ方がなされていて、初めて意識的にミステリの可能性を感じた。仮にもミステリクラブに籍を置いていたのだから、今更そんな発見をするのもどうかとは思うけれど。

それから、またぼちぼちミステリを読むようになった。『毒入りチョコレート事件』はまさにミステリならでは、エンタメのための殺人、謎解きのための殺人が用意されていたが、今まで出会ったことのない多重解決型の筋にこんなやり方もあるのかと素直に感心した。『バイバイ、エンジェル』では初めてミステリに明確な問題意識を見た。確かにこのテーマはミステリで書かれるべきだと思い、これならミステリの存在意義を疑わないでいられる、と脱帽した。最近読んだなかでは『虚無への供物』に熱中した。これは紛う事なきめくるめく謎の世界、暗合に満ちた魅惑の世界でありながら、明確な問題意識もあった。僕のお気に入りの小説がまた一つ、増えた。

そして、今日。僕はまた一冊のミステリを読み終えた。ネタバレになるので作品名は伏せるが、少し前に大ヒットしたミステリで、僕の記憶によれば、その時期のミステリランキングの多くに座を占めていたのではないかと思う。読み始めるなり、僕はまたも熱中した。青春ミステリだった。事件の中で男と女が出会い、恋に落ちる。主人公の恋愛模様と同時に物語は進行していく。

青春ミステリを少しでも読んだことのある方なら察しがつくと思うが、そこで魅力たっぷりに描かれるヒロインは往々にして黒幕である。黒幕ではなくとも、なんらかの形で事件に関わっていることが多い。主人公は事件の謎を解くとともにその事実に気づき、じゃっかんの甘さと苦い感触を残して物語は幕を閉じる。

中高生のときに青春ミステリを読みあさっていた僕もそんなことは百も承知だったが、にもかかわらず、今回も手痛い打撃を喰ってしまった。僕が読んでいた小説は、叙述トリックだったのだ。

事件の真相を追っていく中で、徐々にヒロインの影が浮かんでくるのはいい。結果、彼女が黒幕で、苦さとともに終わっても構わない。けれども、叙述トリックは駄目なのだ。駄目というか、僕は好きじゃない。なぜなら、叙述トリックの目的は読者を騙すことにあって、物語に要請されたものではないからだ。物語に、読者を騙してやろうという、もちろんこれは作者によるサービス精神なのだが、メタ的な狙いが差し込まれる、というか、これが主眼である。僕はこれがどうにも我慢ならないのだった。

もちろん、叙述トリック自体を否定したいのではない。正直に言って好きではないが、それでも一つの技法だし、ときにそれが読者に大きな驚きを、すなわち快感をもたらすこともある。けれども、青春小説で用いられる叙述トリックは、読者に青春小説としての楽しさを感じさせておいて、それを終盤で一気に覆す、その振り幅の大きさを利用したテクニックで、物語のための技法というより、技法のための物語になってしまっていると感じずにいられない。倫理的にも、僕は好きじゃない。*2

なぜか? たとえば、『毒入りチョコレート事件』のようなミステリのための事件、殺人なら、最初からそういうものとして楽しめる。さすがにそこに倫理の物差しを持ってこようとは思わない。けれど、それが途中まで青春小説のような顔をして書かれていた場合、急なメタ的介入に、今までに読んできた物語は何だったんだと言いたくなる。僕が感情移入していたのは、ただの記号だったのか?

もちろん記号である。そもそも小説は文字という記号で書かれているのだから、登場人物どころか、そこに書かれたすべてが記号でしかありえない。けれども僕たちはそこに自分を投影する。記号であると知りながら情景を浮かべ、テクストの世界に入り込んでいく。急なミステリ的反転、「だってこれはミステリだもん」という開き直り*3は、さながら夢が醒めるような、それも強引に引っ張り上げられるような感覚である。これはリアリティのある世界なのか、それともミステリ的世界なのか? どっちかにしてくれと言いたくなるのは僕だけなんだろうか。

 

やりきれなくなって、本を閉じたあと、そういう悪い意味での裏切りがない青春ミステリを探した。思い浮かんだのは、樋口有介の『ぼくと、ぼくらの夏』と有栖川有栖『月光ゲーム』だった。米澤穂信古典部シリーズなんかも当てはまるかもしれないが、少々インパクトが弱い。*4

『ぼくと、ぼくらの夏』はすごく好きだし、書いてきたような悪い意味での騙し討ちはないが、途中からヒロインがフェードアウトして、最後まで登場しなくなるのが玉に瑕。『月光ゲーム』は決して苦くないとは言えない小説だが、先ほども書いたように、べつに苦かろうと、急な価値観の変転、レイヤーの変位さえなければ僕的にはOKなので、まあ今のところだとこれが青春ミステリ筆頭になるのかな。

と、考えてみると、僕はこれまで好きこのんで青春ミステリを読んできたにもかかわらず、多くのケースにおいて手痛い目に遭ってきたきたことがわかる。ミステリにおいて主人公が好意を抱いた人物、主人公に好意を抱いた人物が何らかのかたちで事件に関与している、というのはおそらく一つの定型なので、まあそこはしゃーなし、それでもおもしろい作品はたくさんあるのだからそこにケチをつけるのは間違っているにしても、一度でいいから、思いっきり爽やかな青春ミステリ、ヒロインは事件にまったく関与しておらず、だが恋愛模様と事件の進行が絶妙に絡み、最後は手と手を取り合っていけるような作品を読んでみたいなあ、というのは、あまりに大衆的な考え方だろうか?

 

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

 
月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

 

 

*1:それでも、僕の本棚にはこの本が置いてある。

*2:散々「倫理」と連発しているが、そもそも小説は倫理的なものじゃない。たぶん、僕が引っ掛かっているのは物語としての倫理なんだと思う。

*3:ただいちど、この開き直りに安堵したことがある。「ああ、だってこれはミステリだもんな」と。それはクリスティのある小説を読んだときのことだった。

*4:なんて書いちゃってるが、僕の青春は米澤穂信杉井光で出来ていた。にもかかわらずほとんど読まなくなってしまったのは、嗜好が変わったのと、たぶん『氷菓』アニメ化のせい。