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これからのこと

ふがいない院生は空を見た

黒澤明『羅生門』——「視線」をめぐる考察

 

卒論でテクスト表現との相違について書くにあたり、ここのところ僕にしては珍しく映画を観ていた。というわけで黒澤明羅生門』について書きたいと思う。

 

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羅生門』は芥川龍之介羅生門」と「藪の中」を組み合わせて撮られた映画だ。冒頭、カメラは羅生門に据えられている。降りしきる雨の中、門の下で休む三人の男。下人と杣売りと旅法師。皆ぼろぼろの恰好で、下人は羅生門から板をはぎ取り、それで火をおこし始める。その男から少し離れた場所で、ぼうぜんと座り込む二人。その様子を不審に思った下人がどうしたのかと訊ねると、杣売りの男がたったいま、自分が見聞きしてきたことについて語り出す。……

 

先に書いたように『羅生門』は「羅生門」と「藪の中」を組み合わせた映画だが、どちらがより原作にふさわしいかといえばそれは後者だろう。杣売りの男が語る内容はそのまま「藪の中」だ。男が山中を歩いていると、散乱した荷物、そしてその奥に侍が死んでいるのを見つける。彼が検非違使に発見時の証言をすると、侍が妻と旅しているところを見たと旅法師も証言した。彼らが証言した後、すぐに犯人が見つかる。侍を殺したのは盗賊・多襄丸だった。高らかに笑いながら、捕縛された多襄丸は語り出す。俺はあの女がほしくなって、侍を罠にかけた。最初は殺すつもりはなかったが、激しい乱闘の末、やっとのこと気の強い女をものにすると、女がしがみついてきて言った。「自分は二人の男に従うことはできない。果たし合いをして、生き残ったほうに従う」そこで俺は侍の縄を解き、正々堂々と戦った。一瞬たりとも気の抜けない剣戟の末、俺が勝ち、侍は死んだ。でも振り返ると、女は既に姿を消していた。……

 

この証言の後しばらくして、生き残った妻が召喚される。多襄丸があれほど気の強い女は見たことがないと言っていたのとは裏腹に、彼女はしなしなと泣き濡れながら、事の顛末について語り出す。多襄丸は自分を手篭めにした後、夫を殺さずに縄をほどいた。しかし解放された夫は自分を軽蔑した目で見つめ、口をきこうとしない。自分はそんな目で見ないでくれ、そんな目で見られるくらいなら死んだほうがましだ、いっそのこと殺してくれと懇願したが、夫は応えない。つらさのあまりいつの間にか意識を失い、目覚めたら夫が死んでいた。自分も後を追おうとしたが、できなかった。……

 

次に巫女が呼ばれる。巫女は自分のからだに死んだ侍の魂を呼び起こし、その口から怒りにおののく侍の言葉を語り始める。手篭めにされた妻は多襄丸に情を移し、俺を殺してくれと頼んだ。その言葉を聞いた多襄丸は激怒し、俺に妻を生かすか殺すか決めていいと言う。それを聞いた妻は逃亡し、多襄丸も姿を消した。一人残された俺は、無念のあまり自殺したのだ。……

 

しかし杣売りの男は皆が嘘をついていると言う。本当は、自分は草葉の蔭から見ていたのだ。女を手篭めにした後、多襄丸は自分の妻になってくれと土下座した。女はそれには応ぜず、夫の縄を解く。しかし夫が自分を軽蔑した目で見るのに激昂し、男たちを焚きつけて決闘させた。二人はへっぴり腰で何度も転びながらほうほうの体で戦い、結果、多襄丸が相手に太刀を突き刺すことに成功する。だがその隙に、女は二人の前から逃げ出していたのだった。……

 

ここまで書いてきてまず気づくのは、「藪の中」においては謎のままに終わった真相が、この『羅生門』においては杣売りの男によって一つの解答編として示されているということだ。この点で、『羅生門』は厳密にはリドル・ストーリーではないのかもしれない。結局、多襄丸も女も侍も皆嘘をついていたわけだが、その嘘がもれなく自尊心に結びついているのがおもしろい。皆、惨めな自分というものに耐えられないんだね。侍なんか死霊となってからも嘘をついているわけで、ここでは死=達観といった仏教的価値観は通用しない。死んでもなお、人は惨めな自分に耐えられないのだ。

映画では語り手ごとに異なる内容がことごとく映像化されるわけだが、多襄丸編と解答編の違いようがひたすら滑稽でおもしろい。多襄丸編では寸分の油断も許さない堂々たる剣戟が繰り広げられていたのに対し、杣売りの男が語る解答編では二人は腰が引けていて、一方が逃げればおそるおそる追い、一方がおそるおそる迫ればぶるぶると後ずさる。刀を持つ手は常に震えていて、何度も転び泥だらけになりながら、最後は転んで身動きのできなくなった侍に、はあはあ言いながら多襄丸が太刀を突き刺す。この対比。

 

あと特筆すべきは妻役の京マチ子の妖艶さだろう。この作品は三船敏郎の多襄丸も森雅之の侍も本間文子の巫女も総じて素晴らしいのだが、この京マチ子、とりわけ多襄丸編における彼女の妖艶さが際立っている。最初、彼女の顔は襞つきの帽子に隠されて見えない。だから侍と一頭の馬、その馬に跨がった女がやってくるのを見ても多襄丸は何とも思わない。けれど一陣の風が吹いて、襞の隙間からちらと女の顔がのぞく。微かにのぞいたその横顔はどこか浮き世離れしていて、神秘的な美しさを持っている。多襄丸は是非とも彼女をものにしようと考える。そして侍を罠にかけるのだが、圧巻なのはこの後の乱闘シーン。女は着物から短刀を抜き取り、必死の形相で多襄丸に抵抗する。短刀が一閃、また一閃し、二人は激しく取っ組み合う。検非違使の前で多襄丸があれほど意思の強い女は見たことがないと言ったのもうなずける物凄さで女は抵抗する。だがやがて、多襄丸に無理矢理唇を奪われると、つい今しがた激しく振り回していた手からぽとりと短刀が落ち、その手はそれまでと同様の激しさをもって多襄丸の背中に回る。自分を奪った男の唇に激しく自分の唇を重ねる。この激しさ。一瞬における変身。安吾の「桜の森の満開の下」の女を思わせるような、そんな妖艶さがある。はっきりいって、かなり扇情的なシーンだ。特に唇を奪われたときの目。憎しみが諦念、そして情熱へと一瞬のうちに移ろってゆく。このほかにも侍役の森雅之のすべてを見はるかしたような無の目、巫女役の本間文子の凄絶なおののき、声など見所満載なのだが、ここでは詳述しない。

 

さて、杣売りの男によって「真相」が暴露された後、それを聞き終わった下人が言う。侍の持っていた太刀と女の持っていた短刀はどこに消えたんだ、と。

そうなのだ。この事件ではこの二つの刀が消え、どこに消えたのかが問題となっていた。しかし杣売りの男の説明では、これらの刀が消えたことの説明がつかない。

下人は重ねて問う。刀を盗んだのはおまえじゃないのか、と。

結局、杣売りの男までが自分に都合のいい嘘をついていた。沈黙する一行。そんなとき、すぐ近くから赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。下人は立ち上がって羅生門のそばに捨てられた赤子を見つけると、その小さなからだをくるんでいた布をはぎ取った。「何をする!」非難する二人に対し、下人はこれこそが人間の本性だと言ってその場を去る。このへん、芥川の「羅生門」に通じている。

 

この映画が「羅生門」と決定的に違うのは、下人が京の街に消えたこの次のシーンだ。それまで黙り込んでいた杣売りの男が急に赤ん坊に手を伸ばす。「あなたはこの子から衣服さえもはぎ取ろうというのか!」あわてて赤ん坊を守る旅法師に、杣売りの男は言う。なに、何人育てようと変わりはしない。……

杣売りの男は赤ん坊を引き取ろうと言うのであった。時は平安、戦乱と疫病、天災によって荒れ果てた時代に、この赤ん坊を育てようというのである。旅法師は赤ん坊を手渡し、感謝して言う。ありがとう。あなたのおかげで、私は人間を信じることができる。……。赤ん坊を大切そうに抱いた杣売りの男が去って、映画は終わり。

つまりこの映画では二人の下人が描かれている。一人の下人は小説「羅生門」のように善悪の彼岸へと駆けだしていくが、もう一人の下人、すなわち杣売りの男は自分のも含め、人間の醜さを目の当たりにした後、それでも善悪の此岸に居続けることを選ぶ。ここに映画『羅生門』のメッセージ性がある。

 

だが少し意地の悪い見方をすれば、『羅生門』のメッセージ性は更にこの奥で見出すこともできる。意地の悪い見方とは、『羅生門』を「視線の物語」として捉えることだ。

 

そもそも、この映画の原作である「藪の中」は視線によってつくりあげられたリドル・ストーリーだった。章ごとに異なる語り手が現れる。木樵り (杣売り)、多襄丸、女、巫女 (侍)……。一つの事件について語っているはずなのに、その内容は語り手によって違う。語りが騙りとなっている。

映画『羅生門』もこの構成を踏襲している。小説と同じように一人ずつ語り手が登場し、そこで語られることがその都度映像化される。多襄丸編では多襄丸と侍は激しく剣戟し、しかし巫女 (侍) 編では二人は刀を交えずに去る。多襄丸の言によれば気性の荒い女も、検非違使の前に呼び出されるとおろおろと泣いている。何がほんとうで、何が嘘なのか。その語り (=騙り) から知ることはできない。

ただ先ほども書いたように、謎が謎のまま終わる「藪の中」に対し、『羅生門』では一つの解答が提示されている。実は杣売りの男が草葉の蔭から一部始終を見ていたという設定で、多襄丸や女、巫女 (侍) が語り (=騙り) 終わった後にそれはかたられる。この「真相」の暴露があって最後の杣売りの男の決意、旅法師の感動的な言葉 (あなたのおかげで私は人間を信じることができる) があるわけだが、この映画を「視線の物語」として捉えようとする僕 (たち) は、ここである疑いを差し挟まずにはいられない。——杣売りの男が語ったことは、ほんとうに「真相」なのか、と。

それまでの語りが全部騙りであった以上、杣売りの男のかたりだけが語りであるという保証はない。現に彼は下人に指摘されるまで自分が刀を盗んだことを隠していた。彼の話が「真相」である証拠などどこに見出されようか。

同じ理由で、僕 (たち) は赤ん坊を引き取って育てるという彼の言葉をも信じることができない。旅法師から手渡される前、彼はじっと赤ん坊を見つめる。その視線は赤ん坊ではなく、その子の衣服に注がれているのではないだろうか。いや、これはさすがに穿ち過ぎか、だがしかし……。

 

最後のシーンが印象的だ。雨が止み、晴れ間がさしてきた羅生門の外に、赤ん坊を大事そうに抱いた男が時々後ろを振り返りつつ歩いていく。その背中に、羅生門に残った旅法師がじっと視線を注いでいる。……

そう。この旅法師こそが重要だ。『羅生門』において「羅生門」にない要素を見つけようとするならば、第二の下人としての杣売りの男よりも、この「視る者」としての旅法師を挙げるべきだろう。示唆的なのは、この旅法師が最後まで羅生門に残り続けることだ。言うまでもなく、この羅生門はメタファーとして機能している。すなわち下人は善悪の「外」に行き、杣売りの男は善悪の「内」へ行った (表面的には)。しかしこの旅法師だけは門の下に留まり、態度を保留している。ほんとうに人間を信じていいものか、未だ決めきれずにいるのである。

そのことは彼の視線によく現れている。人間を信じたいと願う彼の視線は僕 (たち) の視線と合わさり門を出て行く杣売りの男へと注がれるが、そこではきょろきょろと後ろを気にする男の仕草がすべて怪しいものに映り、やがて焦点が旅法師から下人に移動してその顔がおぼろげになるにつれて、そこから向けられる視線には疑いが根ざしているのではないかという印象をどうしても拭い去れずにはいない。こうした不穏な疑念を残したまま、物語は静かに幕を閉じる。だからこそ僕 (たち) は物語を反芻し、自らにこう問わなければならない。——自分は何を見たのか、と。

ここでは結局、映画を観る僕 (たち) の決断こそが求められている。黒澤は遠ざかる杣売りの男に焦点を合わせることで、かたりを語りとして素直に聞き入れることの危険性を喚起するとともに、僕 (たち) が自分で善悪の門と向き合い、選択していくことを求めているのだ。だからこそ、杣売りの男を見送る旅法師の目はぼかされている。その視線は僕 (たち) が選択し、描かなければならない。

 

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