プルシアンブルー【創作小説】



 雨の音を聞いていた。
 開け放した窓の外で、春の雨がぽとぽとと降る。昨日の夜から、絶え間なく降っている。この分じゃ、桜も散ってしまうだろう。
 画布には、夕空の下で満開の桜が描かれていた。下塗りには、その時々の絵で主役にしたい色を隠すことに決めている。今回は、とりあえずホワイトとクリムソンレーキを塗った後、プルシアンブルーを混ぜた。それから色調を見て気の赴くままに色を重ねていき、今の絵が出来上がった。春の野を前景に置いた、単純な構図だ。なんとなく、ピサロの絵を意識した。僕はあの、油絵でしか出せない細密描写と、それでいてぼかされているような抽象性が好きだった。
 部屋の中は暗かった。僕は筆を置いて立ち上がり、少し離れた場所から絵を眺めた。残光がところどころに影を作る野の緑は、柔らかでいながらどこか鋭さを感じさせる。そして一際大きな影を落とす、数本の桜。背後にはプルシアンブルーの透明な空が広がり、彼方で夕日がいまわの光を放っていた。
 筆に付いた絵具を洗液で溶かした後、僕は服を着替えて外に出かけた。散る前に、見ておこうと思ったのだ。今年で最後になるはずの、この町の桜を。
 今年は、桜が咲くのが早かった。記録的な厳冬が、通年よりも早く桜の花芽を目覚めさせたらしい。三月に入って途端に暖かくなったことも影響し、開花の早さは近年稀に見るものとなった。
 天気予報では、今週末が最後の機会だと言っていた。明日から僕は、住み慣れたこの町を出て新しいアパートに暮らすことになっている。そのアパートは、この町から中心部へと出、さらにそこから何時間も電車に揺られなければいけない場所にあった。僕はこの春から、ある会社の宣伝課で働くことになっていた。
 ぎりぎり完成したな、と僕は思った。この家を出る前に、完成させる必要があった。次の部屋では、あのサイズの画布を置くスペースはない。生活するのに最低限必要なものを収めたら、ワンルームはいっぱいになった。
 その部屋からは梅林が見えた。盛り上がった土地に、細い幹が枝をめぐらしている。彩度の多彩な花の色が、あたりの緑によく映えていた。夕日の射す空っぽの部屋からその景色を眺め、これからここで暮らすんだな、と思った。日が沈むと、街灯の頼りない光の下で梅林は繊細な影を作った。その町の夜は暗かった。
 傘を差すと、ト、ト、ト、と低い音を立てて雨粒が落ちた。一定のリズムで弛みなく降ってくる、丁寧な雨だった。雨勢は強くも弱くもなく、粒は大きくも小さくもない。風はなかった。そのため、雨はまっすぐ落ちてきた。僕は傘を垂直に持ち、溜まりを踏まぬよう注意して歩いた。
 都市に対し、いわゆる郊外にあたるこの町は、決して田舎ではないけれど、未だ多くの緑を残す自然豊かな土地だった。少し歩けば、両岸をソメイヨシノに挟まれた小川に出ることが出来る。町自体が都市部から離れているため、ほとんど知られていない隠れ名所だ。橋の中間に立って見渡すと、その景色は圧巻だった。細い流れの両脇を、どこまでも桜が続いている。日照時間の異なる桜の開花はまちまちで、満開かと思えば、既に散りかけている樹もあった。花瓣を落とした桜も、残った蕊のためにまだ全体的に赤みがかっている。これから、初夏に向けて少しずつ若葉が芽吹いていく。僕は満開の桜も、葉桜も好きだった。
 桜の絵で知られているものは、意外と少ない。きっと探せばあるのだろうが、海外の作品に桜のイメージはないし、日本画ではたとえば横山大観が夜桜の絵を幾つか描いているが、彼の他の絵と比べると認知度は落ちるだろう。
 東山魁夷という画家がいる。二十世紀を生きた人で、風景画を多く描いた。この人が、桜の絵を数点残している。どれも淡い筆触で描かれていて、繊細さを持っている。桜を描いたものの中では、僕はこの人の絵が好きだ。見ていると吸い込まれそうになる妖しさに、つい息をするのも忘れてしまう。
 雨は強まりも弱まりもしなかった。降りしきる滴に、花冠が上下に揺れている。波紋を広げる川面を左手に見ながら、遊歩道を歩いた。すべてが雨に包まれて、白く煙っていた。静かだった。音がないというより、あらゆる音が雨に吸収されてしまっているようだ。雨は降りすぎても、雨量が少なくとも耳につく。ほんの霧雨程度では逆に地上の音を際立たせてしまうし、大雨になると雨滴の立てる音それ自体がうるさい。静かな雨を降らせるには、地上の音と雨の音を見事に調和させる必要があるのだ。今日の雨は、そのバランスをちょうど良く保っている。繊細さの作り出す淡い風景の中で、僕は桜の樹の下をしずしずと歩いた。……


「桜って、見れば見るほど遠い気がする」
 川面に伸びる枝に触れようと腕を伸ばしながら、雪子が言った。袖から覗いた腕のあまりの細さに、心臓の凍る思いがする。黙っていると、ねえ、とこちらを振り向いた。青いと見えるほど白い肌に、墨汁をこぼしたような眸が僕を見つめている。宇宙にまで続いていそうなこの眸に見つめられると、僕は金縛りにあったみたいに動けなくなってしまう。
「あなたは、そんな気がする?」
 わからない、と僕は言った。彼女は背伸びをして花瓣に触ろうとしていたが、ふと腕を下ろすと、
「私、桜ってどこか別の世界と繋がってる気がするの」
「別の世界?」
「うん。だって、桜の花ってどれだけ触っても掴めない感じがするでしょ? だから、思ったの。桜の樹は本当はこことは全然違う場所にあって、そこから枝を伸ばしてるんじゃないかって。きっと、その場所には桜みたいに綺麗なものがたくさんあって、一年中花瓣が舞ってるの」
 雪子の言うことは、時々僕にはわからなかった。そうした言葉を聞くたび、僕は言いようのない不安にとらわれた。漂うように歩く頼りない背中を見ていると、桜の樹が今にも彼女をどこかへ連れ去ってしまいそうな気がしたのだ。僕には雪子こそ、触っても触っても遠かった。
「来年の春は、社会人だね」
 降ってくる花瓣を掴もうと手を伸ばしながら、雪子は言った。暖かな風が吹くたび、ひらひらと春のかけらが舞い落ちる。僕はこれまでの大学生活を思い、なぜだか信じられない気持ちになった。この桜も、いずれ終わる。そうして季節は巡り、あっという間に新しい春が来るだろう。今までが、そうであったように。
 あ、と小さく声がして顔を向けると、雪子の広げた手にひとひらの花瓣が乗っていた。僕と彼女は身体を寄せ合って、その小さな掌の上の色彩を見つめた。薄青い雪子の肌に置かれた桜は、そのまま溶けてなくなってしまいそうに思えた。
 花瓣が風に飛ばされてしまうと、雪子は空を見上げた。夜の気配を孕んだ冷たい風が、肩下までの髪を揺らす。焼け落ちる夕日が、高彩度の色彩を放っていた。その色彩は徐々に彩度を弱めていき、透明な青色をした空とのあわいに消えていく。雪子が僕に微笑んだ。
「私、この時間帯の空がいちばん好き」


 ――町の音が甦っていた。雨が止んでいた。
 傘を下ろすと、梢の間からわずかな晴れ間が見える。雨に洗われた空は、吸い込まれてしまいそうなほど透き通っていた。遠くで日が沈み、光の筋を雲の上に走らせている。まるでぽっかりと空いた穴のように、頭上の晴れ間だけ深々と青かった。
 終わりの空だ、と僕は思った。じきに日は完全に暮れ、新しい夜が始まる。そうして僕は家に帰り、明日には違う場所にいるだろう。風が吹いて、僕はもういちど頭上を見上げる。どこまでも続いていそうな透明な空から、吹雪のように白のかけらが舞い降りてくる。それを掴もうと、僕は腕を伸ばす。