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これからのこと

ふがいない院生は空を見た

大島弓子『夏のおわりのト短調』



 大島弓子『夏のおわりのト短調』(白泉社文庫、1995年) を読みました。

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)

 

 

 この本には表題作のほかに、「たそがれは逢魔の時間」「赤すいか黄すいか」「裏庭の柵をこえて」「あまのかぐやま」の四つの短篇が収録されています。以下、短篇ごとに感想を書いていきたいと思います。


「夏のおわりのト短調
 僕がこれまでに読んだ大島作品のなかでは、いちばん精神的に安定した主人公だったかもしれない。けれども純真さ、そしてその純真さゆえの鋭さは健在で、主人公の袂はすぐに洋館が抱える秘密に気づく。そして、意識的であれ無意識的であれ、何らかの化学反応を起こしてしまう。
 解説で本田和子は、「台詞でない言葉、つまり、吹き出しのなかに埋め込まれていない言葉の多さ」が「この作品を他から隔てるものの一つ」ではないかと書いているが、ほんとうにそうだろうか? 確かにこの短篇は文字量が多いけれど、それはほかの大島作品にも言えることだし、実際、頁を繰って見比べてみても、ほかの短篇との違いはそこまでわからなかった。
 僕はむしろ、「夏のおわりのト短調」はほかの作品と比べても切断性が強いと思う。読んでいて、いきなり話題が移ったためについていけない箇所が何カ所かあった。しかしそれは欠陥ではなく、大島作品の大きな魅力のひとつだ。「夏のおわりのト短調」が理解できないというひとは、おそらくその切断性についていけてないのだと思う。
 この話はわりとわかりやすい構造を持っていて、結末にはカタストロフが待っているのだが、けっきょく、このカタストロフが袂にどのような影響を与えたのかが、僕にはいまひとつわからなかった。最後、二平君の前で流す涙には、どのような意味を読み取ればいいのだろう。

「たそがれは逢魔の時間」
 これまでに読んだ大島作品で、いちばん好きかもしれない。これほどまでに冬という季節の感触、空気感を再現した作品を僕は知らない。しかも、これは季節としての冬を描くだけではなく、ひとりの男の人生の冬をも、一組の夫婦の冬をも描いているのだ。
 最後の頁に書かれた言葉は、まさにこれが人生というものなのだといった寂寞と諦念を読者に与える。大島弓子の作品はしばしば詩的だと評されるが、確かに詩的で、文学的だ。

「赤すいか黄すいか」
 相変わらず夢の使い方がうますぎる。夢のなかで両親が砂となってさらさらとこぼれていく描写には、ほんとうに鳥肌が立った。登場人物たちが漫画の背景を話題にするメタ的なところといい、大島弓子のハイレベルな技が詰まった作品。ただ、落ち着きの良いところでおとなしく話を収束させてしまった感があるので、まとまりなど気にせず、もっと暴れてほしかった。

「裏庭の柵をこえて」
 信の気持ちがわかりすぎるほどわかってつらかった。彼は、自分の存在意義をずっと探していたのだ。そしてそれは、彼がこれからも生きていくためなのだ。
 終盤、庭の木が切られるシーンでは、読んでいる僕も大切なものを壊されたときのような気持ちになった。木を擬人化して書いているものだから、なおさら。
 「松くい虫なんとか」という仕事とは、いったい何のことなのだろう。

「あまのかぐやま」
 百人一首にも含まれている有名な歌が作品のちょっとしたアクセントになっている。ほんとうに、大島弓子はこういうことがうまい。
 この短篇集のなかではいちばんコミカルで、軽い話だと思う。織子が可愛かった。


 『夏のおわりのト短調』は大島弓子の魅力が余すところなく詰まっているので、初めて大島作品を読むという方にもオススメです。大島弓子の魅力とは何か? 数え上げたらキリがないけれど、やっぱり根源的なものとして登場人物たちの (多くは主人公の) 純真無垢さがあると思う。その純真無垢な登場人物の眼をとおして世界が描かれるので、読んでいる者もその人物と同じようにかつては存在したはずの透明な世界を見ることができる。そこに大島作品のもっとも深い魅力があるのだと思います。
 また技術的な面に関して言えば、彼女はとにかく闇と夢の使い方がうまいです。頁のほとんどの部分を真っ黒に塗りたくってその上に小さな白い文字で言葉を書くというのは漫画の常識からは外れているかもしれないけれど、だからこそ読む者 (見る者) に鮮烈な印象を与え、作品世界のなかへと有無を言わさず引きずり込みます。
 特徴的な作品世界だけに合わないという方もいるとは思いますが、もしこの記事を読んで大島作品に興味を持ってくれた方がいれば、ぜひ読んでみてください。きっと、未だ見たことのない作品世界へ誘ってくれると思います。

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