多摩川:祈るように見つめた光

 

 東京の川と聞いて真っ先に思い浮かぶのは隅田川だろうが、規模からいえば埼玉との境にもなっている荒川や南部を流れる多摩川のほうに分がある。小学五年に上がる春に東京に越してきて二十五で実家を出るまでの十四年間、ぼくが暮らした町には多摩川が流れていた。

 多摩川は市の北部を横断し、自宅からは自転車で二十分ほどの場所にあった。時おりサイクリングをするほかは行くことはなく、むしろよく歩いたのは近所の三沢川という小さな川だったが、この川も多摩川の支流で、一時間も歩けば本流に合流する。

 大学院生のある期間、多摩川はぼくにとってシェルターであり、将来の希望の象徴でもあった。夏の夜、ひとりで訪れた川べりの風景を、今も忘れることはない。

 

 大学院一年の十一月から約一年間は、ぼくのもっとも苦しんだ時期だった。ある晩、友人と酒を呑んだ帰りに駅で気を失い、悪酔いかと思ったがその後酒を呑んでなくても過呼吸になることが続いた。医者にあたっても原因はわからず、外に出るだけで吐きそうになる症状に襲われた。大学院に進んでいちど先延ばしにした就職への不安や、両親の過去に類を見ない不仲に精神的に不安定になっていたのだと思う。一ヶ月以上にわたって準備に追われた学会発表が終わった直後のことで、疲労も溜まっていたのだろう。

 その頃のぼくが外出先として選べたのは人口密度が小さく万が一吐いてしまっても人目につかない場所だけで、多摩川の河川敷はその条件を満たしていた。日中、ぼくは読みかけの本と飲み物を持って出かけ、川面からすぐの場所に腰を下ろして二時間も三時間も過ごした。未だに読書時の没入を忘れられない松浦寿輝『幽・花腐し』を読んだのも、テッド・チャンあなたの人生の物語』を読んだのもその場所だった。そのうち両親の関係がいよいよ険悪なものになってくると夜も来るようになり、コンビニで買ったサンドイッチをいつもの場所で食べた。対岸の一車線道路を照らす街灯の光が川面に映って揺れ、時おり魚の跳ねる音がした。土手の上はランナーやサイクリストたちで九時くらいまでは賑わっていたが、川面に面した斜面に座るぼくからは遠く隔たっていた。そこに来ると、いかに普段物音に囲まれて過ごしているかがわかるのだった。

 一人暮らしをしようーー。険悪な自宅の雰囲気にまいっていたぼくは、たびたび思ったものだった。そしてそのときは、多摩川の近くに住もう。

 多摩川のそばで一人暮らしをする。その考えは暗くなりがちなぼくの心境を明るくしてくれた。なんとか就職し、一人暮らしをして、毎朝川のほとりを歩く。不動産アプリで多摩川のそばの物件を検索し、住むならどの辺だろうかとあたりをつけた。そうして、心機一転した自分の暮らしを想像した。それは自分にとって唯一の素晴らしい未来図に思えた。

 

 けっきょく、就職が決まって三月から住み始めたのは多摩川どころか小川さえない街で、あれだけ拠り所としていた多摩川に行くこともなくなってしまった。しかし今でもふと、切実な思いで部屋を探していたときの光景が甦ることがある。両親の関係は元通り回復したし、彼女に話すときなど、半分笑い話として話すくらいなのだが。それでもあの頃、すがるような思いで部屋を探し、そこでの人生を夢想した切実さはたしかに本物で、多大な不安に押しつぶされそうになるぼくをぎりぎりのところで支えていた。

 今住んでいる街には多摩川の代わりに甲州街道があって、絶え間なく光の川が流れている。水の音に耳を澄ますことや対岸の淡い光に将来を浮かべることはなくなったが、今でもぼくは甲州街道やその真上を走る首都高を見て、そのずっと先に続く光景を想像してみることがある。ぼくは、この光の上を歩いていく。けれどもこの流れは、あの頃の多摩川の流れからずっと続いているものなのだ。よく晴れた気持ちのいい日に、彼女とあの川べりを歩く。そんなささやかな願いも、今のぼくは持っている。