僕は青春ミステリが嫌いなのかもしれない

 

大学に入学したてのわずかなあいだ、ミステリクラブに所属していた。ほかの文芸サークルとの掛け持ちで、半年も経たずにやめてしまってからは、ミステリから遠ざかり、専ら「純文学」と呼ばれる小説ばかり読んでいた。

ミステリから遠ざかったのは恩田陸のせいだ。その頃、『麦の海に沈む果実』という小説を読んだ。大湿原を見下ろす丘の上に立てられた旧修道院の学校が舞台で、常に灰色の空に覆われた閉鎖的な環境、おまけに学校は特殊な技能に長けた生徒ばかりが集められた場所で、連れてこられた主人公の女の子は、記憶を喪っている——。文庫にして約五百頁の厚みのある本だが、『エコール』を思わせるような舞台設定、謎めいた登場人物、次々起こる事件の謎に、僕は夢中になって頁を捲った。

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

 

 

だけど、読み終えたときに残ったのは虚無だった。素晴らしい小説は読み終えたあとしばらく何も出来なくなるが、そういった種類の虚無感ではなく、自分が物語に裏切られたことに対する空しさだった。

ミステリは読者を騙すものだ。叙述トリックに限らなくとも、そこには隠された真実があり、意表を突いたトリックがある。自分の推理が当たっていたときの快感も大きいが、見事に騙された、してやられた快感もまた格別だ。むしろ驚きの少ないミステリは刺激が足りない。

けれども、『麦の海に沈む果実』は別の意味で僕を裏切った。今まで読んできた物語はなんだったのかと言いたくなるような、登場人物たちの思いはどうなるんだ、彼等は記号でしかないのかと怒りたくなるような結末で、事実、僕はそれ以来、ミステリを読むのをやめた。ミステリの倫理観について疑いを持つようになっていた。

そもそも、ミステリとは多くの場合殺人事件を描くものなのだから、そこに倫理観を持ち出すことは間違いである。僕も重々承知している。しかし、ただ殺されるために、騙されるために人物を配置し、読者を驚かせるために物語を描くことに対して、僕はどうしても割り切って考えることが出来なかった。

『麦の海に沈む果実』*1は、良くも悪くも僕に大きな打撃を与えた。あの小説の世界観は今でもたまらなく好きだ。読み進めていたときのわくわく感は忘れられない。それだけにいっそう、僕は傷を負い、ミステリから離れようと思った。

 

去年、僕の中でひそかなSFブームが起こった。そもそも僕はウエルベックが大好きな人間だし、それ以前にもディックや伊藤計劃を読んでSFの可能性、とりわけ哲学との相性の良さに目を見はった経験はあったのだが、去年はブラッドベリやハクスリーを読んでますますその確信が深まり、年の変わる直前に小川哲を読んだことが決め手となった。2018年は青背をいっぱい読もう、と思った。

同時に、そろそろまたミステリを読もうかな、とも思うようになった。かつて在籍したミステリクラブにもSF部門があったように、ミステリとSFの親和性は高い。去年の終盤にクイーンや有栖川有栖を読んだこともあった。クイーンの小説にはテクストであるからこそ可能である伏線の張られ方がなされていて、初めて意識的にミステリの可能性を感じた。仮にもミステリクラブに籍を置いていたのだから、今更そんな発見をするのもどうかとは思うけれど。

それから、またぼちぼちミステリを読むようになった。『毒入りチョコレート事件』はまさにミステリならでは、エンタメのための殺人、謎解きのための殺人が用意されていたが、今まで出会ったことのない多重解決型の筋にこんなやり方もあるのかと素直に感心した。『バイバイ、エンジェル』では初めてミステリに明確な問題意識を見た。確かにこのテーマはミステリで書かれるべきだと思い、これならミステリの存在意義を疑わないでいられる、と脱帽した。最近読んだなかでは『虚無への供物』に熱中した。これは紛う事なきめくるめく謎の世界、暗合に満ちた魅惑の世界でありながら、明確な問題意識もあった。僕のお気に入りの小説がまた一つ、増えた。

そして、今日。僕はまた一冊のミステリを読み終えた。ネタバレになるので作品名は伏せるが、少し前に大ヒットしたミステリで、僕の記憶によれば、その時期のミステリランキングの多くに座を占めていたのではないかと思う。読み始めるなり、僕はまたも熱中した。青春ミステリだった。事件の中で男と女が出会い、恋に落ちる。主人公の恋愛模様と同時に物語は進行していく。

青春ミステリを少しでも読んだことのある方なら察しがつくと思うが、そこで魅力たっぷりに描かれるヒロインは往々にして黒幕である。黒幕ではなくとも、なんらかの形で事件に関わっていることが多い。主人公は事件の謎を解くとともにその事実に気づき、じゃっかんの甘さと苦い感触を残して物語は幕を閉じる。

中高生のときに青春ミステリを読みあさっていた僕もそんなことは百も承知だったが、にもかかわらず、今回も手痛い打撃を喰ってしまった。僕が読んでいた小説は、叙述トリックだったのだ。

事件の真相を追っていく中で、徐々にヒロインの影が浮かんでくるのはいい。結果、彼女が黒幕で、苦さとともに終わっても構わない。けれども、叙述トリックは駄目なのだ。駄目というか、僕は好きじゃない。なぜなら、叙述トリックの目的は読者を騙すことにあって、物語に要請されたものではないからだ。物語に、読者を騙してやろうという、もちろんこれは作者によるサービス精神なのだが、メタ的な狙いが差し込まれる、というか、これが主眼である。僕はこれがどうにも我慢ならないのだった。

もちろん、叙述トリック自体を否定したいのではない。正直に言って好きではないが、それでも一つの技法だし、ときにそれが読者に大きな驚きを、すなわち快感をもたらすこともある。けれども、青春小説で用いられる叙述トリックは、読者に青春小説としての楽しさを感じさせておいて、それを終盤で一気に覆す、その振り幅の大きさを利用したテクニックで、物語のための技法というより、技法のための物語になってしまっていると感じずにいられない。倫理的にも、僕は好きじゃない。*2

なぜか? たとえば、『毒入りチョコレート事件』のようなミステリのための事件、殺人なら、最初からそういうものとして楽しめる。さすがにそこに倫理の物差しを持ってこようとは思わない。けれど、それが途中まで青春小説のような顔をして書かれていた場合、急なメタ的介入に、今までに読んできた物語は何だったんだと言いたくなる。僕が感情移入していたのは、ただの記号だったのか?

もちろん記号である。そもそも小説は文字という記号で書かれているのだから、登場人物どころか、そこに書かれたすべてが記号でしかありえない。けれども僕たちはそこに自分を投影する。記号であると知りながら情景を浮かべ、テクストの世界に入り込んでいく。急なミステリ的反転、「だってこれはミステリだもん」という開き直り*3は、さながら夢が醒めるような、それも強引に引っ張り上げられるような感覚である。これはリアリティのある世界なのか、それともミステリ的世界なのか? どっちかにしてくれと言いたくなるのは僕だけなんだろうか。

 

やりきれなくなって、本を閉じたあと、そういう悪い意味での裏切りがない青春ミステリを探した。思い浮かんだのは、樋口有介の『ぼくと、ぼくらの夏』と有栖川有栖『月光ゲーム』だった。米澤穂信古典部シリーズなんかも当てはまるかもしれないが、少々インパクトが弱い。*4

『ぼくと、ぼくらの夏』はすごく好きだし、書いてきたような悪い意味での騙し討ちはないが、途中からヒロインがフェードアウトして、最後まで登場しなくなるのが玉に瑕。『月光ゲーム』は決して苦くないとは言えない小説だが、先ほども書いたように、べつに苦かろうと、急な価値観の変転、レイヤーの変位さえなければ僕的にはOKなので、まあ今のところだとこれが青春ミステリ筆頭になるのかな。

と、考えてみると、僕はこれまで好きこのんで青春ミステリを読んできたにもかかわらず、多くのケースにおいて手痛い目に遭ってきたきたことがわかる。ミステリにおいて主人公が好意を抱いた人物、主人公に好意を抱いた人物が何らかのかたちで事件に関与している、というのはおそらく一つの定型なので、まあそこはしゃーなし、それでもおもしろい作品はたくさんあるのだからそこにケチをつけるのは間違っているにしても、一度でいいから、思いっきり爽やかな青春ミステリ、ヒロインは事件にまったく関与しておらず、だが恋愛模様と事件の進行が絶妙に絡み、最後は手と手を取り合っていけるような作品を読んでみたいなあ、というのは、あまりに大衆的な考え方だろうか?

 

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

 
月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

 

 

*1:それでも、僕の本棚にはこの本が置いてある。

*2:散々「倫理」と連発しているが、そもそも小説は倫理的なものじゃない。たぶん、僕が引っ掛かっているのは物語としての倫理なんだと思う。

*3:ただいちど、この開き直りに安堵したことがある。「ああ、だってこれはミステリだもんな」と。それはクリスティのある小説を読んだときのことだった。

*4:なんて書いちゃってるが、僕の青春は米澤穂信杉井光で出来ていた。にもかかわらずほとんど読まなくなってしまったのは、嗜好が変わったのと、たぶん『氷菓』アニメ化のせい。