秋の夜長の吐き気

 

現在、午前四時十分。眠れないのでブログを書いている。なぜ眠れないのかといえば、お腹がもたれている感じで気持ち悪く、吐き気も催してしんどいから。この「実際には吐かないんだけどすごく吐きそう」な気持ち悪さは九月末くらいから断続的に続いていて、一時は収まっていたのだけど、最近また再発した。ネットで検索した感じ、たぶん逆流性食道炎だと思う。でも食べた直後に気持ち悪くなるときばかりでなく、何も食べてないときや食べてしばらく経ってから気持ち悪くなるときもあり、しかも考えてみると緊張したときや集中力が切れたときに症状が出始めるような気もして、となると心因的要素も絡んでるってことだから、自律神経失調症か? と思ったりもする。病院も行かなきゃと思いつつ行けてない。収まってたからもういいやと思ってたけど、現にいま寝れないくらいしんどいし、何より食べる楽しみが奪われているのが辛すぎるのでちゃんと病院行って検査してもらわなきゃな。。もともとやせ型だけど、いまは自分でもひくくらい痩せている。172cmの成人男子が48kgってどうよ。症状が悪化するので一ヶ月以上酒も飲んでないし、きょう、煙草もやめようと決心した。味気ねえ。。。

そんなわけで気分が悪く、読みかけの本も集中できないので、読者になってるわけじゃないけどなんとなく定期的にのぞいているブログや、たまたま思い出した、以前よく見ていたブログなんかを巡っていた。で、見終わったのでいまブログを書いている。

長らくブログを書いていなかった。ブログを書くよりも先に書かなきゃいけないものがごまんとあったし、それはいまもなんだけど思考する元気がないのでいまはブログを垂れ流す。あとは単純に忙しかった。相変わらずすぐに楽な方へ流れようとする「水は低きへ流れる」「怠惰な者は引きこもる」ぼくだけど、それでも無為な一日を送ってしまった日は反省して、というか環境が無為な一日を許さないので (〆切とか)、わりとがんばっていた。とりわけこの一ヶ月は非常に忙しく、というのはつい先日大学院の学会発表があったからで、ぼくはそこで発表をやることになっていたからだ。こんなにちゃんと準備をしたことも初めてなら、ほぼ毎日のようにスタバが閉まるまで文章を書いていたのも初めてだった。月並みな感想だが、大変だったけど、やってよかったと思う。おかげで思考癖がついたし、とにかく外に出れば何かしら進むということがわかった。これからは課題に限らず趣味の小説を書くときなんかでもスタバに行こうと思う。きょうもコメダに閉店までいて青木淳悟ベケットを読んでいた。恥ずかしながらやっと『ゴドーを待ちながら』を読んだが、めちゃくちゃおもしろかった。「遊んでると、時間はたつもんだ!」というヴラジーミルのせりふがミソかなと勝手に思う。ラーメンズは『ゴドーを待ちながら』をやっていたんだなと思った。いろいろな変奏を重ねて。

吐き気がしんどさを増してきた。でも書くのをやめたところで眠れそうにないのでなんか書く。

そもそも、初めて発症したのは九月の二十六だった (たぶん)。親友のKくんとラーメンを食べたあとに一杯だけひっかけて、わかれた。乗り換えのために電車を降りた途端、急激な吐き気と動悸が襲い、(このまま電車に乗ったらダメだ) と直感したぼくは這々の体で階を上がり、トイレへ向かった。が、トイレに入る角を曲がったところで視界が真っ白になり (モザイクタイルみたいに)、何も見えなくなってぼくは膝をついた。壁に手を這わせながら倒れ、しばらくうなっていた。少しずつ視界はもどってきたが、立てそうになかった。女性がぼくを見て声をかけるかかけまいか逡巡した後、気まずそうに去っていった。ぼくは壁にもたれたまま男子トイレに入り、僥倖にも空いていた個室に入って腰を下ろした。いま思えば、そのときも物凄い吐き気にもかかわらず吐かなかった。五分か十分か個室にいて、それからまた這うようにホームへ降り、何本か電車をやり過ごしてからえいやっと飛び込んだ。電車に乗っていたのはたった十分足らずだが、吐くか吐かないかの瀬戸際で、全身から冷や汗が迸り、動悸も吐き気もひどく、地獄だった。最寄り駅について改札を出ると、(もうこれでどこにでも吐くことができる) と思って一気に気が楽になった。しばらく休んでからシャワーを浴びて死んだように眠った。

翌日は女の子と酒を飲み、一緒に電車に乗っていたときに気持ち悪くなり、思わず途中の駅で降りたが、やはりしばらく電車に乗れなかった。で、やはり乗った後は地獄だった。

ということがあって、そのときのぼくは (酒がいけないんだ) (煙草とあわせたのも悪かったにちがいない) と思い、それからは禁酒禁煙の日々を送った。禁煙は五日で断念したが、禁酒は今でも続いていて、なんだかんだ飲まないなら飲まないで過ごせるものだな、と思っている。

でまあ、節制の甲斐あってかしばらくの間は症状も収まっていたのだけど、またここにきて再発し始めているのはどういうことか。収まっている期間もたまにはしんどくなることもあったのだろうけど、はっきり (あ、またきた) と思ったのはつい先日、学会の日だ。その日、学会終了後に打ち上げがあったので、ぼくは一ヶ月ぶりにビールを注文した。「禁酒は今でも続いていて」って書いてたのにどういうことやねんと思われるかもしれないが、じつはその日一日だけ、飲んだ。が、ジョッキ半分も飲まないうちに例の吐き気、動悸、冷や汗が始まり、それからはずっとハンカチで口を押さえていた。ちなみに、久々の酒に警戒して煙草は吸っていなかった。……そのとき以来、どうも再発してしまったらしい (「再発」ってヤな言葉だ。すげえ病気っぽい。ほかの表現はないものか)。そしていま考えると、その徴候はその日の午後、つまり学会中にもあった。

学会開始直後、どういうわけかぼくは非常な緊張を覚えた。ふだん、人前で話すことには慣れていて、それどころか人よりうまくできるとの自負さえあり、得意としていることなのにめちゃくちゃ緊張し、吐き気を催したのだ。思い出せば、症状はまるっきり一緒。吐き気、動悸、冷や汗。ついでにいってしまえば、ぼくがとった行動まで一緒だ。ハンカチで口を押さえる。

自分の発表が始まってしまえばそれらの症状は緊張とともにすーっと引いていき、学会は無事終了したが、あのときの吐き気を伴う異常な緊張って、そのときは (柄にもなく緊張している。やっぱ学会レベルになると俺でも緊張するのか) って思ってたけど、病的なもの、つまりぼくがいま抱えている逆流性食道炎あるいはほかの何かしらの症状に起因していたのではないか。

父親は熱を出して家でうなされているし、たったいま母親が悪夢でも見たのか悲鳴を上げるし、なんか冴えてない。ぱーっとおいしいもんでも食べに行きたいけど (母は学会終了祝いで焼肉に行こうと言ってくれている)、いまのままではろくに食えないし。下手したら吐くし。いやほんま、ちゃんと病院行こう。。

……ここまででだいたい書くことはなくなったのだけど、まだ寝たくないので続けます。果たしてここまで読んでくれている方はいるのか。こんな辛気くさい話。

 

しばらく前から武田百合子の『富士日記』をほかの本を読む合間合間に読んでいて、ですがまだ上巻も読み終わりません。我ながら読むのが遅い。いま思いついたけど、『たべるのがおそい』じゃなくて『よむのがおそい』って文芸誌つくったら売れるんじゃないですかね。古井由吉とか古井由吉とか載せてさ。ぼくだったらたぶん読まないけど。

でも、これは前に「進まない読書」ってエントリで書いたけど、なかなか読み終わらない=つまらないってわけでは決してなくて、『富士日記』はいいよ。言葉の羅列が力を持つのか事実の羅列が力を持つのかはわからないけど、描かれる山麓の冷たい空気もあいまって、とても清く澄んだ文章。気取ったところがないのもいい。そこに描かれる夫武田泰淳がどこかとぼけているのもいいし、それを見つめる百合子の視線もいい。いま思ったけど、武田百合子の一人称って大島弓子の主人公に似てるかも。描かれる世界も無垢で白、というか透明っぽいところが似てる。

(……とここまで書いて、部屋に猫侵入。うちには猫が二匹いて、一匹が雄、一匹が雌。雌のほうが騒がしい。侵入猫は雌。なけなしの集中力、途切れる)

大島弓子からの連想ですが、そういえばつい最近、萩尾望都イグアナの娘』を読みました。表題作は終わりの一文 (?) がすごいです。ぎゅっと一滴に凝縮されたような言葉。読んだとき、詩だと思いました。ちなみにぼくがいちばん好きな漫画家、大島弓子作品を読んだときも詩だと感じるのですが、大島作品が余白の作品、どこかふわふわして隙間が空いているのに対し、萩尾作品はぎっしり詰まっている、隙間なくレンガを積み重ねていっている感じで、ちょっとドイツ文学っぽいです。古井由吉っぽいともいえる (?) 同短篇集に収められている「午後の日射し」という話はウエルベックと通ずるところがあるなと思いました。ウエルベックほど破滅的ではないけど。独身者ではなく家庭があるけど。

ウエルベックといえばデビュー小説『闘争領域の拡大』も夏休みのときに読んで、ウエルベックは最初からウエルベックだったんだと安心もしたしふつうにおもしろかったんだけど、『素粒子』や『ある島の可能性』ほどのインパクトはなかったなあ。中篇という長さもそうだし、やはりデビュー作だからかあくまで要素に留まっていて、ウエルベックのテーマが爆発してない。まだ種が蒔かれただけって感じ。でもあの次にいきなり『素粒子』がくるわけだから、そう考えれば蒔かれた種、急成長したなあとも思う。ちなみに大学の先生にウエルベックが好きだといったら「あんなんはダメだ。あんなやつがフランス文壇の第一線にいるんだから嘆かわしい」みたいなことをいわれました。まあ、俗っぽい過激さを持つ作家だし、そういうひとがいるのもわかる。でも好きなんだよなあ。良くも悪くも人生観変えられたし。『素粒子』以降、そういう劇的な出会いは体験していない。

あと二ヶ月したら年末。2017年が終わるまでにどれだけの本が読めるか。どれだけの文章が書け、どれだけの作品が出来上がるか。来年は進路も決めなきゃで忙しいだろうし、今のうちにがんばらないと。

 

寝ます。——午前五時二十三分