進まない読書

 

今月九日からかれこれ十日、未だに一冊の本を読み続けている。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』。頁数は現在二〇〇頁。一日の読書量に換算するとちょうど二〇頁で、要はぜんぜん進んでいない。

もともと極端に遅読のぼくだが、さすがにここまで進まないのはなかなかない。たしかに『冬の夜ひとりの旅人が』は一癖も二癖もある厄介な小説だが、今回はそれにしても遅い。しかも、決して本がつまらないわけではないのである。どうも先日激しい頭痛で寝込んで以来、一時的に中断されたせいか、読書の習慣が途切れてしまっているらしい。いい加減うんざりしてきたし早くほかの本も読みたいので、今晩から多少無理にでも本と取っ組み合っていきたいと思う。

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

 

 

さて、進まない読書といえば、去年読んだ阿部和重シンセミア』も進まなかった。

もともと、ぼくは阿部和重の小説が苦手だ。『グランド・フィナーレ』はともかく『アメリカの夜』は苦戦しながら読んだし、前者にしても消化不良の感はぬぐえず、けっきょく何がいいたいのかがわからなかった。そう、ぼくにとって阿部和重の小説とは、けっきょく何がいいたいのかがわからない小説だ。『シンセミア』もそうだった。確かに読ませるし終盤の迫力とスリルに満ちたカタストロフィはさすがなんだけど、けっきょく何がしたかったのか、何がいいたかったのかがわからない。何もいいたいことなどないといわれればそれまでなんだけど、根源的に本を読むとは作家と対話することだと思うし、ならばこそ何も伝わってこない小説に没入することはできない。筆力があるとはいえ、文章で勝負するタイプの作家でもないしなあ。だからこそ、神町サーガが紀州サーガと比較されることに懐疑的になってしまう。土着的という点では共通しているかもしれないが、中上健次の小説には語る者と語られる者としての対話性があるし、何より読んでいて死、つまりは人生について思いを馳せずにはいられない。『鳳仙花』はほんとうによかった。まあ、単に好みの問題だけかもしれないが。

シンセミア(上) (講談社文庫)

シンセミア(上) (講談社文庫)

 

 

去年読んだ本では、江國香織『神様のボート』も進まなかった。

例によってやはり苦手な作家だった。それでも読んだのは卒論で扱おうと思ったからだったが (『シンセミア』もそうだった)、内容はともかく、小説の大半が心内語で成り立っていて、風景描写だけでなく心理描写すらほとんどない。べつにぼくはフローベールが好きな人間ではないが、さすがに心内語だけで成り立つ世界にはうんざりした。確かに「海」「公園」と固有名詞を書き込まずに土地を描くことによって曖昧な、ある種夢のような小説世界を形成することに成功しており、またその世界が母葉子の少女のような世界観とも合致してはいるのだが、ぼくは魅力を感じることができなかった。

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

 

 

と、なんだか文句ばかりいっているが、同じ進まないにしてもおもしろいのに進まない、というかなかなか読み終わらない本もあった。去年読んだ本では、たとえばトオマス・マン『魔の山』がそれに当たる。

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

 

 

文庫上下巻でおよそ一五〇〇頁の大作だ。療養中の従兄弟を見舞うためにアルプス山脈のダヴォス高原にあるサナトリウムを訪れた青年ハンス・カストルプ。彼は二週間の滞在予定でここに来るのだが、微熱が出たことをきっかけに滞在が延長し、それからなんやかやあって、なし崩し的に一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……しまいには数年まで滞在期間が延びることとなる。本来なら、サナトリウムから戻って船の設計技師として働くはずだったのに。

小説では変化に乏しいサナトリウムの毎日が描かれ、些細ないざこざこそあるものの、その穏やかな毎日にほとんど波はない。しかも、いわゆるビルドゥングスロマンなので、セテムブリーニやナフタといった衒学的な人物がでてきて主人公相手に宗教や政治についてぶったりする。我らが主人公、ハンス・カストルプはふむふむと聞いているのだが、同じ話を読まされているぼく (たち) はとてもじゃないが話についていくことができない。たぶんよっぽど教養がない限り、彼らの話に交わることは不可能だろう。ハンス君もすべて理解できているわけではない。サナトリウムではやることがないので、彼らは毎日そのように話している。結果、ぼく (たち) もその話を毎日聞くことになる。

というわけで長い上に話がむつかしくそう簡単には読み進められなかったのだが、それでも『魔の山』はおもしろかった。なぜか。一つにはそこで描かれる景色、穏やかさと激しさが表裏一体のアルプスの景色が美しかったのと、二つにははじめ耐え難い退屈と思っていたハンス・カストルプが次第に馴染んでいったように、読んでいるぼく (たち) も次第にサナトリウムの生活に慣れ、それどころか居心地の良さすら感じるようになっていくからだ。最初は退屈に感じながら読んでいた毎日にも不動の心地よさやそのなかに稀に訪れる変動に楽しみを見出すようになり、ああ面倒くせえと思っていたセテムブリーニ先生やナフタ先生のご高説もふんふんと聞き流せるようになる。いつしか「魔の山」から下りられなくなったハンス・カストルプのように、読者のぼく (たち) もいつまでも『魔の山』にいたいと思うようになる。この意味で、『魔の山』はモラトリアム小説でもあるのだ。彼の作品群、とりわけ初期作品にはモラトリアムもしくはこれに近いテーマが貫かれている。だからこそぼくは彼の小説が好きなのであり、進まない読書ながらも愛おしみつつ『魔の山』を読んだのだった。