『君の名は。』感想

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今更ながら、『君の名は。』を観ました。

僕はこれまで新海誠の映画は全部見ていて、『言の葉の庭』ではがっかりしたもののまあ好きな監督ではあったのですが、今作『君の名は。』に関しては実は全く観る気がありませんでした。それは前作の言の葉で落胆したせいであり、また粗筋などから伝わってくるチープさのためでもあったのですが、今回なぜ今になって観ることにしたのかというと、卒論で扱うことにしたからです。

僕はテクストの空間、中でも小説で表現される空間というテーマで卒論を書いています。テクスト (小説) による場の表現と視覚芸術による場の表現の相違について考える上で、映画よりも監督自らによって執筆された小説が先に発表されるという特殊な経緯を持つ『君の名は。』はうってつけの検討材料だと思ったわけです。

以下、『君の名は。』の簡単な感想になります。本来はこんなことを書いている場合ではないのですが、どうしても今、まだ映画の余韻が残るうちに書いておきたいので雑記的な形で残しておきます。たぶん、卒論が終わったら追記します。

ちなみに小説を読んだ上で鑑賞しました。

 

以下、ネタバレあり。

 

・ラッド興醒め。
・BGMが印象に残らない。これまでの天門のほうがよかった。
・秒速、星を追う子どもの成就系。途上として言の葉の庭がある。AIRCLANNADに発展したように。後者が前者の成就系のように。
・秒速、星を追う子どもには童貞性(理想化した他者(異性)あるいは過去にしがみつく少年)の批評性があった。その他者あるいは過去をこれ以上ないくらい美しく描きながら、それが成就しないことによる批判性があった。今作では成就してしまった(まさしく糸が結ばれてしまった)がゆえにその批判性が消え、童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっている。それがつまらないと感じてしまった原因だと思われる。
悠木碧がかわいい。
・小説を読んでいないと理解できないのではと思う場面が多々あった。自分が映画が苦手なのは、その切断性のためだろうか。
・絵、これまでのほうが綺麗だったような。
・とんとん進んでいく。挫折がない。あったとしても直後に解決され、また観ているほうも解決されることが容易に予測できてしまう。
・奥寺先輩の煙草のシーンいったか?
・ほんとラッドいらない。
・エンディングは曲自体は悪くない(けどいらない)。
・初めて瀧になった三葉がマンションを出て、東京の風景を観るシーンがハイライトか。この部分は小説を読んでいて「きっと描きたかったんだろうな」と思った場面なので凄く楽しみにしていた。小説版の描写もおすすめ (52ページ)。
・カメラワークの違い。小説は一人称。映画は三人称。ズームイン、ズームアウトは共通。小説は小出し。映画は一望。
・ぜんぜん飛騨(聖地)に行きたいと思わなかった……。東京の風景には惹かれた。
・映画は説明不足というのに関連して。テッシーがオカルトマニアなこととか、もっと説明必要では。あとカタワレ時とか。
・最後、「君の名前は」までのやりとり(「君をどこかで〜」)はいらない。せっかくの盛り上がりがトーンダウン。
・やっぱり登場人物の声とか容姿、風景を自由に想像できるのは小説の強みだなあと、皮肉にも視覚芸術の悪い点ばかりが目についてしまった。これまでの作品はテクストとは異なった良さを発見させてくれたのに。
・オープニング曲「前前前世」がミスリードになっている?(三年前なのに「前世」)
 

君の名は。』が流行りだして以来、よく友達に「新海誠ってどんな映画?」と聞かれるようになったのですが、そのたびに僕は「童貞映画」と答えていました。
別にこれはバカにしているわけではなく、ここでいう「童貞」とは、誰もが胸の内に温めている美しい思い出のようなものです。
 
新海誠の主人公は、皆胸の内にそうした思い出を残しています。たとえば『秒速5センチメートル』では主人公は小学生の頃好きだった女の子の面影を社会人になってからもずっと忘れられずにいるし、『星を追う子ども』の主人公は自分の窮地を助けてくれた男の子のことが忘れられずに異世界にまで赴きます。主人公とともに赴く男もまた、亡くなった妻のことが忘れられず、彼女と再会するために異世界を訪れています。
 
この愛慕の対象となる他者 (異性) は先に書いたように過去の「思い出」が具現化したものであり、それらは月日の経過とともに理想化され、いつしか彼らの生きるための依り所となっています。
そうした理想化され美化された他者 (異性) =思い出を新海誠は持ち前のこの上なく美しい映像で描くわけですが、これまでの映画では、同時にそこに強い批評性がありました。
 
秒速5センチメートル』では最後、主人公の前に小学生の時からずっと思い続けた女の子が現れます。二人は踏切の遮断機を隔てて向かい合い、主人公の少年 (成人していますが、あえて少年と書きます) は「もしや」との期待を込めて電車が過ぎ去るのを待つわけですが、電車が過ぎ去って目の前を見ると、もうそこに女性の姿はありません。二人は結局、最後まで再会できなかったわけです。しかも女性は既に別の男性と婚約しており、少年の存在に気づくことはありません。
 
ここから読み取れるメッセージとしては、「確かに思い出は美しいしそれ自体価値はあるけれど、でもそれだけにしがみついていてはダメだよね」というものがあります。つまり新海誠はそうした思い出を賛美しつつも釘を刺しているわけです。「現実を見ろ、前を見ろよ」と。

しかし『君の名は。』ではどうでしょうか。瀧と三葉は上り電車と下り電車という遮断を乗り越え、再会してしまいます。「君のこと、どこかで」と互いに求め合い、涙を流し、無事その恋を成就させてしまうのです。
「君の名前は」と呼びかけ合う最後はとても美しくキマッてはいますが、成就してしまったがゆえに従来の批評性が消え、単なる童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっています。

思えばこうなる伏線はありました。『星を追う子ども』は成就しないまでも最後一瞬だけ他者 (異性=思い出) の幻影と再会するし、『言の葉の庭』では離ればなれになるとはいえ互いの気持ちを承認し合います。途上にこれらの作品があり、その発展系として『君の名は。』が作られたのでしょう。
よってこの意味では新海誠は順調に歩み続けており、『君の名は。』は彼の新境地であるのかもしれません。しかし、それでいいのか——と、『星を追う子ども』以前の新海誠ファンである僕としては、横槍を挟まずにはいられません。
 
もともと、新海誠という稀有な存在は、その圧倒的な天体描写に表されているように、絶望的なまでの断絶、そしてその断絶ゆえの美しさ、すなわち手の届かないもの=既に失われてしまったものの美しさを描く存在でした。それは彼の初期作『ほしのこえ』に最も顕著に表れています。もちろんセカイ系という概念を持ち出せば話は複雑になってきますが、それでも根本的には新海誠の映画はディスタンスの映画であったはずです。
 
その距離が失われてしまってほしくないと——もしかしたらこれも「思い出」に固執する童貞性に過ぎないのかもしれませんが——ハッピーエンドのささやかな満足感と拭いされないモヤモヤに悩まされながら、そんなことを思いました。