ローズバッド【創作小説】


 私はこいのぼりが好きだ。春の柔らかな風にそよそよと吹かれているようすは、見ているだけで癒やされる。ふっとからだから力が抜けていき、どこか懐かしい気持ちになる。
 今朝になって街のこいのぼりが一斉に撤去されたのを確認して、しかたのないことだとはわかりつつもがっかりした。代わりに洗濯した服を干してみたけど、水に濡れて色を濃くした服はこいのぼりと比べるとやはり力が入っていて、なんとなく物足りない感じがする。脱力するまでには至らない。日常を思い出してしまうからかもしれない。
 きょうは大学が休みなので、私はいつも以上にぼんやりとしている。朝から雨との予報は外れ、いまのところは空は青い。息を吸い込むと、微かに花の香りがする。
 七階の狭いベランダからぼーっと景色を眺めていると、先月まで咲いていたたんぽぽの綿毛がふうわり上空を舞って飛んでいくのが見える。綿毛は太陽の光に照らされ、涙のようにまばゆく輝く。私は部屋にもどる。
 トーストを食べて身仕度をしたら、手提げを持って駅へ向かう。エレベーターの扉が一階で開くと、やっぱり少し花の香り。甘くて押しつけがましい匂い。
 駅に着く。春太はまだ来ていない。私はぶらぶらとそこらへんを行ったり来たりする。何度目かで、春太が改札に現れる。春太は全身に太陽の匂いを巻きつけている。
「悪いが徹夜明けなんだ。おやすみ悪しからず」
 へんな日本語を喋り、春太はベッドに寝転がる。私のベッドに。きのうから干しておいたスーツをさっき取り込んだばかりだから、きっと気持ちいいだろう。何のおそれも抱かずに眠りの世界へと身を沈めていくことができる春太を、私は羨ましく思う。でも、彼の寝顔はとてもすこやかで、幸せな温度に満ちている。私はそれを見ると、いつもお裾分けしてもらっているような気になる。安眠のお裾分け。
 眠っている人の隣は居心地がいい。
 私はつられて眠くなるということはないけど、それでもからだの奥からぽっと温かくなってきて、心の底から安心できる。本を読んでいても、大学の課題をしていても、編み物をしていても満たされた感触がある。私のすぐ後ろで、春太が安らかな寝息を立てている。その一定のリズムが私の耳朶を快く打ち、部屋に優しさを溢れさせる。たまらなくなって彼の頬を撫でると、少しくすぐったそうに声を漏らす。白のカーテンレースから漏れる太陽の光。ふんわりと舞う綿毛。目を閉じると、花畑が見える。私は花びらを撫でる。つるりと官能的な触感。きれいな薔薇には棘があるのよ。白薔薇が私に話しかける。私、きょうも刺しちゃったわ。赤薔薇が笑う。白薔薇も笑う。いつの間にか、私は青薔薇になっている。

* * *

「起きた?」
 目を覚ますと、いつの間にか私はベッドの上で寝ている。珈琲のいい香り。春太は甘党なのに珈琲はブラックで飲む。俺ん家、親が二人とも珈琲好きでさ。幼稚園のころから、珈琲はブラックで飲まされたんだ。それも、深煎りの苦い豆をだぜ。だから、珈琲って聞くとどうしてもブラックしか考えられなくなっちゃったんだよな。春太が話している。いや、こう話してくれたのは昔のことだ。いまじゃない。私はゆっくりと上体を起こす。カーテン越しに差し込む陽の光は少し暗くなっている。夕方になったのだと思う。
「何を食べようか」
「私、寝起きよ」
 手鏡で顔を見てみると、思ったよりもすっきりとした顔をしている。けっきょく、つられて眠ってしまった。春太が私を見て笑う。
「髪、ぼさぼさ」
「……ブラシ、取って」
 私が髪を直していると、春太がよっと立ち上がった。
「俺、西友でなんか買ってくるよ。希望ある?」
「待って、私も行く」
 外に出ると、すっかり日が沈んでしまっている。気温が下がり、ちょっと肌寒い。花の柔らかな匂いに変えて、夜の乾いた空気が澄んでいる。
 二人で買い物かごを押して歩いていると夫婦みたいだ。春太は、このときがいちばん照れくさくてかなわないと言う。何かと理由をつけて離れようとするので、がっちりと腕を固める。そうすると春太はおとなしくなる。
「タマネギあったよな」
「……たぶん」
「ベーコンは?」
「ない」
 私が質問に答えるあいだに、春太はぽんぽんと食材を放り込んでいく。そのうち、かごに入れられた材料から今夜のメニューがわかってくる。
「ナスとトマトのスパゲティー」
「で、OK?」
「うん」
 家に帰ると、春太はさっそく料理を始めた。
 まず鍋でお湯を沸かし、そのあいだに野菜を刻む。タマネギ、にんじん、ナス、トマト……。お湯が沸騰するとスパゲティーを入れてタイマーを七分にセットし、野菜とベーコンをオリーブオイルで炒め始める。塩と胡椒を少々。スパゲティーをざるに開けたのをフライパンに入れ、白ワインをすばやく一周させる。麺と具がよく混ざると、お皿に移して出来上がり。
 いつもながら、惚れ惚れするような手際の良さだ。
 春太は私と同じ二十歳のどこにでもいそうな男の子だけれど、見た目に反して (と言っては失礼だけど)、とても料理がうまい。私が作るよりも手際も味もいいので、いつもお願いすることにしている。春太も、料理は苦にならないらしい。代わりに、手先の器用さが求められる作業、たとえば裁縫とか――は私がする。春太はほどけたボタンをつけることができない。この年になって母親にやってもらうのもなんだか恥ずかしくてさ。私と付き合うまではボタンの取れた服は着られなかったと言っていた。
 食べ終えてから少し休み、それからお皿を洗っていると、リビングにいたはずの春太がふといなくなっていることに気づく。慌てて後ろを見ても、もう遅い。私は腕の中にいる。
「もう帰るよ」
「……うん」
 私はお皿を洗う手を止める。蛇口からとぼとぼと水が流れる。その音だけが部屋に響く。
「また来る」
「いつ?」
「たぶん、しあさって」
「……うん」
 それから春太は私の耳元で小さく囁いて、ぐっと強く抱きしめてから、ふっと力を解いて玄関に歩いていく。靴を履くと、手を振って行ってしまう。
 二度と来ないかもしれない。その後ろ姿を見て、いつも思う。

* * *

 春太がいなくなったら、私はどうなるのだろう。
 じぶん一人しかいなくなった部屋で、照明を落としてベッドに潜り、私はじっと考えている。春太は私にとっていなくてはならない存在だ。しかし私は彼にとっていなくてはならない存在だろうか?
 春太は実家暮らしだから、いつも十時までには私の家を出ていく。春太の緩い性格からは考えられないけれど、かなり厳しいご両親で、ほんとうは一人暮らしの恋人の家に行くことにだって反対らしい。けっしてやましいことはしてないから。ふつうは親に言わないような弁明をして、やっと許してもらえたのだと苦笑いしていた。春太の困ったような笑みが暗闇に浮かぶ。
 一人よりも二人のほうが淋しい。彼が帰ったあとの静寂が深まるだけでなく、恋愛それ自体にたぶん淋しさが含まれている。会っていても、どれだけ心が通じ合っていても、人間は他者を完全に理解することはできない。そのことがひしひしと感じられて、まっ暗な穴に突き落とされるような淋しさがある。
 電気を消して耳を澄ませていると、遠い宇宙で星たちが消滅していく音を聞くことができる。銀河の流れる衣擦れのような音。軌道に乗って回り続ける人工衛星。あらゆる孤独を吸い込み続けるブラックホール。座礁した宇宙船。
 この世はみんな孤独なのよ。聞き覚えのある声が言う。だからいつまでも求め合うし、それは終わることがないの。人が好き合うって、けっきょくそういうことよ。
 視界が薔薇の花で埋まっていく。私は薔薇のつぼみに吸い込まれていく。何層にも重なり合った花弁。孤独はなくならない。ふしぎな匂いが鼻孔を満たす。でも、分かち合うことはできるわ。
 青薔薇が降り注ぐ。この途方もない宇宙の片隅で、密かに息をする七階の孤独。それを埋めるように、ひとつまたひとつと青薔薇が降り注ぐ。固く閉じられたつぼみ。私の目の前に少しずつ花畑が立ち上る。私と彼の孤独を栄養に、いつか開かせることができるだろうか?