エピローグにおける「僕は元気です」の汎用性

 こんにちは! 今朝、怪しいおばさんに白目を青色に染められる夢を見たうみやです。夢の中で、どうやら僕は老人ホームのような施設にいたのですが、そこにいたおばさんに「わたしゃ昔は理髪師だったんだよ」と言われ、髪を染めてもらうことになり。しかしそこでおばさんが取り出してきた染色液がなぜか青色で、しかもぽたぽたと眼球に垂れて白目が真っ青になりました。僕が叫び声を上げてもおばさんは取り合ってくれず、「目が青くなったぐらいなんだい」とかいって解放してくれません。そういう夢を見ました。言わずもがなですが、目覚めの気分は最悪でした。


 ところで、僕は大学二年生まで文芸サークルに所属していました。文芸サークルといっても小説を執筆するものから評論活動をするもの、あるいは詩や短歌といった短詩型文学を扱うものまでさまざまなタイプがあるのですが、僕が属していたのは小説を書いてそれぞれの作品を評論し合うサークルで、そこでは毎回のように殴り合いの喧嘩が勃発していました。というのは冗談で、表面的にはにこやかながら内心では「てめえに俺の作品の何がわかるんだよ」といった本音がぷすぷすと燻る実に不健康な合評会が行われていました。

 そんないつ乱闘が起きてもおかしくない文芸サークルでしたが、一時期、こんな遊びが流行ったことがありました。


 小説の末尾に「僕は元気です」と添える。


 なぜこんな遊びが流行ったのかといえば、当時三年生だったある先輩が自分の小説の末尾に「僕は元気です」と書き、その作品を読んだ皆が「それは反則だろ!」と言い出したからです。
 実際に読んだことのない方にとっては何が反則なのかわからないかもしれませんが、これはいわばどんな他愛ない小説でもオチさせることのできる魔法の一行で、末尾にこの一行を添えられてしまうとそれまでどんなにくだらないことが書かれていようが許さざるを得なくなってしまうのです。
 「こいつは何を言ってるんだ」と思われた方のために、適当な例をお見せしましょう。題材には、ちょうどくだらない話ということで、この記事の冒頭で書いた夢の話を有効活用したいと思います。
 それでは、検証開始。


例1

「わたしゃ昔は理髪師だったんだよ」
 おばさんはそう言って僕をソファに座らせ、上からシーツを被せた。
「何色が良い?」
「えっと、……茶髪でお願いします」
 僕は特に髪を染めたいとは思っていなかったが、せっかくの申し出を断るのもおばさんに悪い気がして、おとなしく椅子に座っていた。おばさんはどこかから染色液の入った容器を持ち出してきて、刷毛のようなものでそれをかき混ぜてから僕の頭に塗りつけた。
 ぎょっとした。
「どうして青色なんですか?」
「茶色に染める時は青色を使うんだよ。いいからおとなしくしてな」
「は、はあ……」
 僕があっけに取られているあいだにも、おばさんはひと撫で、ふた撫でと着実に僕の髪を青く染めていく。抗議しようと腰を浮かしかけたが、その反動でずれたおばさんの刷毛が僕のまぶたに触れたので、咄嗟にまた腰を下ろしてしまった。
「やめてください!」
「髪を青に染められたくらいで何を騒いでるんだい。いいから黙ってな」
 おばさんは刷毛を動かす手を止めず、僕の前髪を青色のペンキでねちょねちょに塗りたくった。前髪からはペンキが滴って、僕の白目を青色に染めた。
「ペンキが目に落ちてくるんです! ああ、白目が青色だ!」
「まったくごちゃごちゃとうるさいねえ。目が青くなったって、別に死ぬわけでもなかろうに」
 僕は逃げだそうとしたが、とてもおばさんのものとは思えない強い力に押さえられてかなわなかった。
 そして、おばさんの「カラー」は終わった。
 終わってみると、確かにおばさんの言ったとおり髪の毛はちゃんと茶髪になっていたが、白目は青色のままだった。おばさんは鏡の前に立った僕をひとしきり眺めたあと、「ま、だいたいこんなもんさね」
 と呟いてどこかへ去っていってしまった。
 家に帰ると、家族の皆が僕の青い目のことを言い、心配性の母は「早く病院に行きなさい!」と叫んだ。実際、これは危険な状態なのだろう。これまで二十年近く生きてきたが、白目が青い人間など見たことがない。
 けれども僕は首を横に振り、自室にこもった。確かに危険な状態だが、だからといって絶望してしまうほどでもない。確かにおばさんの言ったとおり、目が青くなったところで死ぬわけでもないのだ。僕はこれから、この青い両目を抱えて生きていこうと思う。
 だから、心配しないでほしい。
 僕は元気です。
                                     Fin.



 ね? オチたでしょう? オチたということにしてください。
 もしこの小説に「僕は元気です」がなかった場合、「だから、心配しないでほしい」で終わることになって、それを読んだ者は、

「いや、心配するやろ!」
 とか、
「これまでの話何やってん!?」

 といった感想を抱き、非常に煮え切らない後味を覚えると思います。
 ですが、末尾に「僕は元気です」と添えると……

「ま、きみが元気ですって言うならいっか」
「……お、おう? そうか、まあ元気なら良かったな」

 って感じになるじゃないですか。許してしまえるじゃないですか。

 これでも納得できない方のために、もうひとつ例を挙げたいと思います。今度は、僕の大学にいる教授が題材です。この教授はいつも何かしらの批判か自慢話をしているのですが、この話がまた実に煮え切らないのです。
 たとえば今日の授業では、

寺田寅彦という物理学者がいまして……(黒板に「寺田寅彦」と書く)……この人は随筆家としても優れているのですが……この前、外山滋比古を読んだ時に……(「外山滋比古」と書く)……この人の文章は非常に明晰で……その、なんていうか……読んだだけで頭が良くなったような錯覚を起こさせる文章なのですが……これを読んだ時に……誰かに似ている、と思いまして……それで思い当たったのが……寺田寅彦だったわけです……そんな発見もあって最近……外山滋比古を読んでいたのですが……ある本に、やはり寺田寅彦に一時期はまっていた……というようなことが書いてありまして……昔に比べるとだいぶ衰えはしましたが……私の感覚も、まだ捨てたものではない……(そっと板書を消す)」

 といった感じです。煮え切らないにもほどがあります。これでは、聴き手も反応に困るってもんです。
 しかしこんな煮え切らない話でも、末尾に「僕は元気です」と添えると許せるようになります。ではさっそく試してみましょう。


例2

寺田寅彦という物理学者がいまして……(黒板に「寺田寅彦」と書く)……この人は随筆家としても優れているのですが……この前、外山滋比古を読んだ時に……(「外山滋比古」と書く)……この人の文章は非常に明晰で……その、なんていうか……読んだだけで頭が良くなったような……錯覚を起こさせる文章なのですが……これを読んだ時に……誰かに似ている、と思いまして……それで思い当たったのが……寺田寅彦だったわけです……そんな発見もあって最近……外山滋比古を読んでいたのですが……ある本に、やはり寺田寅彦に一時期はまっていた……というようなことが書いてありまして……昔に比べるとだいぶ衰えはしましたが……私の感覚も、まだ捨てたものではない……僕は元気です……



 よし、許す。
 ね? 末尾に「僕は元気です」と添えるだけで一人暮らしの若者がホームシックを抱えながら田舎の母に電話しているかのような健気さが生まれ、中途半端な話にどう反応すれば良いかわからなかった学生も「そうか、先生は元気なのか!」と話を前向きに受け止められるようになるのです。「僕は元気です」……何の変哲もない文章ながら、その実は恐ろしいまでの効果を秘めた一行なのです!



 以上、小説 (主にエピローグ) における「僕は元気です」の汎用性についての解説でした。いちおうは小説での使用を想定していますが、例2で示したようにただの話でも応用が利きます。その可能性は無限大!
 みなさんも、小説やブログ記事などで終わらせ方に困った時はぜひこれを使ってみてください。読者はきっと生暖かい目で許してくれると思います。
 逆に、この記事を読んでもさっぱりその有用性に納得できなかった方は、こんなアホな記事もあるんだと笑って許してくだされば幸いです。


 それでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。これから僕は、この記事に時間を取られたせいで一向に進んでいない大学の課題に取りかかろうと思います。提出日は明日です。
 僕は元気です。