これからのこと

ふがいない院生は空を見た

ひとりで過ごす週末における夕陽の透明度について

 特別支援学校での2日間の介護実習が終わり、おとといの晩、家に帰ってきました。やはり家がいちばんだと思う一方で、家に帰ってきた途端また自堕落な生活に舞い戻ってしまった現状を顧み、自分は早くひとり暮らしを始めたほうがいいのかもしれないとも思ったりしています。
 なにはともあれ、介護実習が無事終わりました。社会福祉施設での介護実習も先月終えたので、あとは振り返りの講義を受ければ介護等体験は終了となります。やる前は嫌だな面倒だなと思ってたけど、いざ始まってみたらいい感じで楽しむことができました。案ずるより産むが易し、ですね。
 先月の社会福祉施設、今回の特別支援学校での介護実習については、今月中にレポあるいは感想を書きたいと思っています。よろしければお読み下さい。


 さて、日曜日である本日は急遽予定が無くなってしまったため、昨日と同じようにまったりしていました。もともとは今日から1泊2日で旅行に行く予定だったのですが、一緒に行く予定だった父が風邪を引いてしまったため、残念ながら中止となってしまったのです。旅行では昨年に引き続き青森県十和田市奥入瀬渓流を訪れる予定だったので、紅葉を撮るのを楽しみにしていた父は僕よりもずっと落ち込んでいました。父の風邪が治ったら、どこか近場で紅葉がきれいな場所に行けたらいいなあと思っています。

 というわけでいつものように予定の無い日曜日を過ごすことになった僕は夜更かしが祟って11時に起床し、朝昼兼用のご飯を食べたあとはコーヒー (ニカラグアパカマラピーベリーフレンチロースト) を入れて明日の登山の計画を立てました。今回は久しぶりに平日の登山となるため、またいつもとは違った雰囲気を味わえるのではないかと楽しみにしています。落ち着いたら、またレポを書きますね。

 登山の計画を立て終わると既に15時半でしたが、1日家に籠もっているのもつまらないということで、愛車のDAHON Metro D6に跨がって家を出ました。ここのところ登山にばかりかまけて自転車に乗っていなかったので、メンテナンスも兼ねて乗りたいなと思っていたのです。

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 いやあ、やっぱり自転車は良いですね。
 自分の行きたい場所にまっすぐに行くことができるし、途中で気が変わったらすぐに方向転換できる。何より風を感じられるのが良いです。もちろん行ける距離には限界がありますが (ロードバイクはともかくとして)、無目的に街を散策しようというとき、自転車ほど適した乗り物はないと思っています (適した「手段」としては、自転車のほかにも徒歩があります)。なんていうか、その街の空気というか、素の顔が見られるような気がするんですよね。
 僕が家を出たのは15時半だったのですぐに日が暮れてきたのですが、そんな中シャッターを切っていると、たまたま新海誠みたいな写真を撮ることができました。

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新海誠みたいな写真。

 丘の上にあるベンチの感じとか夜が始まる前の空の感じとか、ちょっとぽくないですか? 具体的に言えば、『秒速5センチメートル』の「コスモナウト」で貴樹と花苗が丘の上のベンチで星を見上げるシーンに似てませんか? ……似てませんか。

 僕はこの公園が大好きでどうしようもない気持ちになったときやただ単に暇を持て余したときなどよく訪れるのですが、ここはほんとに夕陽がきれいで、それこそベンチに座って空を見ているだけで満たされた気持ちになります。今日はカメラを持っていったのでぜひともその感じを切り取ろうとシャッターを切りまくったのですが、満足する写真は1枚も撮ることができませんでした。上の写真はその中でまだ気に入ったものですが、それにしても今日あの時間、あの場所で秋の冷たい風を感じながら暮れなずむ空を眺めたときの感じを表現できているとはとても言うことができません。そしてそのもどかしさと向かい合ったとき、僕はこれが理由で良いじゃん、と思いました。
 というのは僕はつねづね自分が小説を書く理由、もっと言うと小説がこの世になくてはならない理由というのを気にしていて、ほんとうの芸術家だったらそんなことを考えるよりも先にとにかく書かなくてはいられないとは思うのですが、それでも面倒臭い人間である僕は何をするにも理由がないと安心できないのです。永井均が言うところの「ネクラ」なんです。
 でも今日の夕方、自分がいま立っている場所の満ち足りた感じをひとに伝えたい、表現したいと心の底から渇望したとき、小説を書く理由はこれで良いんだと思いました。つまり、世の中には実際にそのときその場にいないとわからないことがごまんとあって、それをだれかにわかってもらうには先述したとおりそのときその場に一緒にいてもらわなくてはならないのだけど、自分が伝えたいと思った瞬間にそれを伝えたいひとが隣にいるとは限らない。むしろ、隣にいる場合のほうが圧倒的に少ない。だからそれを伝える手段としての芸術があるのだなと。そうした思いを抱いたひとたちが絵を描き、小説を書き、詩を書き、曲を書き、写真を撮ってきたのだなと今更ながら実感したんです。これは大学で美術史を学んでいる友達が言っていたことですが、同じ時代同じ手法で描かれた絵にも、やはり地域ごとに異なる空気感というか透明度があるそうです。たとえば北欧の画家が描いた絵はどことなくその空気の冷たさや張り詰めた感じが伝わってくるし、南仏とかとなるとまた雰囲気がぜんぜん違うとのこと。画家も、その「場」の空気感を大切にしているんですね。
 小説だと、僕の好きな川上未映子の『ヘヴン』は最後の並木道の空気を伝えるためだけに書かれたといっても過言ではないし、吉行淳之介の『夕暮まで』だって最後のドアを閉めたときの「場」の感じを伝えるためだけに書かれたのかもしれない。もちろんそれは僕の身勝手きわまりない推論で、こんなことを作家に言おうものなら殴られても文句は言えないけれど、僕が言いたいのは、万が一そうした理由で書かれていたとしても何ら問題はないのだ、ということなのです。だって、そのときの「場」の感じ、空気、音、気配は間違いなく僕の人生経験の一部となっているのだから。

 長くなってしまいましたが、そんなことを考えながら逢魔が時、群青、夜の闇の下で自転車を漕ぎ、家に帰りました。やはり外に出ると頭が刺激されていろんなことが考えられますね。今日の気づきをバネに、いい加減小説を完成させたいと思います。

 それでは。