川の畔で寝転んで、東京の空を仰ぐ

 

夕さり時、仕事終わりの川井と待ち合わせて、ぼくらは多摩川をめざした。

 

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河川敷はテントが一張りあるだけで、静かで、暗かった。

ぼくらは川のそばにシートを広げ、腰を下ろした。

 

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たんまり買い込んだ食材は、あっさり食べ尽くしてしまった。

川の畔で食べる寄せ鍋は、想像を絶するうまさだった。

 

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食後、いつもはコーヒーだけど、今回は擬似キャンプということで、ココアを作ってみた。懐中電灯に虫が集まってくるので灯を消して作った。ところどころだまになっていたのは、ご愛敬。

 

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シートに寝転んで仰向けになると、月影に照らされた東京の灰色の空が見えた。星なんか一つも見えなかった。穏やかな風が新緑の梢を揺らし、頬を撫でていった。最初いたテントはとっくに撤収し、河川敷には見渡す限りだれもいなかった。懐中電灯を消すと、何も見えなくなった。人声も走行音も、何も聞こえなかった。時おり魚の跳ねる音だけが響き、静寂をいっそう深くした。

 

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青春だ、と思った。ぼくらはいま、青春をしている。

片づけを終えると、少し長い散歩をして、それぞれの日常に戻った。

GWの街はひっそりとしていて、家に帰り着くまでのあいだ、ほとんどひとの姿を見なかった。自分でもその意味がよくわからないまま、青春だ、青春だと心の中で思いながら、できるだけゆっくりペダルを漕いだ。ぼくは二十五歳になろうとしていた。

 

 

 

雑記

 

きょうは7時半に起床。夜更かしが祟ってか、体調悪し。余っていただしで雑炊を作り、梅干しを入れてたべる。読みかけの『ニューロマンサー』を読む気にならなくて、本棚でねむっていた関口尚『潮風に流れる歌』を読む。11時頃読了。中高生の頃はすなおに楽しめた物語も、いま読むと「けっきょくアンチミソジニストじゃねぇか」*1とか思ってしまうのでつらい。けど、楽しめたっちゃ楽しめた。やっぱ、こういうやる気がないときは読みやすい本を読むに限る。昨夜もニューロマンサーほっぽり出して、福田栄一ばかり読んでいた。福田栄一はぼくが高校二年生のときにはまった作家で、まさにアンチミソジニスト、たぶんフェミニストが読んだら一笑に付されそうな作風ではあるのだけど、やっぱりぼくは好きだ。『あかね雲の夏』、何回読み返していることか。

12時に家を出る。電車の中で気持ち悪くなり、途中で引き返そうかと思ったが、さすがに今季は語学の単位とらないとやばいし、ということで大学へ。3、5限をこなし、真っ先にスロープを下る。最寄り駅に帰ってきたのは19時頃だった。少し迷ってから、坂道を下りる。年度が替わるのを待って最寄りのファミマが喫煙所を撤去してしまったため、煙草を吸おうと思ったら坂下のコンビニに行かなくてはならない。

ファミマの喫煙所が撤去されてしまったことは何気に大きな痛手だった。その喫煙所は、

↑ の記事でも書いたように、ぼくにとってはいちばん身近で、少し特別な喫煙所だったのだが、自治体の条例が変更されるのに伴ってなくなってしまった。煙草一本吸うのにわざわざ坂下のコンビニまで歩いて行かなくてはいけなくなっただけでなく、ぼくにとってはこの喫煙所は眺めもよし、誘蛾灯よろしく喫煙者がどこからともなく集まってくる感じもよし、なによりこの場所で煙草を吸いながらいろいろなアイディアをメモしたり黄昏れたりしたなじみ深い場所だったので、なくなったのはショックだった。

坂を下り、長い信号を待ってからコンビニの喫煙所に向かう。きのう買ったばかりのアークロイヤルに火をつけ、鞄から津村記久子『とにかくうちに帰ります』を取り出して読む。

会社で働いたこともないのに、ついくすりと笑ってしまう。津村さんはほんとうに、会社における微妙な人間関係、ひとのちょっとしためんどくささを書くのがうまい。そして、面倒なやつであっても憎めないところが、いいひとそうであっても厄介なところが、書いてあって安心する。いま書いていて思ったけど、「わるいひとではないんだけど……」という人物の描写が一級品だ。だから身につまされる。決してわるいひとじゃなくとも、悪気ない言動がまわりにストレスを与えていることは多々ある、ということを。

わずか十分にも満たない喫煙時間だが、好きな作家の本を読みながら好きな煙草を吸う時間は至福だった。というか、きょう一日でいちばんほっとした時間だったかもしれない。それもどうなのって感じだが、こういう時間があるのとないのではその日の感触がまるでちがう。身近な喫煙所はなくなってしまったが、これからもこういう時間を持てたら、と思う。

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

 

 

最近よく聞いているトリプルファイヤーの話もしたかったのだけど、書き損なった。いずれ書きたい。


トリプルファイヤー「カモン/次やったら殴る/スキルアップ/おばあちゃん」@渋谷QUATTROワンマン

 

*1:もっとも、全編通して読んだときにその批判が当てはまるかどうかは微妙なところ。最初の話に対してはそう思ったけど、後の話でそこのところをカバーしてるかもしれない。

僕たちはどう生きるんだろうね

 

テレビをつけたらヒカキンが映っていた。

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、「新しい仕事」をテーマにした回だった。なんとなく見ているうち、東浩紀の小説を思い出した。たしか『新潮』か何かに発表されていた掌篇だが (調べてみたら『文藝』2014年8月号だった。作品名は「時よ止まれ」)、YouTuberが活動を突き詰めていった結果、最終的には自分の生活を24時間 (排泄や入浴も含む) 生放送するようになるという話*1で、当時はずいぶん極端な話を書くなあと思ったのだけど、思い返してみて、さすが東浩紀は先見の明があったのだなと思った。

というのは、YouTuberという仕事は、自分の生活やプライベートを売り物にしているんだなあと思ったから。毎日動画投稿を続けていると、どんなに発想豊かなひとでもネタが無くなってくる。そうなると、自分をコンテンツ化するしかなくなる。

東浩紀の掌篇を連想したのにはもう一つ理由があった。ヒカキンさんの次はプロゲーマーのウメハラさんが取り上げられていたのだが、YouTuberやプロゲーマーが仕事としてありえている背景には、世界が豊かになった、もしくはかなり効率化されてきたことがあるのではないか、と感じたのだ。

効率化され、豊かになったから余剰生産物が生まれる。YouTuberやプロゲーマーに象徴される「新しい仕事」は、まさしくこれではないだろうか。つまり、個人が動画を投稿すること自体は何も生み出さない。ゲームをきわめたところで何にもならない。けれど、それがお金になる。職業になる。

これはべつにYouTuberやプロゲーマーを貶めようというわけではないのだが、ちょっと前までの価値観なら「新しい仕事」であるこれらは「意義のない」ことに分類されていたと思う。つまり、それをしたからといって何かが生産されるわけではない。これはみんながみんな「意義のある仕事」(わかりやすいのでは農作とか公務員とか……) をしなくとも世界が (国が?) 回るようになったということで、だからその余剰分としてこういった仕事が生まれてきたのではないか。そのうちAIがほとんどの仕事を人間の代わりに担うといわれている時代だし、この先人間の仕事というのはむしろこういった余剰分、ちょっとしたエンタメ、いっときの暇つぶしに向かうのかもしれない。(僕もまさにいっときの暇つぶしでゲーム実況を見る)*2

かなり乱暴な考え方だというのはわかっている。「意義のある/ない仕事」という前提からして曖昧だし、そんな話を始めたら「じゃあスポーツ選手はどうなんだ」「小説家は?」「YouTuberやプロゲーマーも観客を沸かせる、受け手に感興を催すという点ではほかと変わらないじゃないか」という問題にまで広がって、収拾がつかなくなるから。

だからここでは普遍的な認識としてではなく、あくまで個人的な判断として話を進める。自分でもかなり意外だったのだが、どうやら僕はちょっと前までの「意義のある」仕事という価値観にこだわっているらしい。

1、2年前まで働くのいやだなあ、YouTuberになりてぇなあが口癖だったはずなのに、いざ考え出してみると、何よりも自分は「意義のある」仕事がしたい、と思っていることに気づいたのだ。仮にYouTuberとして暮らして行けたとしても、自分で意義がないと思ってしまうことをずっと仕事にするのでは精神が持たない、と思う。(あとヒカキンさん見てたらふつうにYouTuberたいへんそうやなと思った。たぶん実務的にも楽な仕事ではない)

「仕事の流儀」で興味深かったのはヒカキンさんもウメハラさんも同じことを言っていた点で、それは「自分にしかできないことをやりたい」という願望だった。ふたりともいまの仕事を始めるまではふつうに就職して働いていたようなのだが、その仕事を意義のある仕事だと感じつつも、「自分でなくともできるよなこれ……」と思ってしまうのがつらかったらしい。だから彼らはいまの仕事を選んだ。たしかに、ふたりともその分野で唯一無二の存在になっている。

僕も、自分にしかできない仕事をしたいと思う。でも冷静に考えて、自分にしかできない仕事をできるのはごく一部の人間だけだと思うので、そこまでは求めないから、せめて自分の興味、スキルを生かした職に就きたい。そして、自分が「意義がある」と思えることを仕事にしたい。

 

……とまあ、こんな当たり前の結論に至った夜だったのだが、肝心の中身、じゃあその条件を満たす具体的な仕事は? と聞かれると、まだはっきりしないんだよなあ……。

 

 

ま、悩んでてもどうしようもないんでES書きますが。(既にきつい)

 

*1:読んだの四年近く前だからほとんど印象しか残っていないのだけど、もしかしたらYouTuberと明記はされていなかったかもしれない。今度確認します。

*2:幕末志士が好き。

僕は青春ミステリが嫌いなのかもしれない

 

大学に入学したてのわずかなあいだ、ミステリクラブに所属していた。ほかの文芸サークルとの掛け持ちで、半年も経たずにやめてしまってからは、ミステリから遠ざかり、専ら「純文学」と呼ばれる小説ばかり読んでいた。

ミステリから遠ざかったのは恩田陸のせいだ。その頃、『麦の海に沈む果実』という小説を読んだ。大湿原を見下ろす丘の上に立てられた旧修道院の学校が舞台で、常に灰色の空に覆われた閉鎖的な環境、おまけに学校は特殊な技能に長けた生徒ばかりが集められた場所で、連れてこられた主人公の女の子は、記憶を喪っている——。文庫にして約五百頁の厚みのある本だが、『エコール』を思わせるような舞台設定、謎めいた登場人物、次々起こる事件の謎に、僕は夢中になって頁を捲った。

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

 

 

だけど、読み終えたときに残ったのは虚無だった。素晴らしい小説は読み終えたあとしばらく何も出来なくなるが、そういった種類の虚無感ではなく、自分が物語に裏切られたことに対する空しさだった。

ミステリは読者を騙すものだ。叙述トリックに限らなくとも、そこには隠された真実があり、意表を突いたトリックがある。自分の推理が当たっていたときの快感も大きいが、見事に騙された、してやられた快感もまた格別だ。むしろ驚きの少ないミステリは刺激が足りない。

けれども、『麦の海に沈む果実』は別の意味で僕を裏切った。今まで読んできた物語はなんだったのかと言いたくなるような、登場人物たちの思いはどうなるんだ、彼等は記号でしかないのかと怒りたくなるような結末で、事実、僕はそれ以来、ミステリを読むのをやめた。ミステリの倫理観について疑いを持つようになっていた。

そもそも、ミステリとは多くの場合殺人事件を描くものなのだから、そこに倫理観を持ち出すことは間違いである。僕も重々承知している。しかし、ただ殺されるために、騙されるために人物を配置し、読者を驚かせるために物語を描くことに対して、僕はどうしても割り切って考えることが出来なかった。

『麦の海に沈む果実』*1は、良くも悪くも僕に大きな打撃を与えた。あの小説の世界観は今でもたまらなく好きだ。読み進めていたときのわくわく感は忘れられない。それだけにいっそう、僕は傷を負い、ミステリから離れようと思った。

 

去年、僕の中でひそかなSFブームが起こった。そもそも僕はウエルベックが大好きな人間だし、それ以前にもディックや伊藤計劃を読んでSFの可能性、とりわけ哲学との相性の良さに目を見はった経験はあったのだが、去年はブラッドベリやハクスリーを読んでますますその確信が深まり、年の変わる直前に小川哲を読んだことが決め手となった。2018年は青背をいっぱい読もう、と思った。

同時に、そろそろまたミステリを読もうかな、とも思うようになった。かつて在籍したミステリクラブにもSF部門があったように、ミステリとSFの親和性は高い。去年の終盤にクイーンや有栖川有栖を読んだこともあった。クイーンの小説にはテクストであるからこそ可能である伏線の張られ方がなされていて、初めて意識的にミステリの可能性を感じた。仮にもミステリクラブに籍を置いていたのだから、今更そんな発見をするのもどうかとは思うけれど。

それから、またぼちぼちミステリを読むようになった。『毒入りチョコレート事件』はまさにミステリならでは、エンタメのための殺人、謎解きのための殺人が用意されていたが、今まで出会ったことのない多重解決型の筋にこんなやり方もあるのかと素直に感心した。『バイバイ、エンジェル』では初めてミステリに明確な問題意識を見た。確かにこのテーマはミステリで書かれるべきだと思い、これならミステリの存在意義を疑わないでいられる、と脱帽した。最近読んだなかでは『虚無への供物』に熱中した。これは紛う事なきめくるめく謎の世界、暗合に満ちた魅惑の世界でありながら、明確な問題意識もあった。僕のお気に入りの小説がまた一つ、増えた。

そして、今日。僕はまた一冊のミステリを読み終えた。ネタバレになるので作品名は伏せるが、少し前に大ヒットしたミステリで、僕の記憶によれば、その時期のミステリランキングの多くに座を占めていたのではないかと思う。読み始めるなり、僕はまたも熱中した。青春ミステリだった。事件の中で男と女が出会い、恋に落ちる。主人公の恋愛模様と同時に物語は進行していく。

青春ミステリを少しでも読んだことのある方なら察しがつくと思うが、そこで魅力たっぷりに描かれるヒロインは往々にして黒幕である。黒幕ではなくとも、なんらかの形で事件に関わっていることが多い。主人公は事件の謎を解くとともにその事実に気づき、じゃっかんの甘さと苦い感触を残して物語は幕を閉じる。

中高生のときに青春ミステリを読みあさっていた僕もそんなことは百も承知だったが、にもかかわらず、今回も手痛い打撃を喰ってしまった。僕が読んでいた小説は、叙述トリックだったのだ。

事件の真相を追っていく中で、徐々にヒロインの影が浮かんでくるのはいい。結果、彼女が黒幕で、苦さとともに終わっても構わない。けれども、叙述トリックは駄目なのだ。駄目というか、僕は好きじゃない。なぜなら、叙述トリックの目的は読者を騙すことにあって、物語に要請されたものではないからだ。物語に、読者を騙してやろうという、もちろんこれは作者によるサービス精神なのだが、メタ的な狙いが差し込まれる、というか、これが主眼である。僕はこれがどうにも我慢ならないのだった。

もちろん、叙述トリック自体を否定したいのではない。正直に言って好きではないが、それでも一つの技法だし、ときにそれが読者に大きな驚きを、すなわち快感をもたらすこともある。けれども、青春小説で用いられる叙述トリックは、読者に青春小説としての楽しさを感じさせておいて、それを終盤で一気に覆す、その振り幅の大きさを利用したテクニックで、物語のための技法というより、技法のための物語になってしまっていると感じずにいられない。倫理的にも、僕は好きじゃない。*2

なぜか? たとえば、『毒入りチョコレート事件』のようなミステリのための事件、殺人なら、最初からそういうものとして楽しめる。さすがにそこに倫理の物差しを持ってこようとは思わない。けれど、それが途中まで青春小説のような顔をして書かれていた場合、急なメタ的介入に、今までに読んできた物語は何だったんだと言いたくなる。僕が感情移入していたのは、ただの記号だったのか?

もちろん記号である。そもそも小説は文字という記号で書かれているのだから、登場人物どころか、そこに書かれたすべてが記号でしかありえない。けれども僕たちはそこに自分を投影する。記号であると知りながら情景を浮かべ、テクストの世界に入り込んでいく。急なミステリ的反転、「だってこれはミステリだもん」という開き直り*3は、さながら夢が醒めるような、それも強引に引っ張り上げられるような感覚である。これはリアリティのある世界なのか、それともミステリ的世界なのか? どっちかにしてくれと言いたくなるのは僕だけなんだろうか。

 

やりきれなくなって、本を閉じたあと、そういう悪い意味での裏切りがない青春ミステリを探した。思い浮かんだのは、樋口有介の『ぼくと、ぼくらの夏』と有栖川有栖『月光ゲーム』だった。米澤穂信古典部シリーズなんかも当てはまるかもしれないが、少々インパクトが弱い。*4

『ぼくと、ぼくらの夏』はすごく好きだし、書いてきたような悪い意味での騙し討ちはないが、途中からヒロインがフェードアウトして、最後まで登場しなくなるのが玉に瑕。『月光ゲーム』は決して苦くないとは言えない小説だが、先ほども書いたように、べつに苦かろうと、急な価値観の変転、レイヤーの変位さえなければ僕的にはOKなので、まあ今のところだとこれが青春ミステリ筆頭になるのかな。

と、考えてみると、僕はこれまで好きこのんで青春ミステリを読んできたにもかかわらず、多くのケースにおいて手痛い目に遭ってきたきたことがわかる。ミステリにおいて主人公が好意を抱いた人物、主人公に好意を抱いた人物が何らかのかたちで事件に関与している、というのはおそらく一つの定型なので、まあそこはしゃーなし、それでもおもしろい作品はたくさんあるのだからそこにケチをつけるのは間違っているにしても、一度でいいから、思いっきり爽やかな青春ミステリ、ヒロインは事件にまったく関与しておらず、だが恋愛模様と事件の進行が絶妙に絡み、最後は手と手を取り合っていけるような作品を読んでみたいなあ、というのは、あまりに大衆的な考え方だろうか?

 

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

新装版 ぼくと、ぼくらの夏 (文春文庫)

 
月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

 

 

*1:それでも、僕の本棚にはこの本が置いてある。

*2:散々「倫理」と連発しているが、そもそも小説は倫理的なものじゃない。たぶん、僕が引っ掛かっているのは物語としての倫理なんだと思う。

*3:ただいちど、この開き直りに安堵したことがある。「ああ、だってこれはミステリだもんな」と。それはクリスティのある小説を読んだときのことだった。

*4:なんて書いちゃってるが、僕の青春は米澤穂信杉井光で出来ていた。にもかかわらずほとんど読まなくなってしまったのは、嗜好が変わったのと、たぶん『氷菓』アニメ化のせい。

今夜はスマホを置いて寝よう

 

 

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鴻上尚史さんの『孤独と不安のレッスン』を読んだ。

少し肩の力を抜きたいなと思っていたときに、図書館で見かけたのだ。

鴻上さんは、孤独には「本当の孤独」と「ニセモノの孤独」があるという。

 この本は、「孤独の価値と素晴らしさ」を語った本です。その内容を、「本当だろうか? 本当に、孤独は価値があって素晴らしいんだろうか?」と、本を閉じた後、一人で考えられるのが、「本当の孤独」です。

「ニセモノの孤独」は、本を閉じた後、たとえば、すぐに誰かに電話やメールをします。一人であること、孤独であることが、みじめで、淋しくて、耐えられないと思っている孤独です。孤独は、つらくて、みじめで、カッコわるくて、恥ずかしい、と思い込んでいるのが「ニセモノの孤独」です。(「はじめに」より)

ぼくは、「一人であること、孤独であることが、みじめで、淋しくて、耐えられない」とは思っていない。けれど、寝る前はいつも、スマホを手に取る。意味もなくブログやユーチューブを立ち上げ、もう何度も見た動画を再生したり、過去の記事を読んだりする。これは、「ニセモノの孤独」だろう。

とはいっても、照明を落とした部屋で、じっと眠りを待っているのはつらい。ついいろいろなことを考えてしまうし、夜は不安が育つ。考えてもしかたのないことばかり考えて、押しつぶされそうになる。これは、「後ろ向きの不安」だ。鴻上さんは、「前向きの不安」は生きるエネルギーをくれるが、「後ろ向きの不安」は生きるエネルギーを奪う、と書いている。

では、それが「ニセモノの孤独」であっても、「後ろ向きの不安」に潰されるくらいならネットワークの網に逃げたほうがいいのか、というと、やっぱりそんなことはなくて、ぼくらがユーチューブを再生しているあいだも、じつは「後ろ向きの不安」は刻々と膨らんでいるのだ。後回しにした分、不安はさらに肥大化してのしかかってくる。やはりどこかで「本当の孤独」と向き合い、自分の身体や心と対話する必要があるのだ。

とはいっても、とやはりぼくは思う。頭では理解できても、それを実行に移すのは大変だ。現に、ぼくはこの本を読み終えてからも、暗い部屋でスマホを手に取ってしまった。

少しずつで良い、と鴻上さんは云う。いきなり1時間は走れない。10分、15分、20分と続けて、徐々に身体を慣らしていけば良いのだ。

 

——だから、今夜はスマホを置いて寝よう。

眠れなくても良い。目をつぶって、夜の静けさを聴いていよう。

 

 

 

切り捨てがプラスになることはほとんどない

 

昨夕、先生からぼくの歌が歌会でいちばん票を集めたとメールがきた。歌会というのは参加者が持ち寄った歌を無記名で印刷し、どれが誰の歌か判らない状態で気に入った歌に投票するという催しだ。

既に何度も書いているように、ぼくは昨年の九月末から胃潰瘍逆流性食道炎に悩まされ、ぜんぜん授業に出席できていなかった。この日も最後の授業でありながら、けっきょく、ぼくは歌だけ提出して出席することができなかった。

 

自分は数え切れないものを切り捨ててきた、と思う。もともと同じ集団に属しているのが苦手で、中学生の頃に入ったバスケ部も、大学で入った文芸サークルも一年で辞めてしまった。キャパシティが小さいのだ。最初どんなに楽しく思えたものでも、余裕がなくなるとすぐに切り捨てた。返事を返さなくなり、人付き合いは途絶えた。

肉体の不調はすべてのキャパシティを低下させる。今期、ぼくはほとんど大学に行かなかった。あれだけ親しくしていた同期とも、たまに顔を合わせただけだった。それどころか、ぼくは時間が有限であることに取り憑かれ、短詩型まで捨てようとしていた。

そうなのだ。病身になってから、修士の一年目が終わりかけてから、自分の進む道を絞ったほうがいいのではないかと考え始めた。ぼくは詩を読むのも短歌を読むのも好きだったが、根は散文的な人間で、ロジックがあるもののほうが好きだった。小説や批評のほうが読んでいて理解できたし、自分に向いていると今でも思っている。

ぼくが詩を読み始めたのは、学部生の頃、詩人の蜂飼耳さんの授業を聴いたからだった。ぼくは『春と修羅』に出会い、『日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく』を知った。短歌を読み始めたのは、大学院に入って、短歌がじょうずな同期と出会い、現代歌壇の第一線に立つ先生と出会ったからだった。どちらもぼくに新しい世界を見せてくれた。それを、ぼくは切り捨てようとしていた。

歌会は授業を受講している十人足らずの院生の中で行われる小規模なもので、そこでたったいちど評価されたからって、とりたてて騒ぐことではない。たまたま、今回、好意的に受け取ってもらえただけだ。でも、ぼくはうれしかった。夕焼けがいつもよりきれいに見えたくらいには、うれしかった。

思えば、ここのところ体調のことばかり気にしていて、創作をしていなかった。

 

別の話になるが、きょう、ゼミが最後ということで、某大物作家の先生と受講者四人で飲み会を開いた。夜がいちばんしんどくなるぼくは正直気が重かったが、同期と先生が終始気をつかってくれたおかげで楽しく会は終わった。終電間際に別れるときには、これから春まで会えないのかと思い、いっちょまえにさびしい気持ちになった。

ほんとうをいえば、ぼくはきょうの飲み会でさえ、ギリギリまで行くかどうか迷っていた。病身になって以来、外で晩ご飯を食べたことはなかったし、そもそもが、電車で一時間近くかかる大学に行くのさえ、ぼくには大きなハードルだった。身体を壊してから、電車に乗るとやたら酔うようになり、目が回るようになった。きょうも、大学に着くまでにいちど電車を降りてしばらく休まなければならなかった。

ぼくにとって一時間の距離は、がんばれば乗り越えられるが、逆にいうとがんばらなければ乗り越えられない壁だった。だから、きっとがんばれば行けたはずの授業を、今期、ぼくは休み続けた。

どれだけの可能性を切り捨ててきたのだろう、と思った。授業に出れば、いつも思いがけない発見がある。同期と話せば、自然とやる気が湧いてくる。負けてられない、と思う。親交も深まる。それに、認知行動療法というのもあった。元凶である (はずの) ピロリ菌が (おそらく) いなくなったいま、ぼくが電車を極端に怖れるのは、逃げられない閉鎖的な空間、しかも大勢のひとがいる——という心理的要素も少なからず絡んでいるはずだ。でも、だからといっていつまでも避けていては、事態はいっこうに変わらない。思えば、かなりの無理を承知で出かけた正月の旅行のときだって、肉体的にはきついはずなのに、ふだん家に引きこもっているときよりも活力が湧いていたではないか。あの旅行を境に、ぼくは少しずつ外に出られるようになっていったのではなかったか。

こんなことを書くのは、ぼくはきょう、ひさしぶりに自分が身体を壊していなかったときの、快活な感じ、精力的に大学に通っていたときの感覚——を思い出したからだ。もちろんお腹の重さ、酸がせり上がってくるような気持ち悪さはなくならない。飲み会でも、ほとんどものを口にすることができなかった。でも、夜更けの街を歩きながら「何かを書きたい」と思うこの感覚は、ぼくが踏ん張って大学に行き、飲み会に参加したから得られたものだった。

だからいま、ぼくはあまりに切り捨て過ぎてしまった今期の自分を反省している。もちろん、現に身体を壊しているのだから、前期と同じように出席するのは無理だ。すべてが精神的な問題ではなく、実際にぼくの身体は不調を訴えている。しかし、切り捨ててもよいという意識がなければ、もう少しは授業に出られたのではないか。新たな出会いがあったのではないか。昨日だって、どうやっても行けないというほど不調ではなかったのだから、出席すればよかった。自分の歌に対するコメントを聞けば、さらに何かが思いついたかもしれない。同期とおもしろい話ができたかもしれない。欠席したぼくは、けっきょく、家でYouTubeを見ていただけだった。

 

切り捨てることで時間を得ようという考えは、(ぼくの場合) たいていマイナスになる。切り捨てるのではなく、少しでも自分のキャパを広げていくこと。切り捨てるのは自分ではなく、時間だ。そのうちきっと、否が応でも切り捨てなければいけないときがくる。だがそれまでは、自分の可能性を模索することが許されている、と思う。

きょう、修士一年の最後の授業が終わった。同期と会える回数も、先生と会える回数も限られている。ぼくはもっと、今ある可能性を大切にしなければならない。

 

 

フォトジェニックの午後

 

 

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 出かけよう、出かけようと気持ちだけは焦りながら、だらだら過ごしてしまう日が続いた。トートバッグの中身をリュックサックに移し、思いきって電車に乗った。

 夏への扉で珈琲を飲んだ後、青梅丘陵を少し歩いた。足を止めた東屋から、うっすらと筑波山の輪郭が見えた。煙草も吸わず、本も読まず、ただ風に吹かれてぼーっとしていた。

 

 思いついて途中の駅で降り、多摩川へ向かった。羽村取水堰は、ずっと行ってみたいと思っていた場所だった。

 

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 自分の立っている場所が、とてもしっくりくる瞬間がある。パズルのピースが合うみたいに、自分がその場の構成分子になって収まっているような感覚。一つのピースに過ぎないが、欠かすことのできない存在。いまこの文章を書いていて、「スティル・ライフ」のある場面を思い出した。三月の初め、「ぼく」は雨崎という地名の海辺に出かけ、「岩になるために」身じろぎせず、じっと坐りこんで、雪が海に吸い込まれて行くさまを見ている。

 音もなく限りなく降ってくる雪を見ているうちに、雪が降ってくるのではないことに気付いた。(…) 雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。(池澤夏樹スティル・ライフ」)

 

 けれど実際に河川敷を歩きながら考えていたのは、ペーター・ツムトアの「空気感 (アトモスフェア)」だった。きっと彼の云う空気感とはこんな感覚ではないか、と思った。

 その場の風と光、「空気感」に自分が合一しているのを感じたとき、ぼくは非常な幸福を感じ、きまって小説を書きたくなった。今日、ぼくは久しぶりにそうした感覚に包まれ、光と影に縁取られたシーンが幻燈のように幾つも脳裡に浮かんだ。それをそっと携えて、帰路についた。冬休み最後の日に、ずっとほしかった天体望遠鏡をもらったような、そんな気分だ。

 

 

 

 

 

空気感(アトモスフェア)

空気感(アトモスフェア)

 

 


Gilbert O'Sullivan - Alone Again (Naturally)