結局、「読まれる」ためよりも「読む」ために書いている。

 

 ぼくは今まであいまいな態度でブログを書いてきた。というのはブログ自体が日記のようでありながら第三者に開かれているあいまいなコンテンツだからだが、時に見知らぬ第三者に呼びかけ、時にそれこそ日記のように自分に沈潜しながら、いつもぼくはこのブログのあいまいさ、より具体的にいえば「ぼくはだれに向けてこの文章を書いているのか」という落ち着かなさを覚えながらブログを書いてきた。この戸惑いはそのままぼくのあいまいなエントリ、だれに向けて書かれたのかいまいちわからない文章に表れていると思う。どこどこに行ってきました、と第三者に語りかけながら、ひたすらプライベートなことを書き連ねている矛盾。しかしそうと知りながら、ぼくは個人的なことを書かずにはいられない。そんなもの、ぼくを知らないひとが読んでもおもしろくもなんともないはずなのに。

 結局、ぼくは「読まれる」ためよりも「読む」ために書いているのだと思う。もちろん、アクセス数がのびていたらうれしい。はてなスターがもらえた日には小躍りする。深夜、ひとり黙々と書き連ねた文章を読んでもらえたのだと思うと、孤独から救われるような、ぽっと灯りのともるようなあたたかさを感じる。

 でもやっぱり、ぼくは自分のためにこのブログを書いている。自分がいま思っていることを整理し、残しておくために書いている。あとで「読む」ために書いている。事実、ぼくは自分のエントリを読み返すことが多い。過去の文章を読んでいると、そのときに思っていたこと、考えていたことを思い出すことができる。そればかりか当時オブジェクト・レベルでしか見えていなかったことがメタ・レベルで見えてきたりする。つまり客観視することができる。もちろん恥ずかしくなることも多い。自分はどれだけ甘ちゃんなんだとしばしばあきれかえる。決意ばっかでぜんぜん行動しないなこいつ、とかいまの自分を棚に上げて思ったりもする。

 登山記録を読めば当時の楽しい記憶を思い出して癒やされるし、わずかながらアップしている創作小説を読んで厭になったり、案外わるくないやんと元気になったりもする。これはもしかしたらコンテンツ化した自分の日々を消費して悦んでいるだけの自慰行為に過ぎないのかもしれない。でも自分の日々が、そこで感じ考えたさまざまなことがわずかでも文章というかたちで残っているのはいいことだ。書き記しておくことにより、ぼくは過去の自分と対話することができる。そしてたぶん、未来の自分とも対話することになるのだ。

 

 

進まない読書

 

今月九日からかれこれ十日、未だに一冊の本を読み続けている。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』。頁数は現在二〇〇頁。一日の読書量に換算するとちょうど二〇頁で、要はぜんぜん進んでいない。

もともと極端に遅読のぼくだが、さすがにここまで進まないのはなかなかない。たしかに『冬の夜ひとりの旅人が』は一癖も二癖もある厄介な小説だが、今回はそれにしても遅い。しかも、決して本がつまらないわけではないのである。どうも先日激しい頭痛で寝込んで以来、一時的に中断されたせいか、読書の習慣が途切れてしまっているらしい。いい加減うんざりしてきたし早くほかの本も読みたいので、今晩から多少無理にでも本と取っ組み合っていきたいと思う。

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

 

 

さて、進まない読書といえば、去年読んだ阿部和重シンセミア』も進まなかった。

もともと、ぼくは阿部和重の小説が苦手だ。『グランド・フィナーレ』はともかく『アメリカの夜』は苦戦しながら読んだし、前者にしても消化不良の感はぬぐえず、けっきょく何がいいたいのかがわからなかった。そう、ぼくにとって阿部和重の小説とは、けっきょく何がいいたいのかがわからない小説だ。『シンセミア』もそうだった。確かに読ませるし終盤の迫力とスリルに満ちたカタストロフィはさすがなんだけど、けっきょく何がしたかったのか、何がいいたかったのかがわからない。何もいいたいことなどないといわれればそれまでなんだけど、根源的に本を読むとは作家と対話することだと思うし、ならばこそ何も伝わってこない小説に没入することはできない。筆力があるとはいえ、文章で勝負するタイプの作家でもないしなあ。だからこそ、神町サーガが紀州サーガと比較されることに懐疑的になってしまう。土着的という点では共通しているかもしれないが、中上健次の小説には語る者と語られる者としての対話性があるし、何より読んでいて死、つまりは人生について思いを馳せずにはいられない。『鳳仙花』はほんとうによかった。まあ、単に好みの問題だけかもしれないが。

シンセミア(上) (講談社文庫)

シンセミア(上) (講談社文庫)

 

 

去年読んだ本では、江國香織『神様のボート』も進まなかった。

例によってやはり苦手な作家だった。それでも読んだのは卒論で扱おうと思ったからだったが (『シンセミア』もそうだった)、内容はともかく、小説の大半が心内語で成り立っていて、風景描写だけでなく心理描写すらほとんどない。べつにぼくはフローベールが好きな人間ではないが、さすがに心内語だけで成り立つ世界にはうんざりした。確かに「海」「公園」と固有名詞を書き込まずに土地を描くことによって曖昧な、ある種夢のような小説世界を形成することに成功しており、またその世界が母葉子の少女のような世界観とも合致してはいるのだが、ぼくは魅力を感じることができなかった。

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

 

 

と、なんだか文句ばかりいっているが、同じ進まないにしてもおもしろいのに進まない、というかなかなか読み終わらない本もあった。去年読んだ本では、たとえばトオマス・マン『魔の山』がそれに当たる。

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

 

 

文庫上下巻でおよそ一五〇〇頁の大作だ。療養中の従兄弟を見舞うためにアルプス山脈のダヴォス高原にあるサナトリウムを訪れた青年ハンス・カストルプ。彼は二週間の滞在予定でここに来るのだが、微熱が出たことをきっかけに滞在が延長し、それからなんやかやあって、なし崩し的に一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……しまいには数年まで滞在期間が延びることとなる。本来なら、サナトリウムから戻って船の設計技師として働くはずだったのに。

小説では変化に乏しいサナトリウムの毎日が描かれ、些細ないざこざこそあるものの、その穏やかな毎日にほとんど波はない。しかも、いわゆるビルドゥングスロマンなので、セテムブリーニやナフタといった衒学的な人物がでてきて主人公相手に宗教や政治についてぶったりする。我らが主人公、ハンス・カストルプはふむふむと聞いているのだが、同じ話を読まされているぼく (たち) はとてもじゃないが話についていくことができない。たぶんよっぽど教養がない限り、彼らの話に交わることは不可能だろう。ハンス君もすべて理解できているわけではない。サナトリウムではやることがないので、彼らは毎日そのように話している。結果、ぼく (たち) もその話を毎日聞くことになる。

というわけで長い上に話がむつかしくそう簡単には読み進められなかったのだが、それでも『魔の山』はおもしろかった。なぜか。一つにはそこで描かれる景色、穏やかさと激しさが表裏一体のアルプスの景色が美しかったのと、二つにははじめ耐え難い退屈と思っていたハンス・カストルプが次第に馴染んでいったように、読んでいるぼく (たち) も次第にサナトリウムの生活に慣れ、それどころか居心地の良さすら感じるようになっていくからだ。最初は退屈に感じながら読んでいた毎日にも不動の心地よさやそのなかに稀に訪れる変動に楽しみを見出すようになり、ああ面倒くせえと思っていたセテムブリーニ先生やナフタ先生のご高説もふんふんと聞き流せるようになる。いつしか「魔の山」から下りられなくなったハンス・カストルプのように、読者のぼく (たち) もいつまでも『魔の山』にいたいと思うようになる。この意味で、『魔の山』はモラトリアム小説でもあるのだ。彼の作品群、とりわけ初期作品にはモラトリアムもしくはこれに近いテーマが貫かれている。だからこそぼくは彼の小説が好きなのであり、進まない読書ながらも愛おしみつつ『魔の山』を読んだのだった。

 

正月に一泊二日で登山に行ったときの記録

 

1月2日(月) 晴

 

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7:50 三つ峠駅

 

箱根駅伝が始まる新年二日目の朝、僕とKくんは三つ峠駅に降り立っていた。

Kくんはぼくの幼馴染だ。しかし僕とは違い、社会人三年目である。この度、彼の貴重な正月休みに泊まりがけで登山することになった。駅名からお察しかと思うが、登る山は三ッ峠。『ヤマノススメ』で主役級の四人が初めて皆で登った山だ (確か)。そして日本二百名山、山梨百名山にも選ばれている有名な山である。また文学徒として忘れてはならないのは、この山が『富嶽百景』で太宰と井伏鱒二が登った山であるということだろう。

 

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登山口までは三つ峠駅から30分ほど歩く

 

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歩き出してすぐにこの景色

 

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 そろそろ登山口も近い

 

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登山開始。序盤だけ舗装路を行く

 

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序盤、神鈴の滝に行くコースとそうでないコースとの分岐がありますが、すぐに合流するのでどっちを選んでも問題ないです。僕たちはどうせならと滝コースを選んだ。

 

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股のぞき。上の写真と同じ場所

 

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同じ場所で何枚も撮ってしまう。これ、絵はがきみたいじゃないですか?

 

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八十八大師

 

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水気のあるところはもれなく凍ってました。地面には霜も (だがアイゼンはなしでへいきだった)

 

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三ッ峠山荘付近。ここまで来ると山頂は目の先

 

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南アルプスの山々

 

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11:40 三ッ峠山頂着 海抜1786m

 

この山頂からの眺めが圧巻だった。

 

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そして、待ちに待ったお楽しみ。

 

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昼食のホットサンド。

実は今回の登山は、これが最大の目的でした。Kくんが『山と食欲と私』という漫画に触発されてホットサンドメーカーを購入したとのことで、「次の登山ではホットサンド食べよう!」と盛り上がっていたのです。具はベーコンとチーズと卵。ホットサンドメーカーはフライパンにもなるとのことで最初にベーコンを焼き、それからコンビニの卵サラダ (最初からマヨネーズと和えられている) とチーズを挟んで焼いてくれました。

これが泣けるほどうまくて、しかもコーヒーと合って、素晴らしい昼食となりました。山頂にレジャーシート広げてかたやホットサンドを作り、かたやコーヒーを入れるさまはあたかも山ガール。そうか、山ガールはこんな楽しみ方を知っていたのか。僕らももっと山ごはんの可能性を追求していこう。

山と食欲と私 1 (BUNCH COMICS)

山と食欲と私 1 (BUNCH COMICS)

 

 

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13時頃、下山開始。今回はカチカチ山からロープウエイで下山します。

 

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下山開始から約1時間が経過。眼下に望むは河口湖。この日泊まる宿は写真中央右よりの山と山に挟まれた地域にあります。河口湖のノースサイド。

 

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いやあ、にしても景色が素晴らしい。

 

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やはりこうした偉容に出会うと、不二の山なんだなあ、と。(そして富士山は登るよりも眺める方がいいなあ、なんて)

 

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天上山 小御嶽神社付近 ここまで来ればロープウエイも近い

 

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15時半頃 (だったと思う)、カチカチ山ロープウエイに到着。中国人観光客がいっぱい。

 

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ロープウエイで河口湖畔に降りる。降りたところから河口湖駅までは徒歩10分。

 

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河口湖駅

 

時刻は16時頃。河口湖ノースサイドにある宿に行くバスの最終は17時45分。ちなみに宿の近くにはお食事処は皆無。コンビニは20時に閉まるヤマザキだけ。……

 

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致し方あるまい (16時過ぎ頃入店)。

 

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山梨名物、ほうとうを食す。実はほうとうはそこまで好きではないのですが、ここのほうとうは食べやすくておいしかった。

 

食べ終えたらコンビニで酒&つまみ、デザートなど調達し、17時30分のバスへ。

 

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18時過ぎ頃、本日の宿、「民宿鎌倉」に到着。いちばん近くまで行くバス停から15分ほど歩いたのですが、その間東京にいたらお目にかかれない闇の濃さで (星もめちゃめちゃ綺麗だった!)、ああ、旅行に来てるんだなあと思った。

 

a.m. 2:00 就寝 ————————————————————

 

1月3日 (火) 晴

 

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朝、宿を出た僕らはとりあえず温泉へ向かう。

 

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途中、出会った景色。温泉までは湖に沿って歩く。

 

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野天風呂天水。民宿鎌倉からは徒歩で30分ほど。ここは久保田一竹美術館の坂上にあり、美術館の方にバス停があるので時間が合えばバスで来ることも可能です。

 

朝風呂で昨日の登山の疲れを癒やした僕らはバスで河口湖駅のそばまで行き、それからバッティングセンターに立ち寄ったあと、Kくんが前から行ってみたいといっていた「ほうとう小作」に向かいました。食べログで3.58 (1月17日現在) というすごい数字をたたき出しているお店です。有名店だそうです。

 

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駐車場は満車で道路にはずらっと車が列をなし、店内も待っているひとでいっぱい。でも徒歩で行ったのとキャパが広いおかげで15分ほどで席に着くことができました。

 

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名物のほうとう (これは「豚肉ほうとう」) 1400円

 

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と、天ざる (1100円)

 

ほうとうはKくんが注文したもの、天ざるは僕が。

……ほうとうは昨日で「もうええかな」と思っていたので頼んだのですが、いざ天ざるが置かれた途端、まわりの客にどん引きされました。確かに食べログ3.58の名店に来てほうとうを頼まないやつはおかしいんでしょう。でも飽きたんだからしょうがない。Kくんいわく、さすがにめっちゃおいしかったそうです。昨日行った「ほうとう不動」と甲乙つけがたいとのこと。

あ、天ざるもおいしかったです。

 

何時やったか忘れたけど、小作から河口湖駅まで戻ったのち、帰路につきました。

地元でラーメン食って、話したいがために電車には乗らず30分ほど歩いて……。いい正月だったなあ。去年の正月もKくん含めた幼馴染三人組で箱根の金時山に登ったんですが、そしてその正月登山も楽しかったのですが、やはり一泊できるとゆっくりスケジュールを組めるし、登山だけでなく観光まで楽しめる。いや、ほんといい正月だった……。

 

来年もまたやりたいなあ。

 

いつの間にか僕らも

いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった

暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ

——ユニコーン「すばらしい日々」

 

八日 (日)、大学の友達と柴又帝釈天に初詣に行って来ました。

「大学の友達」といっても僕以外の三人は既に卒業して働いているため、大学時代の友達といったほうが適切かもしれません。このブログが開設された直後に「シュレディンガーのパン」というくだらない話を書きましたが、この話に四回生として登場したコージもメンバーのなかにいました。立派な社会人として。

僕らは一四時に柴又で待ち合わせ、昔ながらの駄菓子屋や「とらや」などに寄り道しつつ参道をぶらぶら、帝釈天に向かいました。昔は「小説家になれますように」とも祈っていたんですが最近は他力本願ぶりに失笑し、家族と自分の健康、安全無事だけ祈っています。なんで初詣自体はあっさり過ぎて、御守りを買うという発想すら浮かばずすぐに次の目的地、矢切の渡しへと向かいました。

ちなみにこの日は雨です。しかもニュースではこの冬いちばんの冷え込みと報じています。

そして矢切の渡しとは東京と千葉を隔てる江戸川の渡し船のことです。つまり矢切の渡しに向かうとは、江戸川の河川敷に向かうということでもあります。

超寒かった。

しかもなぜかメンバーのひとりがゴムボールを持ってきていて、雨と寒風のなかキャッチボールと洒落込みました。楽しかった。でも超寒かった。

(……と、こんなプライベートなことを書こうと思ったのではなかった。キャッチボールのあと僕らは山本亭に避難し、そこで風雅なひとときを過ごしたのちも立石の呑んべ横丁に移動したり定番のカラオケに行ったりしたのですが、いまここではそれらのことを事細かに記録しておこうと思ったのではなくて、この日自分が思ったこと、感じたことを整理しておこうと思ったのだった)

思ったこと、感じたこと。それは一言でいえば「いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった」ということです。

いやいやいや、自分まだ二十三やろ。ぜんぜん年とってへんやん。めっちゃ若いやん。と思う方もいるかもしれませんが (というか自分でセルフツッコミしましたが)、それでもまだみんなが大学生だった去年と比べると、だいぶ雰囲気が変わったなあと。

やっぱり根本的に、人生観が違うんですよね。社会人と学生の別を問わず人生観は人それぞれ違って当たり前ではあるんですが、それでも去年のみんなといまのみんなでは明らかにそれが変化しているし、自覚というか、自分の年齢や可能性に対するスタンスなんかもぜんぜん違っている。要は「大人になっている」。

不定期ながら毎年二、三回 (三、四回?) は必ず会っているみんなはほんとうに気の良い人たちで、そのやさしさやおもしろさは変わらないんだけれど、それでもやっぱりみんな大人になっているんだなあ、確実に社会人になっているんだなあと、そしてそんなみんなにつられ、「いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった」んだなあと思いました。あの日カラオケの一曲目で「すばらしい日々」を歌いたくなったのは、そんな感慨もあったのかもしれない。

少しずつしかし着実に大人になっている同窓生に、自分もいい加減大人にならないとなあと焦りつつ、でも永遠にキッズでいたい、キッズとして生きていけるだけの「売り」がほしい、とも思ったり。ほしい、では他力本願やから「手に入れてやる」、ですかね。「手に入れてやる」。でも、僕の「売り」って何だ? 

 

黒澤明『羅生門』——「視線」をめぐる考察

 

卒論でテクスト表現との相違について書くにあたり、ここのところ僕にしては珍しく映画を観ていた。というわけで黒澤明羅生門』について書きたいと思う。

 

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羅生門』は芥川龍之介羅生門」と「藪の中」を組み合わせて撮られた映画だ。冒頭、カメラは羅生門に据えられている。降りしきる雨の中、門の下で休む三人の男。下人と杣売りと旅法師。皆ぼろぼろの恰好で、下人は羅生門から板をはぎ取り、それで火をおこし始める。その男から少し離れた場所で、ぼうぜんと座り込む二人。その様子を不審に思った下人がどうしたのかと訊ねると、杣売りの男がたったいま、自分が見聞きしてきたことについて語り出す。……

 

先に書いたように『羅生門』は「羅生門」と「藪の中」を組み合わせた映画だが、どちらがより原作にふさわしいかといえばそれは後者だろう。杣売りの男が語る内容はそのまま「藪の中」だ。男が山中を歩いていると、散乱した荷物、そしてその奥に侍が死んでいるのを見つける。彼が検非違使に発見時の証言をすると、侍が妻と旅しているところを見たと旅法師も証言した。彼らが証言した後、すぐに犯人が見つかる。侍を殺したのは盗賊・多襄丸だった。高らかに笑いながら、捕縛された多襄丸は語り出す。俺はあの女がほしくなって、侍を罠にかけた。最初は殺すつもりはなかったが、激しい乱闘の末、やっとのこと気の強い女をものにすると、女がしがみついてきて言った。「自分は二人の男に従うことはできない。果たし合いをして、生き残ったほうに従う」そこで俺は侍の縄を解き、正々堂々と戦った。一瞬たりとも気の抜けない剣戟の末、俺が勝ち、侍は死んだ。でも振り返ると、女は既に姿を消していた。……

 

この証言の後しばらくして、生き残った妻が召喚される。多襄丸があれほど気の強い女は見たことがないと言っていたのとは裏腹に、彼女はしなしなと泣き濡れながら、事の顛末について語り出す。多襄丸は自分を手篭めにした後、夫を殺さずに縄をほどいた。しかし解放された夫は自分を軽蔑した目で見つめ、口をきこうとしない。自分はそんな目で見ないでくれ、そんな目で見られるくらいなら死んだほうがましだ、いっそのこと殺してくれと懇願したが、夫は応えない。つらさのあまりいつの間にか意識を失い、目覚めたら夫が死んでいた。自分も後を追おうとしたが、できなかった。……

 

次に巫女が呼ばれる。巫女は自分のからだに死んだ侍の魂を呼び起こし、その口から怒りにおののく侍の言葉を語り始める。手篭めにされた妻は多襄丸に情を移し、俺を殺してくれと頼んだ。その言葉を聞いた多襄丸は激怒し、俺に妻を生かすか殺すか決めていいと言う。それを聞いた妻は逃亡し、多襄丸も姿を消した。一人残された俺は、無念のあまり自殺したのだ。……

 

しかし杣売りの男は皆が嘘をついていると言う。本当は、自分は草葉の蔭から見ていたのだ。女を手篭めにした後、多襄丸は自分の妻になってくれと土下座した。女はそれには応ぜず、夫の縄を解く。しかし夫が自分を軽蔑した目で見るのに激昂し、男たちを焚きつけて決闘させた。二人はへっぴり腰で何度も転びながらほうほうの体で戦い、結果、多襄丸が相手に太刀を突き刺すことに成功する。だがその隙に、女は二人の前から逃げ出していたのだった。……

 

ここまで書いてきてまず気づくのは、「藪の中」においては謎のままに終わった真相が、この『羅生門』においては杣売りの男によって一つの解答編として示されているということだ。この点で、『羅生門』は厳密にはリドル・ストーリーではないのかもしれない。結局、多襄丸も女も侍も皆嘘をついていたわけだが、その嘘がもれなく自尊心に結びついているのがおもしろい。皆、惨めな自分というものに耐えられないんだね。侍なんか死霊となってからも嘘をついているわけで、ここでは死=達観といった仏教的価値観は通用しない。死んでもなお、人は惨めな自分に耐えられないのだ。

映画では語り手ごとに異なる内容がことごとく映像化されるわけだが、多襄丸編と解答編の違いようがひたすら滑稽でおもしろい。多襄丸編では寸分の油断も許さない堂々たる剣戟が繰り広げられていたのに対し、杣売りの男が語る解答編では二人は腰が引けていて、一方が逃げればおそるおそる追い、一方がおそるおそる迫ればぶるぶると後ずさる。刀を持つ手は常に震えていて、何度も転び泥だらけになりながら、最後は転んで身動きのできなくなった侍に、はあはあ言いながら多襄丸が太刀を突き刺す。この対比。

 

あと特筆すべきは妻役の京マチ子の妖艶さだろう。この作品は三船敏郎の多襄丸も森雅之の侍も本間文子の巫女も総じて素晴らしいのだが、この京マチ子、とりわけ多襄丸編における彼女の妖艶さが際立っている。最初、彼女の顔は襞つきの帽子に隠されて見えない。だから侍と一頭の馬、その馬に跨がった女がやってくるのを見ても多襄丸は何とも思わない。けれど一陣の風が吹いて、襞の隙間からちらと女の顔がのぞく。微かにのぞいたその横顔はどこか浮き世離れしていて、神秘的な美しさを持っている。多襄丸は是非とも彼女をものにしようと考える。そして侍を罠にかけるのだが、圧巻なのはこの後の乱闘シーン。女は着物から短刀を抜き取り、必死の形相で多襄丸に抵抗する。短刀が一閃、また一閃し、二人は激しく取っ組み合う。検非違使の前で多襄丸があれほど意思の強い女は見たことがないと言ったのもうなずける物凄さで女は抵抗する。だがやがて、多襄丸に無理矢理唇を奪われると、つい今しがた激しく振り回していた手からぽとりと短刀が落ち、その手はそれまでと同様の激しさをもって多襄丸の背中に回る。自分を奪った男の唇に激しく自分の唇を重ねる。この激しさ。一瞬における変身。安吾の「桜の森の満開の下」の女を思わせるような、そんな妖艶さがある。はっきりいって、かなり扇情的なシーンだ。特に唇を奪われたときの目。憎しみが諦念、そして情熱へと一瞬のうちに移ろってゆく。このほかにも侍役の森雅之のすべてを見はるかしたような無の目、巫女役の本間文子の凄絶なおののき、声など見所満載なのだが、ここでは詳述しない。

 

さて、杣売りの男によって「真相」が暴露された後、それを聞き終わった下人が言う。侍の持っていた太刀と女の持っていた短刀はどこに消えたんだ、と。

そうなのだ。この事件ではこの二つの刀が消え、どこに消えたのかが問題となっていた。しかし杣売りの男の説明では、これらの刀が消えたことの説明がつかない。

下人は重ねて問う。刀を盗んだのはおまえじゃないのか、と。

結局、杣売りの男までが自分に都合のいい嘘をついていた。沈黙する一行。そんなとき、すぐ近くから赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。下人は立ち上がって羅生門のそばに捨てられた赤子を見つけると、その小さなからだをくるんでいた布をはぎ取った。「何をする!」非難する二人に対し、下人はこれこそが人間の本性だと言ってその場を去る。このへん、芥川の「羅生門」に通じている。

 

この映画が「羅生門」と決定的に違うのは、下人が京の街に消えたこの次のシーンだ。それまで黙り込んでいた杣売りの男が急に赤ん坊に手を伸ばす。「あなたはこの子から衣服さえもはぎ取ろうというのか!」あわてて赤ん坊を守る旅法師に、杣売りの男は言う。なに、何人育てようと変わりはしない。……

杣売りの男は赤ん坊を引き取ろうと言うのであった。時は平安、戦乱と疫病、天災によって荒れ果てた時代に、この赤ん坊を育てようというのである。旅法師は赤ん坊を手渡し、感謝して言う。ありがとう。あなたのおかげで、私は人間を信じることができる。……。赤ん坊を大切そうに抱いた杣売りの男が去って、映画は終わり。

つまりこの映画では二人の下人が描かれている。一人の下人は小説「羅生門」のように善悪の彼岸へと駆けだしていくが、もう一人の下人、すなわち杣売りの男は自分のも含め、人間の醜さを目の当たりにした後、それでも善悪の此岸に居続けることを選ぶ。ここに映画『羅生門』のメッセージ性がある。

 

だが少し意地の悪い見方をすれば、『羅生門』のメッセージ性は更にこの奥で見出すこともできる。意地の悪い見方とは、『羅生門』を「視線の物語」として捉えることだ。

 

そもそも、この映画の原作である「藪の中」は視線によってつくりあげられたリドル・ストーリーだった。章ごとに異なる語り手が現れる。木樵り (杣売り)、多襄丸、女、巫女 (侍)……。一つの事件について語っているはずなのに、その内容は語り手によって違う。語りが騙りとなっている。

映画『羅生門』もこの構成を踏襲している。小説と同じように一人ずつ語り手が登場し、そこで語られることがその都度映像化される。多襄丸編では多襄丸と侍は激しく剣戟し、しかし巫女 (侍) 編では二人は刀を交えずに去る。多襄丸の言によれば気性の荒い女も、検非違使の前に呼び出されるとおろおろと泣いている。何がほんとうで、何が嘘なのか。その語り (=騙り) から知ることはできない。

ただ先ほども書いたように、謎が謎のまま終わる「藪の中」に対し、『羅生門』では一つの解答が提示されている。実は杣売りの男が草葉の蔭から一部始終を見ていたという設定で、多襄丸や女、巫女 (侍) が語り (=騙り) 終わった後にそれはかたられる。この「真相」の暴露があって最後の杣売りの男の決意、旅法師の感動的な言葉 (あなたのおかげで私は人間を信じることができる) があるわけだが、この映画を「視線の物語」として捉えようとする僕 (たち) は、ここである疑いを差し挟まずにはいられない。——杣売りの男が語ったことは、ほんとうに「真相」なのか、と。

それまでの語りが全部騙りであった以上、杣売りの男のかたりだけが語りであるという保証はない。現に彼は下人に指摘されるまで自分が刀を盗んだことを隠していた。彼の話が「真相」である証拠などどこに見出されようか。

同じ理由で、僕 (たち) は赤ん坊を引き取って育てるという彼の言葉をも信じることができない。旅法師から手渡される前、彼はじっと赤ん坊を見つめる。その視線は赤ん坊ではなく、その子の衣服に注がれているのではないだろうか。いや、これはさすがに穿ち過ぎか、だがしかし……。

 

最後のシーンが印象的だ。雨が止み、晴れ間がさしてきた羅生門の外に、赤ん坊を大事そうに抱いた男が時々後ろを振り返りつつ歩いていく。その背中に、羅生門に残った旅法師がじっと視線を注いでいる。……

そう。この旅法師こそが重要だ。『羅生門』において「羅生門」にない要素を見つけようとするならば、第二の下人としての杣売りの男よりも、この「視る者」としての旅法師を挙げるべきだろう。示唆的なのは、この旅法師が最後まで羅生門に残り続けることだ。言うまでもなく、この羅生門はメタファーとして機能している。すなわち下人は善悪の「外」に行き、杣売りの男は善悪の「内」へ行った (表面的には)。しかしこの旅法師だけは門の下に留まり、態度を保留している。ほんとうに人間を信じていいものか、未だ決めきれずにいるのである。

そのことは彼の視線によく現れている。人間を信じたいと願う彼の視線は僕 (たち) の視線と合わさり門を出て行く杣売りの男へと注がれるが、そこではきょろきょろと後ろを気にする男の仕草がすべて怪しいものに映り、やがて焦点が旅法師から下人に移動してその顔がおぼろげになるにつれて、そこから向けられる視線には疑いが根ざしているのではないかという印象をどうしても拭い去れずにはいない。こうした不穏な疑念を残したまま、物語は静かに幕を閉じる。だからこそ僕 (たち) は物語を反芻し、自らにこう問わなければならない。——自分は何を見たのか、と。

ここでは結局、映画を観る僕 (たち) の決断こそが求められている。黒澤は遠ざかる杣売りの男に焦点を合わせることで、かたりを語りとして素直に聞き入れることの危険性を喚起するとともに、僕 (たち) が自分で善悪の門と向き合い、選択していくことを求めているのだ。だからこそ、杣売りの男を見送る旅法師の目はぼかされている。その視線は僕 (たち) が選択し、描かなければならない。

 

空が青い

 

空が青い。卒論が終わったのだ。

 

卒論。ここのところずっと、僕はこれに苦しめられてきた。(死にたくないけど) 死にたいと毎日のように思い、煙草の吸い殻は積もり、髪はボサボサで肌には至るところにきびができた。でもようやく、それも終わったのだ。

 

(徹夜明けの目に空は眩しくて、光はレースカーテンのように透明だった。僕は大学の喫煙所でアメスピを吸い、これで終わるのだ、と思った。製本が終わるのは午後三時。それまで何をしよう。とりあえず図書館に行って、ゆっくりしようか。ああでもお腹空いたな。麺珍って何時からやってるんだっけ? ……ああ、十一時。それならやっぱり今から図書館行って、ちょっとぼうっとしてから食べに行こうか。ほんで食べ終わったらまた図書館行って……

 

できばえに納得はしていない。やはり後半、時間が足りなくなって急がざるを得なくなってしまったのが痛かった。でもこれは言い訳だ。あれだけ時間があったにもかかわらず、ギリギリまでだらけていたのは自分なのだから。しかしともかく、卒論は終わった。

 

(やっぱりW盛は多かったなあ。つい勢いで注文しちゃったけど。これからどうしようか。図書館行こうと思ってたけど、なんか珈琲飲みたくなったな。久しぶりに西東詩集行くか。……ってなんだ、やってないじゃん。しかたない、おとなしく図書館行こう。無性に煙草が吸いたくなって、図書館奥の喫煙所でアークロイヤルを吸った。苦い。あれ、こんな苦かったか? 喫煙所には僕のほかにおっさんと女学生がいた。……このおっさん、だいぶ後頭部キてんなあ。煙の形かっこいいなあ。どうしたらこんな柱みたいになるんだろ。にしても最近珈琲飲みながら煙草吸う人多すぎじゃね? 女学生は何吸ってんだろなあ。ピースとかだったらかっこいいなあ。

 

終わった。終わった? ほんとうに終わったのだろうか。確かにこの後、製本してもらったのを受け取って大学に提出するだけだ。見落としがないか何度も確認したし、おそらく問題なく受理されるだろう。にもかかわらず、ぜんぜん解放感がなかった。たとえば院試が終わったときのような、さあこれからはなんでも好きなことやるぞ! という昂揚感がぜんぜんない。

そう。僕は来春から大学院に行くのだ。働きながら、通うことになる。ここに落ち着くまでには色々あったが、とにかく僕は院試を受け、そして合格した。卒論が無事受理されれば、院生になることも確定する。……でもさ、これってほんとにハッピーエンドなの?

 

(僕は詩集の棚へ行き、『氷見敦子詩集』と『荒川洋治詩集』を手に席へ着いた。なんとなく、今なら氷見敦子の詩がすんなり入ってくる気がしたのだ。巻頭の詩を読んだ。男の腕のなかで眠る女の、生まれる前の闇へと深く潜っていくイメージ。耳の内側で不気味に響く水の音。口から吐き出される蜥蜴。……ダメだ。相変わらずぜんぜんわからない。これを読んだのは大学二年生のときだっけ? 蜂飼耳の随筆を読んで、「日原鍾乳洞の『地獄谷』へ降りていく」が読みたくなって借りたのだった。確かにいちばん印象的な詩で、いまも記憶に残っている。……でも僕は本を閉じ、『荒川洋治詩集』に向かった。寝不足で疲弊しきっていて、一ミリたりとも頭を使いたくなかった。詩人 (現代詩作家って書かないと怒られるんだっけ) が大学生のときに書いたという『娼婦論』の詩を読む。あかん、これ頭使わな読まれへんやつや。ずっと読んでみたいと思っていた『水駅』に移る。ああ、いい……けど、やっぱちゃんと頭働くときに読みたいな。そう思ってぱらぱら本をめくっていたら、後ろの方にエッセイが収録されていた。テレビ番組についてのエッセイを読む。荒川さんらしいとぼけたような、でも時々ハッとさせる文章が書かれていて、少しだけ明るい気持ちになった。

 

もちろんエンドではない。なぜならこれからも人生は続いていくからだ。たとえば、二年後には修士論文がある。卒論でさえこのザマなのに、修士論文なんて書けるのか? また死にたい死にたいって思うんちゃん? ていうか、これまでレポートのときだって死にたいもう無理やほんま自分死ねって思ってたやん。なんていうか、卒論終わったはいやったーではなく、もっと根本的に自分直さなこの先一生苦しいんちゃうの?

 

(いつの間にか眠っていた。二時間くらい寝ていたようだ。時刻は午後二時。製本が出来上がるまであと一時間だ。なんか適当に本でも借りよう……と思うのだが、まぶたを開けておくことができない。ダメだ、とにかく眠い。頭が働かない。頭が働かなくても読める本が読みたい、と思うが頭が働かないから何にも思いつかない。ふわふわしていて……でも抽象度は高くなくて……幻想とか、そういうのはいいから……いしいしんじ? ダメダメダメ。そういうふわふわちゃうねんて。もっと読みやすい、ほんで癒やされるような……池澤夏樹? ええかも。『スティル・ライフ』とか『キップをなくして』とか、そんな感じの小説ないかな……『マシアス・ギリの失脚』……はちゃうやろ。それはもっと満を持して読まなあかんやつやろ。……うーん、難しいな。こうなったら保坂和志でも読むか。『プレーンソング』の続編なんやったっけ? 『草の上の朝食』? うわっ、『カンバセイション・ピース』ってこんなぶっといん? ムリムリムリ今はムリ。『この人の閾』とかないかな……ないなあ。

 

僕はたぶん、気づいてしまったのだ。僕を苦しめているのは環境ではなく、自分自身であるということに。この調子で期限が迫るたびに死にたくなってたら、体が持たないということに。一生苦しいままだということに。

 

(けっきょく借りる本が思いつかないまま、時間が来て製本屋に受け取りに行った。「三時以降に来てください」といわれていた。製本屋の前まで行くと、おそらく僕と同じ身の上だろう、学生がたくさん待っていた。時刻は二時五七分。え、まだできてないん? 店に入ると、普通に受け取れた。僕が受け取った卒論片手に店から出ると、それまで店の前に固まっていた学生たちが続々入店していった。日本人かよ。というか、僕と同じようにギリギリになって駆け込んだ学生もけっこういるんだ。がんばれよ。みんな無事、受理されたらいいな。大学では提出部屋が設けられていて、横一列に並べられた机の両側に椅子が置かれ、マンツーマンで学生に対応していた。「学部、所属はどこですか?」と聞かれ、数秒、答えられない。案内された席に座り、たったいま製本屋から受け取ったばかりの卒論を渡した。表紙に書いてあるページ数と総ページ数が一致していないことについて突っ込まれる。あ、このページ数は本文のページ数で、表紙とか目次はカウントしてないんです。ご丁寧に一ページずつ数え直しはって、事なきを得た。受領書にサインし、審査済みの印鑑を押してもらう。「お疲れ様でした」。ありがたいと思いつつ、ろくに返事をすることもできなかった。

 

でも、そう簡単に自分が変われるはずがないということにもまた、気づいてるんだよなあ。というか、この先いったい僕はどうなるんだろうね。院生の間はいいとしても、その後就職できんのか? またできたとして、社会人としてやっていけるのか? いやそれ以前に、人生がこうした繰り返しであることに気づきながら、堪え忍んでいくことができるのか?

 

(今日は本を持ってきていない。せっかくだから、家に帰る前にもう一度図書館に寄っていくことにした。電車のなかで気楽に読める本がほしかった。前向きになれそうな本が読みたかった。川端裕人はどうだろう? 池澤夏樹と同様、読めば前向きになれる大好きな作家だ。WINEで検索にかける。しかしいま読みたいと思うような本はなかった。なんだかもうどうでもよくなってきて、気づいたら僕は岩波文庫の棚にいた。『ブッデンブローク家の人々』を手に取る。前から読もうと思っていた本だ。けれど上中下とあるのを見てまた積本の影がよぎり、けっきょくその隣にあった『トオマス・マン短篇集』を借りていくことにした。冒頭の「幻滅」という話が気に入った。「僕」は混乱している。ヴェニスの広場であの見知らぬ男が話しかけてきたせいだ。「あなた御承知ですか、幻滅とはどういうものだか。」男は問いかけ、自身がこれまで経験してきた幻滅について語る。「私は、人間からは神のごとき善良と、身の毛もよだつ邪悪とを期待していました。人生からは、目もさめるような美しさと物凄さとを、期待していました。」……。でももっと胸を打ったのは、この次に収められていた「墓地へゆく道」という短篇だ。「それは春だった。もうほとんど夏だった。世界は微笑していた」そんな気持ちのいいある日、一人の男が墓地へゆく道を歩いている。彼の名はロオプゴット・ピイプザアム。ピイプザアムは不仕合せだ。「第一に彼は飲む。(…) 第二にやもめで孤児で、世の中からまるで見離されている。愛してくれるものが、この地上にただの一人もないのである。旧姓をレエプツェルトといった細君は、半年ばかり前、子供を産むと同時に拉し去られた。それは三番目の児だったが、死んで生れたのであった。ほかの二人の子供も亡くなっていた。(…) そればかりではない。その後間もなくピイプザアムは地位を失った。不面目にも職務とパンから逐い立てられたのである。」そのピイプザアムが墓地へゆく道を歩いていると、後ろから若者の乗った自転車が全速力でやってくる。若者はピイプザアムが道の真中にいるせいで調子をゆるめるが、ピイプザアムはいっこうに道を開ける気配を見せない。しかたなくゆっくり彼の傍を通り過ぎた若者に、ピイプザアムは因縁をつけはじめる。「私はあなたを告訴します。あなたはあっちの国道のほうを走らないで、こっちの、この墓地へゆく道を走ったからです。」馬鹿馬鹿しい、みんなこっちの道を自転車で走ってるじゃないかと言い返す若者に、ピイプザアムはしつこく「私はあなたを告訴します」と繰り返す。あきれた若者が再びペダルを漕ぎ出すと、ピイプザアムは狂ったように自転車を追い、サドルにしがみつく。自転車はピイプザアムの妨害を受けてぱたりと倒れるが、怒った若者はピイプザアムを突き飛ばし、再びサドルに跨がってぐんぐん遠ざかっていく。ここからピイプザアムが真に狂人の色を帯びていく。「それを見ると、ピイプザアムはどなりはじめた。罵倒しはじめた。あるいは吠えはじめた、といってもいいかもしれない。もうとうてい人間の声ではないのである。/「もう走ってはいかん。」と彼は叫んだ。「そんなことをしてはいかん。この墓地へゆく道でなく、あっちのほうを走るんだというのに、聞えないのか。——降りろ。すぐに降りろ。おお、おお、おれは告訴する。訴えてやる。おお、ほんとになんたることだ。やい、おっちょこちょい野郎、倒れやがったら、もし倒れやがったら、踏んづけてやるのに。靴で面を踏んづけてやるのになあ。この悪党め。」/こんな光景は空前である。墓地へゆく道の上に、ののしりわめく一人の男がいる。男はのぼせ上って吠えている。ののしりながら躍る。飛び上る。手足を目茶苦茶に振り動かす。無我夢中になっているのである。先刻の乗り物は、とうの昔に見えなくなってしまったのに、ピイプザアムはまだ依然として、ひとつところで狂い廻っている」次第に弥次馬が集まってくる。「が、ピイプザアムは、なおも荒れ狂って止まない。しかも様子はだんだん険悪になってきた。両方の拳骨をめくら滅法に、上下左右あらゆる方向へ振り廻す。脚をばたばたやる。こまのようにぐるぐる廻る。膝を折り曲げたかと思うと、声の限りどなり立てようとして、また死物狂いに跳ね上る。その間一刻といえども、悪態をつくことをやめない。ほとんど息をする暇さえないのである。いったいどこからこんなにいろんな言葉が出てくるのか、呆れるよりほかはない。顔はもうおそろしく脹れ上ってしまった。シルクハットはうなじのほうへずるっこけている。いわえてあるシャツの胸当は、チョッキの外へはみ出しているという有様である。おまけに、いうこともとうに一般的なことにわたっていて、どう考えても、本筋とは関係のないようなことばかり並べている。自分の不行跡のことをほのめかしたり、宗教じみた暗示になったりする。それがまたいかにも不釣合いな調子で、だらしなく悪口雑言をまじえながら、述べ立てられるのである」やがてピイプザアムは声を振りしぼってどなった後、人事不省に陥ってぱったりと動かなくなってしまう。弥次馬たちが水をぶっかけたりブランデエを嗅がせたりするが、てんで効果がない。しばらく経った頃、衛生隊の馬車がやってきて止まる。男が二人降りてきて、一人が馬車の後ろで取りはずしの利くベッドを引き出しているあいだ、もう一人が弥次馬を払いのけ、ピイプザアムを馬車まで引きずってくる。「それからピイプザアム君は、例のベッドの上にねかされて、まるでパンをパン焼き竈の中へでも押し込むように、馬車の中へ押し込まれてしまった」そしてピイプザアムは運び去られ、物語は終わる。ここではもちろん、ベッドが棺桶に見立てられ、それが馬車の中へ押し込まれるさまは火葬場で棺桶が押し込まれるさまに見立てられている。滑稽な、ほんとうに滑稽な男の話だ。だが笑うことができるだろうか? トオマス・マンは書いている。「人間は、自分自身に向っていくら自分の無辜を力説したところで、それはなんの役にも立たない。たいていの場合人間は、自分が不幸だからといって自分を侮蔑するようになるものである。ところが、自蔑と悪徳とは実に怖ろしい相互関係に立っている。両者は互いに相養い相扶ける。それはぞっとするくらいである。ピイプザアムの場合もまた、その通りであった。」

 

僕は最近、苛々することが多くなった。前にも増して、自制がきかなくなっている。自分がしょうもない人間だと感じる。何をしてもダメなような気がする。安吾は『堕落論』のなかで、再び立ち上がるにはいちど堕し切ることだと書いた。でもそろそろ、堕落することにも疲れてきている。自蔑と悪徳の怖ろしい相互関係に飲み込まれる前に、何か、何か行動しなければならない。何か……

 

(「墓地へゆく道」を読み終わり、次の「道化者」に差し掛かったところで最寄り駅に着いた。僕は駅の近くのコンビニで煙草を吸い、喫煙スペースから狭く区切られた空を眺めた。ぼやけたように色を失い、蒼白な光を帯びた空が広がっていた。今朝、卒論を完成させて徹夜明けで眺めたあの青い空を、ずっと覚えおこうと思った。

 

『君の名は。』感想

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今更ながら、『君の名は。』を観ました。

僕はこれまで新海誠の映画は全部見ていて、『言の葉の庭』ではがっかりしたもののまあ好きな監督ではあったのですが、今作『君の名は。』に関しては実は全く観る気がありませんでした。それは前作の言の葉で落胆したせいであり、また粗筋などから伝わってくるチープさのためでもあったのですが、今回なぜ今になって観ることにしたのかというと、卒論で扱うことにしたからです。

僕はテクストの空間、中でも小説で表現される空間というテーマで卒論を書いています。テクスト (小説) による場の表現と視覚芸術による場の表現の相違について考える上で、映画よりも監督自らによって執筆された小説が先に発表されるという特殊な経緯を持つ『君の名は。』はうってつけの検討材料だと思ったわけです。

以下、『君の名は。』の簡単な感想になります。本来はこんなことを書いている場合ではないのですが、どうしても今、まだ映画の余韻が残るうちに書いておきたいので雑記的な形で残しておきます。たぶん、卒論が終わったら追記します。

ちなみに小説を読んだ上で鑑賞しました。

 

以下、ネタバレあり。

 

・ラッド興醒め。
・BGMが印象に残らない。これまでの天門のほうがよかった。
・秒速、星を追う子どもの成就系。途上として言の葉の庭がある。AIRCLANNADに発展したように。後者が前者の成就系のように。
・秒速、星を追う子どもには童貞性(理想化した他者(異性)あるいは過去にしがみつく少年)の批評性があった。その他者あるいは過去をこれ以上ないくらい美しく描きながら、それが成就しないことによる批判性があった。今作では成就してしまった(まさしく糸が結ばれてしまった)がゆえにその批判性が消え、童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっている。それがつまらないと感じてしまった原因だと思われる。
悠木碧がかわいい。
・小説を読んでいないと理解できないのではと思う場面が多々あった。自分が映画が苦手なのは、その切断性のためだろうか。
・絵、これまでのほうが綺麗だったような。
・とんとん進んでいく。挫折がない。あったとしても直後に解決され、また観ているほうも解決されることが容易に予測できてしまう。
・奥寺先輩の煙草のシーンいったか?
・ほんとラッドいらない。
・エンディングは曲自体は悪くない(けどいらない)。
・初めて瀧になった三葉がマンションを出て、東京の風景を観るシーンがハイライトか。この部分は小説を読んでいて「きっと描きたかったんだろうな」と思った場面なので凄く楽しみにしていた。小説版の描写もおすすめ (52ページ)。
・カメラワークの違い。小説は一人称。映画は三人称。ズームイン、ズームアウトは共通。小説は小出し。映画は一望。
・ぜんぜん飛騨(聖地)に行きたいと思わなかった……。東京の風景には惹かれた。
・映画は説明不足というのに関連して。テッシーがオカルトマニアなこととか、もっと説明必要では。あとカタワレ時とか。
・最後、「君の名前は」までのやりとり(「君をどこかで〜」)はいらない。せっかくの盛り上がりがトーンダウン。
・やっぱり登場人物の声とか容姿、風景を自由に想像できるのは小説の強みだなあと、皮肉にも視覚芸術の悪い点ばかりが目についてしまった。これまでの作品はテクストとは異なった良さを発見させてくれたのに。
・オープニング曲「前前前世」がミスリードになっている?(三年前なのに「前世」)
 

君の名は。』が流行りだして以来、よく友達に「新海誠ってどんな映画?」と聞かれるようになったのですが、そのたびに僕は「童貞映画」と答えていました。
別にこれはバカにしているわけではなく、ここでいう「童貞」とは、誰もが胸の内に温めている美しい思い出のようなものです。
 
新海誠の主人公は、皆胸の内にそうした思い出を残しています。たとえば『秒速5センチメートル』では主人公は小学生の頃好きだった女の子の面影を社会人になってからもずっと忘れられずにいるし、『星を追う子ども』の主人公は自分の窮地を助けてくれた男の子のことが忘れられずに異世界にまで赴きます。主人公とともに赴く男もまた、亡くなった妻のことが忘れられず、彼女と再会するために異世界を訪れています。
 
この愛慕の対象となる他者 (異性) は先に書いたように過去の「思い出」が具現化したものであり、それらは月日の経過とともに理想化され、いつしか彼らの生きるための依り所となっています。
そうした理想化され美化された他者 (異性) =思い出を新海誠は持ち前のこの上なく美しい映像で描くわけですが、これまでの映画では、同時にそこに強い批評性がありました。
 
秒速5センチメートル』では最後、主人公の前に小学生の時からずっと思い続けた女の子が現れます。二人は踏切の遮断機を隔てて向かい合い、主人公の少年 (成人していますが、あえて少年と書きます) は「もしや」との期待を込めて電車が過ぎ去るのを待つわけですが、電車が過ぎ去って目の前を見ると、もうそこに女性の姿はありません。二人は結局、最後まで再会できなかったわけです。しかも女性は既に別の男性と婚約しており、少年の存在に気づくことはありません。
 
ここから読み取れるメッセージとしては、「確かに思い出は美しいしそれ自体価値はあるけれど、でもそれだけにしがみついていてはダメだよね」というものがあります。つまり新海誠はそうした思い出を賛美しつつも釘を刺しているわけです。「現実を見ろ、前を見ろよ」と。

しかし『君の名は。』ではどうでしょうか。瀧と三葉は上り電車と下り電車という遮断を乗り越え、再会してしまいます。「君のこと、どこかで」と互いに求め合い、涙を流し、無事その恋を成就させてしまうのです。
「君の名前は」と呼びかけ合う最後はとても美しくキマッてはいますが、成就してしまったがゆえに従来の批評性が消え、単なる童貞性の賛美、現実逃避に終わってしまっています。

思えばこうなる伏線はありました。『星を追う子ども』は成就しないまでも最後一瞬だけ他者 (異性=思い出) の幻影と再会するし、『言の葉の庭』では離ればなれになるとはいえ互いの気持ちを承認し合います。途上にこれらの作品があり、その発展系として『君の名は。』が作られたのでしょう。
よってこの意味では新海誠は順調に歩み続けており、『君の名は。』は彼の新境地であるのかもしれません。しかし、それでいいのか——と、『星を追う子ども』以前の新海誠ファンである僕としては、横槍を挟まずにはいられません。
 
もともと、新海誠という稀有な存在は、その圧倒的な天体描写に表されているように、絶望的なまでの断絶、そしてその断絶ゆえの美しさ、すなわち手の届かないもの=既に失われてしまったものの美しさを描く存在でした。それは彼の初期作『ほしのこえ』に最も顕著に表れています。もちろんセカイ系という概念を持ち出せば話は複雑になってきますが、それでも根本的には新海誠の映画はディスタンスの映画であったはずです。
 
その距離が失われてしまってほしくないと——もしかしたらこれも「思い出」に固執する童貞性に過ぎないのかもしれませんが——ハッピーエンドのささやかな満足感と拭いされないモヤモヤに悩まされながら、そんなことを思いました。