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これからのこと

ふがいない院生は空を見た

『騎士団長殺し』を読んでいない男

 

ぼくです。

読んどきたいんですけどね、金が無いんです。

 

ところで、本好きのあいだでは村上春樹はけっこうデリケートな話題で、というのはうっかり「春樹最高!」っていったらガチ勢から鼻で笑われる可能性があるし、だからといって「春樹ね……はいはい」みたいな冷笑スタンスでいくとせっかく仲良くなりかけた女の子に嫌われてしまう可能性があるからです。このへんの「村上春樹にどう接すればいいか問題」は『バーナード嬢曰く』でバーナード嬢こと町田さわ子も取り上げていますね。

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バーナード嬢曰く。: 2 (REXコミックス)

 

で、この前大学院の演習でたまたま春樹の話になって、初回だったこともあり、自己紹介がてら自分がいちばん好きな春樹作品を挙げていこうってことになったんですよ。そのとき学生はぼくを含めてたしか七人いて、残念ながら(?) ひとりもハルキストはいなかったんですが、そのときもやっぱり腹の探り合いになり、それぞれがおそるおそる他人の春樹観を探っている感じがおもしろかったです。

 

ちなみに、そのときに挙げられた作品は、

・『風の歌を聴け

・『1973年のピンボール

・『羊をめぐる冒険

・「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(2票)

・『アフターダーク

・「めくらやなぎと眠る女」

 

でした。初期三部作が出そろうラインナップ。というか、『アフターダーク』以外はすべて初期作です。しかも短篇が多い。理由としては、「あの比喩過剰で冗長な文章が心地良く読めるのは短篇が限界」というのが主でした。ぼくはそこんところはあんまり気にならなくて、むしろあんな文章だからこそかる〜く読めて長篇向きだと思っていたので意外でした。まあ、とはいえぼくも短篇の「めくらやなぎと眠る女」を挙げたんですけどね。

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

 

 

「めくらやなぎと眠る女」は年下のいとことバスに乗って病院に行き、いとこの診察のあいだぼーっとする、っていうただそれだけの話なんだけど、バスに乗っているあいだのなんとなく奇妙な感じ、違和感の描き方とか、診察が終わるのを待っているあいだの無聊の描き方、昔友達の彼女の見舞いに行ったときの回想へのつなぎ方なんかがうまくて、これといった筋があるわけでもないのに引き込まれてしまった。

ついでに蛇足で書いとくと、これまでぼくが読んだ中で逆にいちばん駄作だと思った春樹作品は『海辺のカフカ』です。中身の無い黙説法——思わせぶりに書いておいて、けっきょく何もない——つまりは村上春樹のわるいところが存分に出てしまった長篇だと思いました。図書館に来るジェンダーおばさん二人組も、確かにああいうひといるけど、でもあんな描き方ってどうなのと思います。(ところで、ジェンダーにうるさい女子大生にかぎって春樹が好きだったりするのはなんで? むしろその観点では嫌われる作家だと思うんだけど)

長篇でいちばん好きなのは『ノルウェイの森』です。文学的に優れているのは『ねじまき鳥クロニクル』だと思うけど、エンタメとしてすごくおもしろかった。緑派。

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

 

 

…… いまいち何が書きたかったのかわからないエントリになってしまいましたが、要は『騎士団長殺し』を読む金が無いって話です。おかげで文学誌上で繰り広げられていた『騎士団長殺し』の書評ロワイヤルにもついていけなかった。友達の話によれば、「二重メタファー」なんていうアツイ単語も飛び出すらしい。ああ、いまこうやって書いてたら、なんだか無性に読みたくなってきた。

はやくブックオフで半額にならないかな……

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 
カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

減煙

 

これまでは1日に3本も吸えばかなり吸った方、基本的に1日1本で、吸わない日も多々ある、って感じのなんちゃって喫煙者だったのに、4月に入ったあたりから、1日に3本は当たり前、4、5本吸う日もざらにある——といったライトスモーカーの様相を呈してきた。院生になってまわりの喫煙率があがったというのもあるのだが、*1単純に煙草が前よりも好きになってしまった。

金欠なのに煙草代がかさむのは痛いなあ、と思いつつ、それでも深くは考えずに吸っていたのだけど、ちょっと前、父から「おまえ口臭いぞ」といわれて歯医者に検診に行き、歯科衛生士さんから「(歯石が) 正直、かなりやばいです!」とハキハキといわれてしまってから、口臭を、そしておそらくは原因と思われる煙草を気にするようになった。*2

気になりつつ、でも誘惑に負けて変わらないペースで吸っていたのだけど、やっぱり自分の口が臭いのはショックなので、減煙しようと思う。減塩ならぬ減煙。

禁煙ではなくあくまで少しずつ本数を減らしていく減煙なところが意志の薄弱さを物語っているが、きょう、ランチの後、木蔭のベンチでアメスピを吸っていて「至福……」ってなったので禁煙は無理だと思った。なので実現できそうな減煙を目指す。

具体的には、今ちょうど並行して吸っていたアメスピとヴァージニアがなくなったので、明日新しい1箱 (ヴァージニア) を買って、次の検診 (最終検診!) の26日までその1箱でもたせようと思う。きょうが5日なので、1日1本に抑えれば達成できる計算だ。

おしゃれには疎いぼくだけど、いや疎いぼくだからこそ、せめて最低限の清潔感は保っておきたい。これから20日間、気持ちを入れ替えてしっかり歯を磨き、誘惑に負けずに減煙していきたいと思う。中村航の『夏休み』*3という小説で主人公が1本だけ煙草を残してほかをぜんぶ友人にあげ、「この1本を吸ったら禁煙する」と宣言するシーンがあったけど、いまの心境はまさにそんな感じだ。いやこれからも吸うんだけど。ぜんぜん禁煙しないんだけど。でもまあ、気持ち的にはそんな感じだ。

 

がんばろう。

 

 

夏休み (集英社文庫)

夏休み (集英社文庫)

 

 

*1:煙草って文学との親和性が高い。私的には反骨精神とか虚無感、厭世観と関係してるような気がする。そしてこんな甘ったれたことを書くと非喫煙者からバッシングされそうな気もする。

*2:もちろん磨き残しによる歯石とかほかにも原因はあるのだけど、口臭が気になりだしたのは煙草の本数が増え出してからなので。

*3:中村といえば、中村文則の小説も煙草とは切っても切り離せない。しかも彼は小説を書く上でかなり便利なアイテムとして煙草を用いている。この辺のことについてはいつか論じてみたい。

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まさかのB面『僕の村は戦場だった』

 

テクスト論的にいえば、作品は読まれないと存在しない、ひっくり返せば読まれることによって初めて存在するわけで、だからいかに作家が作品に厳密な意味を規定しようと、読者はそれをどのように読んでもいいし、また読むべきである。作品は作家の手にあるのではなく、読者との相互関係の中にあるのだ。

ということは、もちろん映画でだって、鑑賞者はそれをどのようにも見ることができるはずである。だからたとえその作品が世界的映画監督アンドレイ・タルコフスキーの処女長編『僕の村は戦場だった』であろうと、鑑賞者であるぼくはそれをどのように見ても、たとえばB面から見たとしてもまったく問題はないはずだ。

 

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(ぼくはふだん大学図書館で映画を観ている。『僕の村は戦場だった』はLDで、両面だった。恥ずかしながらそれまでLDの存在をまったく知らなかったぼく、適当に機械をいじってるうちに、なぜか2面あるうちの後半部、便宜的にA/Bと分けるなら、そのB面のほうから見始めてしまったらしい。しかもぼくは映画を見終わるまでそのことにまったく気づかなかった。つまり、B面を見ただけでは気づかず、その後にA面まで見て、すなわち前後逆ながら全篇通して見て、やっと気づいたのだ。これはすごいことだと思った)

 

僕の村は戦場だった』は第二次世界大戦中、ドイツ軍によって両親と妹を殺され、村を壊滅させられた少年イワンがソビエト赤軍の偵察部隊となって敵陣に侵入していく……という筋で、いつ射たれるともわからない緊迫した戦場場面とまだ村がドイツ軍によって破壊されておらず、家族も健在だった頃のイワンの幸せな記憶とが交互に差し挟まれることによって独特の抒情、空虚を身につけている。例によってWikiを参照してほしいのだが、ぼくが冒頭だと思って見始めたのはWikiだと「翌日、司令部から〜」とあるところ、ホーリン大尉がイワンを迎えに来る場面からだった (たぶん)。つまりぼくはイワンやホーリン大尉、ガリツェフ上級中尉の背景や関係性がまったくわからないままB面 (ホーリン大尉が迎えに来てから終幕まで) を見たわけで、でもこうした手法、登場人物の情報を与えずに淡々と観せていく手法は珍しくないから、そういうものだと思ってとくにおかしいとも思わなかった。ましてやA面 (と見ている時は気づかなかったが) で彼らの背景や関係性が少なからず説明されるのだから、ますます得心がいったのだ。

本来、映画はベルリンに進軍したガリツェフが処刑された捕虜のリストにイワンの姿を見つけた後、イワンの幸せな過去——川辺で妹と追いかけっこをしている——が映し出され、このシーンの最後で手を伸ばしたイワンの目の前に木が立ちふさがり、大写しとなって彼の行く手に立ちふさがるところで終幕を迎えるのだが、ぼくはB面から見てしまったので、A面の最後、確かここでもイワンの過去パート、「井戸」のシーンだったと思うが——でこの作品を見終えてしまった。

さすがにぼくも「あれ?」と思ってディスクを確認し、もういちど起動させたことで自らの過ちに気づいたのだが、ここでぼくが驚いたのは自分のまぬけさにではなく (もちろんそれも多少はあるが)、むしろそれでも成立してしまうこの作品の強度、またそれでも楽しめる鑑賞の自由度のほうだった。

もちろん、それこそ冒頭に用いたテクスト論では内容にも優って形式が重視されるので、タルコフスキーが最善としたシーンの流れを逆さまに組み替えるのは「最善」の鑑賞法ではないのかもしれないけど……。ふだん神経症的で絶対に「正しい」順序でないと読めない/見れない、たとえばマンガにしても一巻からでないと読めないぼくにとって、こうした恣意的な、……いや、場当たり的偶然的な受容のしかたがあるとは衝撃的だった。確かに木がイワンの前に立ちふさがって暗い未来が暗示される本来の終幕のほうがキマッているにせよ、B面から見たぼくにとっても『僕の村は戦場だった』はきわめてリリックで見る者を茫洋とさせる作品だった。ましてやこんなへんてこな出会い方をしてしまった以上、この作品はもはやぼくにとってただの作品ではありえない。

 

くどいようだが、ぼくは一部でとても神経症的な人間で、だから本もきっちり読まなくては気が済まず、少しでも引っ掛かったり理解できない箇所があると何度も読み返したりするのでぜんぜん進まない遅読の人間だ。読みたい本/読まなくてはならない本はごまんとあるのに、遅読のせいでぜんぜん追いつかない……そんなふうに気に病んでもきた。でも今回の出会いをキッカケに、受容にもいろいろなしかたがあるのだと、まただからこそおもしろいところもあるのだと実感できたので、不器用な遅読一辺倒ではなく、読書のしかたにも幅が持たせられるようになれたらいいなと思った。*1

 

 

 

*1:読み返してみたら、末尾の一文が完全に小学生の作文。院生にもなって未だにそのフォーマットから抜け出せていないのはハズイと思った。自戒を込め、あえて残す。

余りに個人的な感想『あの子を探して』

 

チャン・イーモウ『あの子を探して』を観ました。

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舞台は山村の小学校。唯一の先生であるカオ先生が母の看護のために一ヶ月村を離れることになり、代用教員としてまだ十三歳のウェイ・ミンジという女の子が村長に連れられてきます。

といってもミンジとて学があるわけではなく、かろうじて一曲、(それも飛ばし飛ばしで) 歌が歌える程度。だから彼女の仕事はひたすら板書をすることであり、それを書き写すよう、生徒を監視することでした。

貧しい山村のことで、教卓はぐらつき、屋根は雨漏り、壁もぼろぼろ。チョークは一日に一本までしか使えず、ミンジや寄宿生が満足に寝るスペースすらありません。

こんな劣悪な環境のなか、やんちゃ盛りの生徒とミンジが衝突し、ある日、なかでも腕白だった男の子が姿を消したことで事態が少しずつ様変わりしていく——という筋なのですが、詳細が知りたい方はWikiで読んでください、あるいは、観てください。

 

ひとことで言ってしまえば金八先生的な筋なのですが、観終わったとき、身につまされるところがあったのです。

というのは、序盤、ぜんぜん言うことを聞いてくれない生徒たちに対してミンジが感じている (であろう) 感情がつい最近までやっていた塾講師のバイトで経験したものと限りなく近かった (と思われる) からで、ぼくがそれに耐えきれずにリタイアしたのに対し、ミンジはそれを乗り越え、ぼくが結ぶことのできなかった関係を生徒と結んでいたからです。

貧しい山村のこととて、生徒はみな貧しい家の子どもばかりです。ろくに文具も与えられず、飲み食いもできず、家庭の事情で出稼ぎに行くために学校を辞めていく子もいます。もちろん、家庭環境も良好ではない子どもが大勢います。そして、そうした子どもたちは家で与えられない愛情を埋め合わせるために学校で悪さをする。そのつけが回ってくるのはミンジです。彼女は毎日のように怒鳴り、追いかけ、やがて辟易します。べつにこれは貧しい山村でなくとも現代の日本でだって本質的には同じことが起こっていると言えるでしょう。つまり、子どもは家庭の影響をダイレクトに受ける。子は親を選ぶことができない。家庭を選ぶことができない。

ぼくが働いていた塾にも、おそらく家庭で愛情が満たされていないのだろうなと思われる子どもたちがいました。たまに近況報告がてら家庭に電話をすると、その推測が確信に変わります。そして残念ながら、塾で悪さをするのは、むやみにこちらへ刃向かってくるのは、やはりそうした家庭の子どもたちなのです。

もちろん、ぼくもそういったことはわかっているつもりでした。が、ぼくはわかった上であえて、そうした子どもたちを切り捨ててきました。家庭での満たされなさがあって、その埋め合わせとして、あるいは反動としてこちらに向かってくるのはわかるけど、なぜぼくがその埋め合わせをしなくてはならないんだ。なぜぼくが彼らの満たされなさの代償として彼らのナイフで傷つけられなくてはならないんだ、と。

正直に言って、この考えは今でも変わっていません。おかしいとも思いません。つまり、子どもたちに自分ではどうしようもない事情があるのはわかるけれど、それを教師がすべて埋め合わせなくてはいけないというのは間違っている。教師はうさぎのぬいぐるみじゃない。苛立ちのまま、いつまでも殴りつけられるクレヨンしんちゃんのぬいぐるみとは違うのです。

 

ミンジは学校で最も反抗的だった男の子が失踪したとき、必死で彼を見つけ出す方法を考えます。生徒たちに相談し、町に出るバス代を稼ぐためにレンガ工場で働いたり、探し出す当てもないのに町へ出てまわりの人間から疎まれながらしつこく聞き回ったり、無駄足に無駄足を重ねてそれでも探し続けます。

映画を観ているあいだずっと、そして観終わってからも、ぼくにはなぜこうまでしてミンジが男の子を探し続けるのかがわかりませんでした。少々プロパガンダ的な感動の再会にそれでもジンとしつつ、しかし最後まで「あの子を探し」続ける理由がわかりませんでした。

 

きっとここに、教師としてのぼくの限界があるのだと思います。ぼくは教師には向いてない。

 

泥まみれになり、へとへとになったミンジと男の子との再会、そこで初めて生まれた関係性は、ぼくのような考えを度外視したミンジだからこそ得ることのできたものです。

最後、生徒がそれぞれ好きな字を黒板に書いていく場面で男の子が書いた字。それを見て微笑むミンジ。笑みを交わし合う生徒たち。ぼくがこれまでに見た映画のなかでは最も美しい (映像としても色彩が素晴らしかった) このラストシーンの感動は、きっと永遠に体験することがないし、またしたいとも思わないのだろうなと思いつつ、けっきょく最後まで好きになれなかった塾講師のバイトについて、そこで出会った生徒たちについて、少しだけ想いました。

 

バイトいやいや月間⑯ ともあれフィナーレ

 

3/28 (火)

 

小学校の先生なめてました。マジすんません。

これまでぼくは、小学校の勉強とか誰にでも教えられるし、中高と違って部活動もないし、小学校の先生って楽そうだなあと思っていた。が、塾で小学生のクラスを持つようになって考え方がまるっきり変わった。小学生は怪獣だ。彼らの先生になるということは、怪獣が所狭しとひしめいている檻の中にひとり孤立無援で放り込まれることに等しい。マジやってらんねえ。小学校の先生、これまでなめてて申し訳ありませんでした。塾講ですらこんなに大変なのだから、小学校の先生ともなれば毎日が戦場だろう。

子ども好きの人ならいやじゃないのかもしれないけど、ぼくはとりたてて子どもが好きなわけじゃないのでストレスが半端ない。もちろんがんばって勉強していたりすなおに言うことを聞いてくれる子もいて、そういう子たちに対してはこちらもできる限りフォローしてあげようという気にもなるけれど、大半はどうしようもない子たちで、まあ無理矢理塾に来させられてるんだろうし彼らをやる気にさせるのはこちらの仕事なのでそこはしかたないとしても、人としてどうなのって言いたくなるような子が多い。「小学生なんだから」と思われるかもしれないが、私的にはこうしたことに小学生も大人もないと思う。すなわちまともな人間は子どもの頃からまともだし、そうでない人間はそのまま大きくなっていくのだ。そしてまともであるかないかはほとんど家庭によって決まる。まともな家庭の子がまともな大人になり、そうでない家庭の子がそうでない大人になる。ここの負の連鎖を断ち切るのが先生という職業なのかもしれないが、バイトの塾講師にはどだい無理な話だ。そこまで求められては困る。

 

そんなわけでめちゃくちゃ疲弊して小○社&国、中○英と授業した後、いちおう春期講習前期が終了したということですべての家庭に電話連絡を行った。これまでにも書いたとおりぼくは電話が苦手でもし自分の電話のようすを録音で聞かされたら赤面&遁走すること間違いなしのレベルなのだが、そんなこともいってられないので次から次と、ひたすら、1時間ぶっ続けで電話していた。さすがにこんだけすれば少しは慣れてくるもので、最後のほうはどうにかまともな会話ができていたのではないかと思う。

当然、楽しみにしていたサッカーには間に合わなかったので、帰宅して晩ご飯を食べたあと、録画で見た。結果は4-0で日本の勝利だった。勝てたのはよかったけど、内容的にはいただけない試合だった。MOMは1G2Aの久保。次点はUAE戦に引き続きビッグセーブ&PKセーブの川島。素人目では、酒井高&山口のダブルボランチと森重が不安だった。

 

「バイトいやいや月間」と称し、これまで長らくバイトに関するあれこれ (主に愚痴) を書いてきたが、今月のバイトはこれで終わった。ので、「月間」としてはこれで終了となる。とはいえ4月から春期講習後期も始まるし、バイトじたいは今後も続けていく予定なのでぜんぜん落ち着いたという感じはしないのだが、なにはともあれ、最低週4のいやいや月間は乗り切った。

今月はろくに本も読めずバイトばかりしてしまったので、これからはそうしたことや執筆、勉強、そして友達と遊んだりできたらなと思う。

 

バイトいやいや月間は終わった。春期講習はつづく (ともあれフィナーレ)。

 

マジでトンズラ5秒前 (バイトいやいや月間⑮)

 

3/27 (月)

 

起きたら13時前だった。

例によって夜更かししてしまったからだが、それにしてもひどい。

授業は15:40からで、予習のことも考えると遅くとも14時半には家を出る必要があった。準備 (身だしなみetc) と昼飯にそれぞれ30分かかるとして、13時半には動き出さないといけない。ということはゆっくりしてられるのは残り30分。ここまで考えて、ぼくはぐったりとベッドに倒れた (いや、元から寝転んでいた)。

こんなふうに現実が差し迫ってきたとき、果たしてどんな行動を取るか。……ぼくはこれまで繰り返してきた如く、現実逃避をした。今回の場合は枕元に置いてあったスマホを手に取り、YouTubeを開いた。

次に時計を見たとき、時刻は14時になっていた。こうなったら15分で準備することにして、とりあえず何か食べないと——と思いつつ、引き続きYouTubeを見た。

次に時計を見たとき、時刻は14時半になっていた。ぼくは真剣にトンズラしてしまおうかと検討し始めた。今から塾に行こうと思ったら、昼飯どころか顔を洗う時間もない。寝不足&空腹&寝起きのひどい状態で、夜まで乗り越えられるとは思えない。昨夜午前四時まで起きてしまっていた時点で、こうなることは決まっていたのだ。今更どうすることもできない——と。

だが、ここでトンズラしてしまったらほんとうのクズになってしまうな、とも思った。慌てふためく塾長や社員の方、いつまでも先生が入ってくるのを待つ生徒たちの顔が脳裡に浮かび、今年二十四になる人間として、さすがにそれはやっちゃいけないだろと思った。が、理屈では分かっていても、どうしても行きたくないのだ。逡巡しているあいだも時は過ぎていく。14:35、14:40、14:45……ぼくはベッドから起き出した。

家を出たのは14:55だった。ちょうど電車が行ってしまう時刻だったので、いくらかでも精神を整えようと思い、駅前のコンビニで煙草を吸った。くらっとした。やはり空腹のときに煙草は吸うものではない。駅中の売店で果汁グミを買い、口に放り込みながら電車内で板書案をなぞる。

悪いことは重なるもので、こういう日に限って電車が止まる。どうせなら1時間とか止まってくれればいいのに、線路内立ち入りの確認とかで7、8分だけ止まる。これでは遅刻の言い訳にもならない。

塾の最寄りに着いたとき、すでに15:20を回っていた。扉が開くと同時に走り、どうにか半頃に出社。10分で確認作業を済ませ、授業にのぞんだ。予習不足というよりは精神面で準備ができておらず、頭も半ば止まっていて、ぼろぼろだった。

2コマぶっ続けで授業した後、この濁った頭をどうにかしようと思い、コートも着ずに塾の外を散歩した。寒かった。俺は何をやっているんだろう、と思った。

その後の1コマは前2コマの至らなさを取り返そうと励み、どうにか最低限のことはやった。が、肉体的にというよりは精神的に疲れ果て、塾長から口酸っぱくいわれている保護者への電話もせずにさっさと退社した。逃げるように退社した。

明日も同じ時間から授業。現実逃避の気持ちから今夜も夜更かししてしまいそうだけど、せめて朝早く起きるようにはしたいと思う。

 

とんずらとは、逃げることをいう俗語。犯罪を犯した者が逃げる場合などに特に用いられる。以下を組み合わせた合成語である。

・とん - 遁(とん)、逃げることを意味する。遁走など。

・ずら - ずらかる、逃げ出すことを意味する俗語。

(Wikipedia「とんずら」)

 

バイトいやいや月間はあとちょっとだけ続く。果たして、最後まで遁走せずにいられるか。

 

バイトいやいや月間⑪⑫⑬⑭

 

3/20 (月) 春分の日

 

「きょうは塾ないよ」「ほんとですか!?」ぼくは歓喜に打ち震えた。塾が無い!「うん。祝日だからね」「ということは、もちろんぼくは行かなくていいですよね」「もちろんだよ……なーんてね」「え?」「そんなわけないじゃないか。祝日だろうと塾はあるよ」「どっちやねーん!」

という悪夢で目が覚めた。寝る前から「もしかして明日塾ないんじゃないか?」と期待していたので、それが夢に出てしまったらしい。

実際のところはどうなのだろう。ぼくは無意識のうちに祝日だろうと大雨警報が出ようと塾はあるものと考えていたが、おとといA校で社員が話していたのを耳に挟んだ限りは、どうやらA校は休みのようだ。それではきょうぼくが行くB校は? やっぱりA校が休みなのだからB校も休みだろうか? うーん……

A校の塾長にラインで聞こうかと思ったが、嫌いな塾長に借りを作るようでいやだし、そもそもほかの校舎のことは知らないかもしれないので無難にB校の塾長にメールを送ることにした (B校はヘルプで行っているためラインは知らない)。

が、一向に返事が来ない。もし授業があるとしたら、15時には家を出ないといけない。果たしてどうするか。悩んだ末、校舎に直接電話してみることにした。といっても塾という職場の性質上、あまり早くに電話しても誰も出社していないだろうことは予想できたので、14時になるのを待ってからコールする。プルルルル……出ない。しかし大学時代の友達で塾に就職したKはふだん14時半に出社すると言っていたし、単にまだ誰も来ていないだけかもしれない。15時に再びコールする。……出ない。16時……出ない。16時半……出ない。このあたりでようやくきょうが休みだと確信することができた。

あるかもしれないと思っていたバイトがなかった。そのことがわかってぼくは喜んだか? ……確かに喜びはしたが、その前にほとほと疲れ切っていた。というのはこの日ぼくは朝からずっと祈り続けていたからで、特に校舎に電話しているときは「出るな……誰も出るな……」と心臓が張り裂けんばかりだった。最初から100%あるとわかっていたら諦めもつくが、1%でも「きょうバイトないのでは?」と思ってしまうと途端に行きたくなくなる。これは泳げない子どもが霧雨の日に「きょうプールありませんように」と祈ったりすることと似ている。あるいはもっと普遍的なのは、大雨の日に祈る「きょう学校ありませんように」か。

とにかく最初からあるとわかっていれば観念するんだけど、少しでも「ないのでは?」と期待してしまうとものすごく行きたく/やりたくなくなる。「神様、どうか学校がありませんように」とふだん信仰に疎いくせに急に祈りだしてしまう。少なくともぼくは突然祈りのことばを唱え始める。

というわけで、春分の日、祝日である3/20もぼくは朝から祈り続け、結果めでたく塾はなかったものの、そのとき既に祈り疲れていたのであった。揺れ動く心理に疲弊し切っていたのであった。というわけでこの日はせっかく降って湧いた休みだったにもかかわらず、ものすごく疲れた。もちろん何もできず、どこにも出掛けられなかった。

 

 

3/21 (火)

 

B校でのバイト。いつも通り。恙なし。

 

 

3/23 (木)

 

A校でのバイト。授業後、小○のテスト採点を頼まれる。(時間外労働だろこれ) と思いながらかえって採点しやすい悲惨な解答用紙を採点。「ほんとはデータ入力までやってほしかったんだけど、もうミーティングしたいからそこに置いといて」と塾長に嫌味を言われた後 (チッ)、初めて顔を合わせる社員の方と挨拶してからミーティング開始。内容は今度始まる春期講習について。「みなさんお忙しいと思うんでさっと終わらせます」ということばとは裏腹に、特にこれといった連絡事項もないのに塾長はムダに話を引き延ばし、けっきょく30分近くかかった。帰りの電車で優先席に座っていた酔っ払いがゲロる。扉にもたれて本を読んでいたぼくはさりげなく次の駅で移動。けっこうケポケポやってたので隣に座ってたひとはたまったもんじゃないと思うんだけど、次の駅に停まるまで立ち上がらなかった。なんていうか、こういうところってほんと日本人だよなと思う。

23時過ぎに帰宅してのち、親が用意してくれていた晩ご飯を食べ、さっと洗い物をし、さっと風呂に入った。この日は24:30にキックオフだった。ずっと前から楽しみにしていたワールドカップ2次予選、日本対UAEの一戦である。私的MVPは前線で的となり、いかんなくキープ力を発揮していた大迫。次点はビッグセーブで流れを譲らなかった川島。今野と久保もよかった。吉田も見違えていた。酒井宏もさすがマルセイユで活躍するだけあるなと思った。

 

 

3/24 (金)

 

大学の友達で親友 (とぼくは思っている) のSと登山。この楽しみがあったからやってこれた。近々レポを書きます。

 

 

3/25 (土)

 

朝、起きたときから筋肉痛だった。しかも昨日山から帰ってきて飯を作る元気もなくベッドに倒れたので空腹だった。が、特に食べたいものもなかったので文旦で間に合わせた。八朔とグレープフルーツのあいだみたいな柑橘類で、皮も比較的向きやすく、おいしい。最近の我が家は暇さえあれば文旦を剝いている。

さて、きょうからいよいよ春期講習だった。15時前に出社し、予習をした後19:30まで授業。塾長から生徒の保護者に電話するように言われる。この塾は保護者への電話を多くすればするほど向こうから信頼してもらえると考えているので、特に何も用がなくても生徒を帰した後に電話をするように口酸っぱく言われる。ふだんは適当にごまかして怠っていたぼくだが、今回、春期講習が終わるまでにすべての家庭に連絡するようにと命令されてしまったので、しかたなく2件だけ連絡した。しっかし、ぼくはほんとうに電話がへただ。その上「生徒のマイナス面は言うな。保護者を苛立たせるから」と塾長から釘を刺されているので、たとえば最近ちょっとうるさいとか、集中力が切れているからお宅でも話し合ってみてくれとかいうことも言えない。我ながら拙い電話であった。『ドラえもん』で行状がだらしないのび太を改心させるために、ドラえもんが自分の言動を客観視させる道具でのび太を青ざめさせる話があったが、もしそれで自分の電話のようすを見させられたらぼくはきっと顔を赤らめる。電話力だけでなく、コミュ力も足りないなあ、と思った。あと社会経験も。

本来、春期講習のあいだはずっと同じ先生がそのクラスを担当しなければならないのだけど、事前に26日 (日) は無理だと言っていたので明日はぼくのクラスはほかの先生がやってくれることになっていた。代講してくれるおっさんの先生に授業範囲を説明する。3分で済むことなのにいちいちわかりきっていることまで言ってくるので、打ち合わせが終わりC先生が別室に消えた途端「チッ」と舌打ちして「鬱陶しい……」とこぼしていたら、誰もいないと思っていた背後にD先生がいた。D先生はまだ若い社員の方で、ぼくはこの校舎でゆいいつ好感を持っている。D先生は聞こえなかったふりをしてくれて、ぼくはほっと胸を撫で下ろした。ふだん猫をかぶっていることはバレてしまったかもしれないが、まあどうでもいいや。というか、もうすでにバレてしまっているかもしれなかった。いまこの文章を書いていて思い出したのだが、この前も塾長に「マスクってどうしても外せない? 無理にとは言わないけど」と嫌味な言い方をされ、「すみません、花粉症なんで無理です」と言って最初から最後まで着けっぱなしでいたことがあった。たぶん、ぼくが多少生意気なやつだというのは向こうも気づいているだろう。まあ実際、ぼくは多少生意気である。教育実習のときはある教師に誰もいない保健室に連れて行かれ、「おまえは生意気だから一回社会に出てへし折られろ」と脅された。(そしてそのことを最終日の飲み会での挨拶で暴露し、当人を慌てさせた)

……と、ここまで書いて、書いてきた内容とは逆に、「もうちょっと大人にならないとなあ」と思った。反抗したくなっても内心で「くだらね」と思いつつ「はい!」と従える大人にならないと。

ここのところあまりに疲れてブログに書けていなかった分を一気に書いた。少しすっきりした。さあ、あとは読了したのに書けていない本の感想と登山レポ、小説を書こう。

 

バイトいやいや月間は少しずつ終わりが見えてきた。(つづく)