異動/水槽/鳥

 帰ってくるなり、羽田さんが異動になった、と妻のさと子は言った。そうなんだ、と相槌を打ちながら草介が料理を温めているあいだも、ソファに腰かけてじっと考え込んでいる。これはだいぶ落ち込んでいるな、と草介は思う。羽田さんは妻が新卒で配属されたときから経理部にいる上司だった。仕事上のミスは多いが、帰りが遅くなるといつも飲み物やお菓子を差し入れてくれる。羽田さんがいなくなったら経理部は地獄よ、とさと子は嘆いた。
「でも、秋にも異動があるんだね」
「秋異動は何かしら問題起こしたひとがするみたい。羽田さん、遅刻が多かったからなあ」
 この先どうやって仕事していけばいいんだ、わたしも絶対に次の春に異動してやる、とつぶやきながら、さと子は草介の作ったパスタを食べ始める。時計を見ると、もう九時を過ぎていた。重い靄のようなものが胸の中に下りてくる。

 学年ごとに机が並べられた職員室で模試の発注手続きをしながら、異動について考える。
 中高一貫校の教員である草介にとって、異動は縁のないものだった。もちろん年度が替われば担当する学年は変わるし校務分掌が変わることもあるが、職員室内で机の位置が変わり、二十数名の教員の中で関わる顔ぶれが少し変化するだけだった。仕事の内容が大きく変わることも、勤務場所が変わることもない。水槽の中にいるようだ、と草介は思う。中の空気は入れ換えられ時には水を替えられもするが、その大きさや中にいる魚は変わらない。まれに新しい魚が入ったり古い魚がいなくなっても、総体としての中身は変わることがないのだった。適度に調整された水槽の中は居心地がよかった。その居心地のよさが気持ち悪くもあった。淀んだ空気が肺に溜まり、自分がどんどん愚鈍になっていくような気がする。
 最終下校のチャイムを機に草介は職員室を出て昇降口に向かった。月一回の割で下校指導の仕事が回ってくるのだった。生徒に挨拶をしながら門を出て、最寄りのバス停に向かう。すでに日が沈みかけ、西の空が赤く燃え上がっていた。鴉の群れが鳴き交わしながらやってきて、大きな羽音を立てる。バス停の隣に大きな公園があって、そこを根城としているのか、鴉はいつも夕方になると大群で押し寄せた。ヒッチコックの映画にこんなシーンがあったな、と見るたびに思う。まるで水槽の魚のように、ひとが鴉に襲われてゆく。
「先生さよなら」
 さようなら、と返事をして、バスに乗っていく生徒を見送る。見えなくなると、公園に入って煙草を吸った。背の高い樹木に囲まれた公園の中はまっ暗だった。大きく息を吐き出した。どれだけ吐いても胸の中に泡が残る気がした。鴉の大群がきて、何もかも啄まれてしまえばいいと思った。そう思う草介は心地よい水の中でまどろむ愚鈍な魚に過ぎなかった。短くなった煙草を捨て、新しく火をつける。まだもどってやらなければいけない仕事があった。肺に溜まった水を出しきるように、大きく息を吐き出す。ぱらぱらと音がして、餌を撒くように雨が降ってくる。ぬるい雨の中を、草介は静かに歩く。

秋/深夜の道路/音楽/如雨露

 明大前で飲むときはいつも終電を逃した。逃す、というか、ほんとはぎりぎりまで気づかないふりをしているだけなのだけど、気づいているのかそうでないのか、ヨモギさんはいつももう終電がないと知らされると、「じゃあ歩けばいいね」と言って歩き出すのだった。
 去年留年をしているヨモギさんは同じ四年生でもぼくの一歳年上で、サークルでは常に話の中心にいるひとだった。飲み会の間じゅう一度も席を動かずまわりにひとがいなくなるとスマホをいじっているぼくとは違う世界の住人だった。それでもサークルの飲み会が終わるとヨモギさんはいつも「あと一杯だけ飲んでこうよ」とぼくを誘った。住んでいるアパートが近いせいだった。明大前で飲むと、終電を逃しても二人とも歩いて帰れる。ヨモギさんは何杯飲んでも顔色の変わらない酒豪だった。
 ぼくもヨモギさんも明大前から二駅の桜上水に住んでいた。二次会まで出ると、桜上水に帰って飲み直すには微妙な時間になる。というか面倒なのだった。電車に乗ってしまえば、そのまま帰ってしまいたくなった。それに酒を飲んだあとの夜の散歩が好きだった。ヨモギさんはきょうもコンビニでビールを買った。この寒いのによくやるなあと思う。コーヒーがドリップされるのを待っているぼくに、カフェイン飲んで酔わないの? とヨモギさんは頓狂なことを言う。
 甲州街道に出て道なりに歩く。日付が変わっても車通りが多い。首都高が真上を走る甲州街道を歩いていると車の走る音がぐわんぐわんと反響して足下が揺れているような気持ちになった。吹き抜ける風が肌寒い。もう秋なのだった。遠くの信号が青から赤に変わって減速した車のテールランプが灯る。少し先をゆくヨモギさんが鼻唄を歌っていた。
「なんで『あじさい』なんですか」
「なんでだろうねえ」
 ヨモギさんの鼻唄には脈絡がなかった。夜だろうと『Morning Glory』を歌ったし、とっくに夏が終わっていても『君は天然色』を歌った。少し古い曲が好きなのかと思えば昨年解散したばかりのバンドの曲を歌ったりもする。一つ言えることは、ぼくとは絶妙に音楽の趣味が重なっているということだった。
「こうやってお酒飲みながら歩いてると、永遠に歩ける気がしてくるね」
「いや酔ってるだけでしょ。というかもう酒ないじゃないですか」
「お酒は飲んでるとなくなるからかなしいねえ」ヨモギさんは飲み終えた缶を自販機横のゴミ箱に捨てた。なんとなく見なかったふりをして、ぼくは煙草に火をつける。
 ガードレールを挟んですぐ横を走り抜けていく車がどれもすばらしく自由であるような気がした。夜の道路を駆け抜けていくのは気持ちいいだろうな、とぼくは思った。首都高の灯にも照らされて、甲州街道は煌々と光っている。
 ヨモギさんがまたいつのまにか鼻唄を歌っていて、それが藤井風の『さよならべいべ』であることに気づいてぼくは不意に胸を衝かれた。理屈の通らないかなしさが一気に襲ってくる。ぼくはゆっくりと煙を吐いた。
ヨモギさんは、卒業まで何やって過ごすんですか」
「私も煙草吸いたい」
 ぼくの質問を無視し、ヨモギさんは手を差し出した。箱ごと渡し、ライターで火をつけてやる。傍目にも慣れていないとわかるやり方で煙を吐くと、もういいや、といって路上に捨てた。ぼくは見なかったことにした。
「とりあえず、植物を育てる」
「え? ああ、さっきの……」
「いまね、私の家のベランダ、かるく熱帯状態で」
「はあ」
「今度引っ越すところがね、ベランダがないから、いまのうちに大きな鉢植えを育てようと思って、花屋さんで見かけるたびに買ったの。そしたら、外が見えなくなるくらいみんな生長しちゃって。植物の生命力ってすごいんだねえ」
「すごいんだねえじゃねえよ。というかそれ、引っ越すときどうするんですか」
「室内で育てられそうなのは持っていくけど、そうじゃないのは植えるしかないかな」
「どこに?」と聞いてすぐに問題はそこじゃねえよと思ったが、もう面倒くさくなったので黙っていることにした。陸橋が近づいてきて、もう下高井戸まで来たんだなと思う。この次の陸橋を渡ればアパートはすぐだった。ヨモギさんは植樹の候補地について話し続けている。やっぱりおおぞら公園かなあ、とつぶやいて、
「じょうろで水をやったことってある?」
 とだしぬけに聞いた。
「たぶん、小学生のころとか、いや、幼稚園のころか……。きいろいゾウのじょうろがあったような……」
「ああ、あったあった。あとさ、ペットボトルで作ったりしなかった? 錐でたくさん穴をあけて」
「ああ、やりましたね。で、じょうろがどうしたんですか」
「植物を育てるときめたとき、モチベを上げようと思って、すてきなじょうろを買ったの。陶製の、カーキ色のポットみたいなやつ」
 それでね、とヨモギさんは高い声で話し続ける。いま、彼女の目は日ざしを浴びた水滴のように輝いているんだろうな、とぼくは思う。ヨモギさんは自分の好きなことについて話すとき、とても楽しそうに話す。それはとてもすてきなことだった。煙草はポイ捨てするけれど。
「そのじょうろで水をやると、ほんとうに雨が降っているみたいに見えるの。じょうろって、漢字だと雨露の如くって書くけど、ほんとうにそうなんだなあって思って。ほんとにね、お天気雨みたいに見えるんだ。そしたら私、もう雨を降らせられるんだって思って」
 何度も「ほんとうに」を連発するヨモギさんの話を聞きながら、その声もきらきら光る滴のようだとぼくは思った。ヨモギさんと話していると、植物が水をもらったように明るい気持ちになる。ぼくはこの時間が好きなんだなと思う。あと何回、こうして歩けるだろうか。
 片側四車線の甲州街道を渡る陸橋の途中で立ち止まって車の流れを見下ろす。それは光の川だった。一台が通過すると絶えずもう一台がやってきてそれがいつまでも続く。都市の川は淀むことなく一定のリズムで光りながら流れていた。やっぱり免許を取ろうかなとぼくは思った。隣を見ると、手すりの外に出したヨモギさんの手が何かを握っている。じょうろだ、とぼくは思った。ヨモギさんの持つじょうろから、光る滴が雨の如く注がれている。ヨモギさん、と思わず大きな声が出た。ヨモギさんはぼくを見て目を丸くする。「どうしたの?」
 ヨモギさんの手は何も持っていなかった。なんでもなかったと謝ると、「やっぱりカフェイン飲んだから酔ってるんだ」と理屈の合わないことを言う。ぼくたちはしばらくそこで車がやってきては去っていくのを眺めていた。隣から鼻唄が聞こえてくる。ぼくは苦笑した。それはランタンパレードの『甲州街道はもう夏なのさ』という曲だった。
「もう、秋ですよ」
 そうだね、とヨモギさんは笑った。冷たい風が吹いてくる。ぼくたちは陸橋を渡ったところで別れた。新しい煙草に火をつけながら、ヨモギさんは今夜もベランダの植物に水をやるのだろうかと考えた。陶製のポットのようなじょうろを手にしたヨモギさんが慈雨のように光そのもののように水を注ぐ。それはとてもすてきな光景だった。ぼくの内にも、まだ雨の余韻が残っている。それは一定のリズムで鳴る音楽だった。夜はもう少しだけ残っていた。

 

 

 

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ヨモギさんが歌った曲

『花束みたいな恋をした』/京王線の思い出

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『花束みたいな恋をした』のDVDを観た。出てくる小説、音楽のことごとくが自分の通ったもので、恥ずかしくなるほどだった。ただ、映画内に出てくるコンテンツについて語ろうとすると「これ聴いてたわ〜 (読んでたわ〜)」しか言わなくなりそうなので、ここでは「街」について話そうと思う。

『花束みたいな〜』は京王線沿線が舞台となっている。ぼくは東京にきてからひとり暮らしを始めるまで14年間、京王線稲城駅に住んでいた。ひとり暮らしを始めてからも、妻が当時、京王線桜上水駅に住んでいたので、やはり馴染みがあった。

有村架純演じる絹の実家は飛田給にあるという設定だ。飛田給味の素スタジアムの最寄駅で、逆にいえばそれしかない小さな駅だった。もちろん人流はあるけれど、調布から新宿方面ではなく八王子方面への下り電車に乗るという点からも、ぼくの中では郊外の静かな駅のイメージである。飛田給の駅から30分くらい歩くと武蔵野の森公園野川公園、武蔵野公園の三つの大公園が隣接しているエリアに行けて、ぼくはそこが好きでよく駅から歩いたものだった。ちなみに、作中で絹と麦の二人が何度か渡っていた横断歩道の隣に流れる川はおそらく野川だ。京王沿線で川といえば多摩川かその支流の野川で、もちろん二人が一緒に住んだ家から眺められた川は多摩川だから、二人の恋は本流と支流の間で移ろったともいえる。

菅田将暉演じる麦のアパートは調布駅にあった。その後、同棲を始めたのも「調布駅から徒歩30分」の家だ。だがベランダからの眺めを見たらそれが調布駅というよりも京王多摩川駅に近い場所であることがわかる。ベランダの右側には橋が見えていた。あれは稲城市調布市を結ぶ多摩川原橋だ。京王多摩川駅からだと、徒歩10分くらいだろうか。ぼくは院生のとき、家族の不和に耐えかねてこの河原を訪れ、日中は川面に接した場所で本を読んだし、夜、対岸の灯しかなくなったころには登山用のガスバーナーで湯を沸かしてウインナーを茹でたりコーヒーを沸かして晩飯に代えていた。苦しい時期だった。

最初に絹と麦が出会ったのは明大前駅だ。明大前は数少ない特急の停まる駅で、新宿から特急に乗ると、新宿→明大前→調布の順で停車する。言わずもがなだが明治大学のキャンパスがある。駅を出て北に歩くとすぐに甲州街道に出る。甲州街道は深夜でも車通りの絶えない道路で、真上を首都高が走っている。煌々と明るい。歩いて10分ほどで隣の下高井戸駅に着く。妻のアパートは下高井戸と桜上水の中間にあった。小田急線の豪徳寺駅でひとり暮らしを始めたぼくは、よく世田谷線で下高井戸まで出てアパートまで歩いたものだった。世田谷線に乗れば二駅で4分、歩いても下高井戸まで20分くらいだった。下高井戸の駅前にはぽえむという喫茶店があって、一年の半分くらいはここで本を読んでいた。まだコロナがなかった時分、店も23時まで開いていた。仕事終わりにコーヒーを飲んで本を読むのが楽しみだった。結婚して引っ越すとき、ぽえむから離れるということだけが気がかりだった。いま新生活を始めている街には両手ではとても足りない数の喫茶店があるが、それでもぽえむを超える喫茶店とは出会えていない。またぽえむのマンデリン飲みたいなあ。カレーもたべたい。

絹と麦が明大前から調布の麦のアパートまで歩くシーンがある。そのとき、甲州街道はもちろん、途中で通過する駅を歩くカットもあって、つつじヶ丘の駅前が映っていた。柴崎亭というラーメン店の前のあたりだ。ぼくは院生のとき、つつじヶ丘の塾でアルバイトをしていた。自分でも驚くほど、京王線すべての駅にエピソードがある。

中央線ではなく京王線を選んだというところに、この映画の勝因があるのではないか、となんとなく思った。

京王線には高円寺も阿佐ヶ谷もなかった。調布は典型的な「郊外の大きな駅」だったし、おしゃれな喫茶店千歳烏山より新宿側に行かないとない。芦花公園の三月ができたのは最近だし、千歳烏山でさえ南蛮茶館くらいしかなかった。あ、仙川にレキュムデジュールがあった。妻と初めて訪れた喫茶店であり、調布駅で卒倒する前にカクテルを飲んだ場所でもあった。京王線は若者の沿線というよりも暮らしの沿線だと思う。良くも悪くも生活臭がする。落ち着きがある。

でも絹と麦はその京王線で恋をしたのだった。落ち着く一歩手前で美しい道のりを歩み終え、LとRにはめていたイヤフォンを同時に机に置いた。それはステレオフォニックの恋だった。

最後、絹のことを思い出している麦が、やはり引っ越していることがわかる。おそらくその街に川は流れていないだろう。脈絡なくそう思った。二人の流れはひととき合わさり、もう交わることがないのだった。

グーグルマップで終わるというのがよかった。楽しかったときの二人が残されていて、でも顔にはモザイクがかかっている。名前のないその他大勢になっているのだった。みんな同じなんだね、観終わったあと、妻が言った。その意味でも二人は匿名の存在なのだった。このへん、岸政彦の『ビニール傘』っぽいなと思った。

甘えと弱音

この2日間、仕事を休んだ。

職種柄、連日で休むなんてありえず、休むにしても最低限の伝達をチームにしないといけないのに、当日の朝に電話して、ただ「体調不良で休みます」とだけ伝えて逃げるように電話を切った。嘘だ。「発熱したのでPCRを受ける」なんて嘘に嘘を塗り固めた。今年度に入ってからもう何度も休んでいるせいで、こんな愚かな言い訳がまろびでた。

少し前から転職活動を始めている。生活するためには働かないといけない。半年前に結婚して家庭もできた。妻を心底大切に思っている。

にもかかわらずこんなふうにずる休みしてしまうのは何度目か。学生の頃に陥った無気力状態になっている。理由がわからない。朝早いのと土日出勤があることを除けばそこそこホワイトな職場だ。人間関係も良好。先輩たちは優しい。

でもどうしても行けない。朝、ベッドから出られない。欠勤連絡をするのも相当な心理的負担だ。何度も無断で休んでしまおうと思った。

妻が仕事に出た後の家にひとりでいると、ますます職場に行きづらくなってしまった、皆にどう思われているだろう、このままもう一生出勤できないのではないか、そうしたら生活していけない、とどんどんマイナスな思考に溺れて、仕事に行くよりもしんどい気持ちになる。そうなることが目に見えているのに、休んでしまう。

ひとはこうした状況を無気力状態とも適応障害とも抑うつ状態とも言う。確かに僕は学生の頃からもう4年以上、抗不安薬を処方され飲んでいる。でもこれまでは休まず通えていたではないか。自分がどんどん楽なほうに流れ、甘えて堕していった結果だ。

明日は何としても職場に行く。鉄面皮を装って、何事もなかったように席に座る。どうせ今年度限りで去る職場だ。何と思われようが構わない。そう書くのは簡単だが立派な社会人に囲まれた中で自らに捺された烙印を意識しつつ仕事をするのは易いことではない。でも行くしかない。

職種柄途中で辞めるのは難しい。なんとか春まで働いて転職するしかない。転職活動をしながらがんばるしかない。でも朝6時半に家を出て19時半に帰ってくる生活の中で転職活動を行うのはしんどい、と書くとそれも甘えでしかない。もっと長く働いているひともごまんといる。でもこの場合そんな比較は関係なくない? 相対的な指標なんて意味ない。

小説も書きたい。いま書いている小説は賞が狙えると、初めて本気で思ってる。でもずる休みしたところで気持ちがしんどくて書くどころではないんだよな。やっぱ働かなきゃ。

世界は一日で印象を変える。明日職場に行ったらなんでもなかったように明るくなるかもしれんし。でもこんな落ち込むこと、社会人になってからはなかったな。

(朝早いとか休日出勤が多いとかそういうことまで含めて)仕事がしんどいのか、単に甘えが出てきてるだけなのか。それもわからん。

夜が深まると胸がちりちりする。気づいたら呻き声が出てる。甘えんな自分。どこか静かな山の一室で2ヶ月くらい籠って小説書きたい。甘えんな自分。太宰を批判できないな。

父に似てきた

 

自分でも話を聞いているつもりで右耳から左耳に抜けているときがあるし、疲れているにもかかわらず帰宅と同時に料理を始めて手の込んだごはんを作りがちだし、彼女に何かいわれたらとりあえず「へけっ」とハム太郎になってやり過ごしたりしている。へけへけ。

 

不動産屋に行っても話しながら自分でうわあと思うことがある。初対面のひとと話すときのこの感じ、丁寧なのかそうじゃないのかようわからん感じも似ている。これでえせ大阪弁を繰り出すようになったらかんぺきだ。父は値切るときだけインチキな大阪弁を話すのである。

 

実家にいたころは、ぼくはだいたいのケースにおいて母の味方についていて、それは一人暮らしをしているいまも変わらないが、昔より父の行動原理がわかるようになった、気がする。

 

たとえば料理も、なんで疲れて帰ってきてわざわざ手の込んだ料理を作るのだろう。なんでいらいらしながら具材切ってるんだろうと思っていたが、あれは父なりのストレス発散法やったんやな。ぼくも、たまに無性に野菜を切ったり肉を焼きたくなって、たんまり食材を買い込んでわーっと調理することがある。仕事のストレスが発散できるのだ。

 

父はハム太郎のまねはしていなかったが、ぼくや母から何か注意をされると、よく「ふぁっ」と気の抜けた声を出してごまかしていた。それを聞くと怒る気が失われ、ただあきれるしかなくなるのだ。しかしぼくもいまや似たようなことをやっている。あれは父なりの甘えであり、そして追及をかわすテクニックやったんやな。まあだからといってゆるさんけどな。さすがにぼくのほうがまだずっと話を聞いていると思うし。

 

血のつながりを感じるというのはふしぎなもので、あれだけいらだっていた父に少し似てきたと思っても、嫌悪感どころか、なんかちょっとくすぐったいような感じもする。まあ大半は自分にあきれる気持ちやけど。そして距離が離れたから、というのも大きいんだろう。これが実家暮らしやったら受け入れられへんかったかもしれん。家族ともある程度ディスタンスがあったほうがええんやな。きっと。

 

今年度はいろいろな変化があった年やったな。まだ三ヶ月あるけど。自分が大人になった、というか、若者ではなくなってきた、としみじみ感じた年でもあった。たぶんこれはいまの時世が関係している。死を恐れないのは、若さの特権だ。ってこれ、だれの文章やったっけ?

 

内面だけでなく、明確に変わることもあって、いやあ、今年度はすごいな。めっちゃいろいろあったな。というかあるな。

 

まあとにかく、父に似てきた、と感じる機会が増えた。彼女に本気でうざがられんようにせなな。少なくとも、平日の朝に「オキロォ! オキロォ! ショクバヘムカエェェ!」って炭治郎のカラスの真似するんだけは、ほんまにいやそうやったから、やめといたほうがええな。へけへけ

 

 

プラットフォームからは都庁が見えた

 

緊急事態宣言を受けて、また授業がオンラインになった。

 

春からの経験でオンライン授業には慣れてきているものの、授業で映すパワポのスライド作りはやっぱり大変で、通常の授業準備よりも大幅に時間を取られる。

 

通常の授業だけでなく、長期休み中の講習や、土曜に開催する特別講座もオンラインで実施している。明日はまさにその特別講座で、スライド作りがまだ残っているぼくは自宅でパソコンを起動した。そして重大なことに気づく。MacBookにはUSBがささらない。

 

これまで、自宅で授業準備をしたりオンライン授業をするときは、MacBook Airを使っていた。でも大学入学とともに買ったMacBook Airはとうとうこわれて、いま自宅にはMacBookiPadしかない。そしてどちらもUSBはささらないのだった。

 

タイプCの変換器を買えばいいじゃないか、という意見が頭をよぎったが、どのみちMacBookもスクリーンがやられぎみで、こんなアーキテクチャパワポを作り、明日授業をするというのは現実的ではないし、何より気持ちがしょげてしまった。

 

というわけでいま、しかたなく実家に向かっている。一人暮らしをする街から実家までは電車で一時間かからなかった。とはいえ、アパートを出たのは二十二時。これから実家に帰って、授業準備をして、へとへとになって眠り、明日は九時から十二時まで授業か……。

 

駅のプラットフォームで壁に寄りかかってふと線路の先を見ると、遠く薄紫色に光る都庁の姿が見えた。この駅から、都庁が見えたのか……。

 

この街で一人暮らしを始めてもうすぐ二年になるが、知らなかった。その光を目にしたとき、二年の歳月を経て、ようやく、この街と顔を合わせた気がした。

 

あとひと月で、ぼくはこの街を出るのだった。明日も、授業が終わったら物件を見に行く。なんだか、一時的であれ住民であったぼくに、まあいちおう見せといてやるかって、街が言っているような、そんな発見だった。

 

まあ、なんだかんだ、いい街やったな。

 

ふしぎとくさくさした気持ちが消えて、ぼくは壁から背を離した。下り電車が静かに滑りこんでくる。

 

 

IKEAがわるい

 

  久々に帰宅した一人住まいのアパート。照明をつけると、部屋の奥には見るも無残に砕け散ったベッド。いや、砕け散ったといっても、さすがに枠の部分は残っている。が、マットレスを置く底板のすのこがばらばらに床に広がり、無用の長物と化している。心情的には、砕け散ったというほかない有様なのだ。しかたがないからベッドの手前にマットレスと毛布を敷いている。かつてベッドだったものと万年床で、6畳の部屋のほとんどは埋まってしまう。邪魔でしかたがないのだが、ひとりではどうすることもできない。業者に頼んで解体、撤去するしかないのだが、おっくうでやっていない。

  一人暮らしを始めるときに、IKEAで買ったのだった。組み立てを頼むとけっこうな額を取られるので、父に手伝ってもらってなんとか自分たちで組み立てた。それもよくなかったのかもしれない。が、心情的にはこう言いたくもなる。IKEAがわるい。

  ベッドは早い段階で壊れる前兆を見せた。上に乗るたびに、何度もすのこが外れる。そのたびに嵌め直すのだが、すのこの長さが微妙に足りない。すぐに外れてしまう。その場しのぎを何度も繰り返しているうちに、ある日、致命的な一撃がきた。彼女が遊びにきたとき、アッシャー家が崩壊するような音を立てて、それは砕け散ったのだ。後には〈かつてベッドだったもの〉が残った。

  ベッドが完全に修復不可能になってから、僕の部屋はみるみる荒廃していった。もともと、彼女の家で過ごすことが多く、我が家は散らかりがちだったのだが、それでも一ヶ月に一度くらい大掃除を敢行して、なんとか過ごせていた。しかし、ダムは決壊した。いくら上辺を取り繕おうが、部屋の奥には2m弱の残骸が鎮座しているのだ。その存在感は大きく、僕から生活を維持しようというやる気を根こそぎ持っていった。まず流しが詰まり、風呂場にコバエが湧いた。洗濯をめったにしなくなった。掃除機をかけなくなった。カーテンを開けなくなった。モーツァルトを流さなくなった。食前の祈りを唱えなくなった。眠る前、「明日はもっと楽しくなるよね、ハム太郎へけっ!」と言わなくなった。

  きょう、久々に自分の家に帰ってきて、もちろん風呂場を使用する気にもならず、銭湯に向かった。幸いにもアパートから歩いていける場所に銭湯があり、自分の家に泊まるとき (というのも妙な言い草だが)、僕は欠かさずそこに向かった。銭湯は、勤めだしてから覚えた快楽の一つだった。たっぷりの湯と広い浴槽は身も心もほぐしてくれた。もわもわの湯気は我々サラリーマンの疲労と悲哀を優しく癒してくれる。銭湯に向かう僕はるんるんだったといってもいい。鼻歌さえ歌いかねない気分だった。銭湯の向かいにあるセブンイレブンでタオルを買う。そしていざ、我らがエル・ドラドへ。

 

 

《都合により23日 (水) までお休みさせて頂きます。ご迷惑をおかけしますが宜しくお願いしま。      鷹の湯。》

 

 

何が《お願いしま。》だ。「す」はどこいったんだ「す」は。僕はがっくりと肩を落とした。そして思った。ぜんぶ、IKEAがわるい。